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しばいてくぞ

友達の友達はクソ説

友達がほめそやすそいつの友達に会ってみたらいけ好かん奴だったということ、法則どころか鉄則ですらあるかも知れない。先に脱線からしておくと、特に人間、友達や「先生」や同業者や「先輩」といった関係にある人間を褒めちぎる時の心理というのは、褒めの中で撫で殺して自分の持ち物化したいという安心欲求欲情によるものである。つまりその人が自分に心地よいモノであることを確証したくてたまらんもんだからあの賛美この美辞でぬめぬめのべとべとに愛撫するのである。つまりつまり、賛美しないと、褒めちぎってないと、そうしてその人の良さへの信仰を維持しないと、その人の良さが確証できない、という瀬戸際に実は追い込まれているのである。つまりつまりつまり、ほめ倒しを始める奴というのは、ほめている相手をもう疑がい出しているのであり、疑い出している自分を否認したいのである(否定の真義と同構造)。自分に仕掛ける逆踏み絵である。すべての「信仰」「信心」に付きまとう宿命。神は試す。お前の中の友達先生同業者「先輩」はお前を試す。でも全部お前の中の出来事。すると、成程それに付き合わされるこっちはいいツラの皮というものである。… というモラリスト的考察のほうを続けたいのだが、これは脱線した註であって、本題が別である。

《友達の友達》以外にも、例えば尊敬する人尊敬する人が、きまって必ず、尊敬する気にならんクソおもろない奴である。気に入ってる人気に入ってる趣味が、きまって必ず、世界を滅ぼす級のクソ趣味である。本が推薦・引拠・絶賛する本が焚書モノのクズカスであること通例中の通例である。今気になってる人や物の元祖もまた首肯できるものであることなど1億回に1回も無い。ウィトゲンシュタインがなんぼおもろくても、フレーゲラッセルに同じおもろさを期待できるか。ニーチェが賛辞を贈るどの古典語文人・どのフランス文人・どの英語文人・どの楽曲も、モノの見事にうんこカスだらけである。でニーチェ自体は著作は固よりその人物からしてたいがい面白い(しかも近親者の伝記がもっとはるかに面白い)。例えばこれ

戦争と農業 (インターナショナル新書)

戦争と農業 (インターナショナル新書)

が掛け値なしに面白い本であるのだが、嬉しがってこの本が依拠している何点もの他の本に当たってみたら、そのノリが裏切られるのみだった。ここに書いたが『ユーザーイリュージョン』が全ページ写経しないかんぐらい最高の感興と最高の啓発の怒涛また怒濤という内容だが、これが引用依拠している他の本は、シャノンだろうとリベットだろうとチューリングだろうと『神々の沈黙』だろうと、まあよくもこんだけというぐらいクソおもろない。他に、

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

  • 作者: デイヴィッド・イーグルマン,大田 直子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2012/04/06

    驚天動地の超絶名著

が、稀に見る大当たりなのだが、これに類する脳-意識論がおもろいと限らず、特にダマシオなんかが呆れるほどクソしょうもない。こうやって例を挙げつのってても仕方ない。無数に思いつくし、思い付け。で、何故こうなるのか。なぜ永井均が映すデカルトがおもろくてデカルト自体はきっしょいキレー事並べたクソ著作なのか。なぜ入不二基義がおもろくてマクタガートの原文が読むに堪えんのか。(今ちょっと注意が必要で、というのは、直接当たると面白さを汲み出せない本を面白くまとめて内容を伝えてくれる本、という話と、おもろい本の著者におもろく見える本までもがおもろいとは限らない、という話とを、ごっちゃにしてしまっている。後者が本題である。)これは先駆者・宗家だからどうした問題とも関係がある。或る有名思想や有名作品があると、これ類似の先行者が居たという発掘作業や実はあの人が先行者なのだという指摘作業がなされることがあるが、先に言ってたからには同じぐらい面白いのだろうと期待しても大体裏切られる。そんな奴ただ先駆的なだけであってその《派生》側や《弟子》のほうがずっとおもろいがなボケということのほうが多い。また、亜流なり「スピンオフ」なりのほうが優秀という場合も多々ある。『拳児』李書文編。ところで、詞だけを見れば、「サイレントマジョリティー」には姉グループの「きっかけ」や本家グループの「Conveyorが、「ドリアン少年」には「逆転王子様」が類似しているが、どれにも何の文句もない。また、

天才と才人―ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響

天才と才人―ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響

  • 作者: D.A.ワイナー,寺中平治,米澤克夫
  • 出版社/メーカー: 三和書籍
  • 発売日: 2003/01/01

この2人もどちらも等しく面白い。このように先行者・後行者の甲乙がまったく付かずただただ面白い話を提供するテーマの最たるものがシュティルナー → ニーチェ問題である(このページも参照)。

さて、なぜいいモノいいとするモノは決まってクソなのか。それは、そいつに見えてる世界と自分に見えてる世界とが違うからである。そいつワールドの中でなんぼイイものであってもそれがこっちにまでイイとは限らん。友達に好ましく映り感じられ確証されている 友達 馬の骨の性質顔つき一挙手一投足がこちらには不愉快極まりないということが大いにありうる。じゃなくて、あって当たり前なのである。あらないとおかしいのである。その友達は所詮他人だ。なんぼ意気投合しているようでも、たまたま何かで一致する対象で意気投合してきただけのことに過ぎないのであり、他ではどうなるかなど何も分からん。他の対象なら一致せず、こいつ趣味わりーなと思うことになるかもしれない(ってか なりまくんねん!!)。その趣味わりー対象が今の話題なら友達だということなのである。そして、ということはだ、今のところは、がオススメするは要らんからがあってくれたらいい、と言えているのだが、それだってアヤしくなってくる。抽象普遍的に言おう。〇〇と思ってたがxxな所を見せたショック!!ちゃんと挨拶もする人なのにまさかそんな犯罪者だなんてネエ云々という驚きを人類というアホが21世紀の今なお続けているが、思ってもいない一面なんてのは、どこの誰にも有って当たり前なのである。お前が思っているの一部・部分・断片でしかない。ってかな、他人というのはその断片イメージだけのものでしか存在しない。おぼえとけ。人生でに87回会ったらその87回の会合で見た聞いた匂った話したのすべて全部なにもかもなのである。という実体が有って8700000回会っても87那由多回会ってもその実体は変わらないという日常的な実感のほうが完全に間違っている。「その人」・人物・ひととなり・性格・パーソン・パーソナリティというものは存在しない。お前にそのつど現れるその人のその現象が有るのみ。いやさらに!!その人にとってもその人にその都度現れるその人のその現象が有るのみなのである。本人にも、《自分》というような実体など無い。誰にも他人が、でなく、自分からしてが、サッパリわからないのである。それの断片的イメージが有るのみだ。万人が万人に幽霊(phantom)であり現象(phenomenon)なのである。だから、どこのどの誰にも、こっちが期待する何かその人というのを期待することが出来ない。そいつにもそれが分かっていないのだから。かく、こんな諸断片経験の世界で付き合いあっているのだから、そいつが思っているそいつの人物とこっちが思っているそいつの人物とが一致することなど、ある訳がない。そして、たまたま何かの拍子に一致して惚れれそうな一面に出会ったらそいつに惚れる、というそれだけのこと。そいつの爾余のいかなる面もお前の愛着に応えてくれる保証が無い。ということを全く知らないから人類は古今東西日夜全日傷付き(け)合い・七転八倒奮迅惑乱し・嗚呼分かり合えないものだと呻吟詠嘆するのである。いいか、これだけは銘記せえ:我々は断片に出会うだけだ。断片しか経験しない。断片の発散源出所たる何かしらの実体Xが存在する事など無い。そしていま、加えて言うが、あの断片もこの断片もというのをやめろ。その人の・その物の全部を愛そうとするな。もっと他のことも知りたいと思うな。何もかもを受け容れようとするな。(ここでも書いたしここでも書いた。)そうして、その「他」に気に食わない点があるとお前らは暴君と化すだろ。だが認めろ、どこまで行ってもお前の中のそいつとそれを死守しようとしているお前が有るのみなのである。

(ということと関連して、ひとが言っていることが本心なのかどうなのかを探るバカという問題がある。何というバカだろう。そいつが何を言ってるにしても、その言ってるその発言、発現しているその言葉、その現れ、現象がすべてであり、一切である。その裏のうらはらに何を秘めていても、その秘めてるX自体がそいつの真実真正の「本」心であるという保証など無い。そいつ自身にすら無い!!自分の内心など自分で「わかっている」ものではない。これは、洗脳・教育・心神ウンタラ・神経ウンタラとか大げさ話に持ってかんでも判ることだ(持ってったらもっと判ることだ)。「インセプション」でも観とけ。いいか、シラフ健康ふっつー人のお前が確かにゼッタイそうだと思っている今のお前の内心内面の思いだって、ゼッタイ究極の真にしてtrueだという保証など無い。その思念はどっかで他人から植え付けられたものだ。それを忘れてるだけだ。従って、他人が何かを言っていてその裏があるという構造など、放っときゃいいのだし、そんな構造などそもそも無い。本人にも自分の本心など社会的構成物なのであって「本」心などではない。思わされとるだけだ。そんな「裏」「内」「中」「本」など付き合わんでいい。断片とだけ付き合え。言表がすべて、現象がすべてだ。嘘なんかつかしとけ。その本心が真実「本」当だと証明できるのでもないのだから。では、何故バカは他人の腹をさぐるのか。それは、他人を・相手を支配したいからだ。そいつのウラもオモテも分かってしまいたい、いや、わかった気になりたいからだ。相手のことを「わかっている」というお前の統治に相手を従属させたいからだ。お前は、支配したいから、思うがままのモノにしたいから、相手を・他人を見抜いてしまおうとするのである。君ノコトナンカヨーク分カッテルヨと思えれたらお前はさぞかし気分がいいだろ。そういうことだ。よーく分かって素性がはっきりしてるものなら余裕しゃくしゃくで受け容れれるわな。自分ワールドに整合させれるな。自分の理解力内へと馴致させれれてウレシいな。いいか、愛せるとはイコール支配できるということであり殺せるということである。他人を未知の異質であらしたくながった時点でお前は殺人的暴力を発動さしとんねん。お前らは「人」でなくペットを求めてるだけだ。)

趣味の話で盛り上がるのをヤメたほうがいい。実体験がいくらでも有るだろうからそれを思い出せということになるが、ハイ誰かと同一の何かを共に好きこのんでいるとします。その何かを共有し合えているこの者はイイ奴だと思うだろ。間違ってる。なぜか。自分なら、「映画」で盛り上がって「映画」の話に花咲きながらお互いに例示する「映画」の作品がことごとく違ってたという事がある(というか相手が自分の通ぶりを自慢したがってたのが真相なのだがそれは措く)が、これがまず分かりやっすーい例だ。よーある事だろ。あるあるすぎて目丸くしろ。こんな事が起きたら、趣味とは実は合っていないものだと早々に悟達できてラッキーなほうである。しかし「共通の趣味」なんてのはどれも実際には共通でも何でもないのである。いいかアタマ冷やせ。お前がそいつと共有しているかに見えているその対象は、例えば「映画」などと違ってもっと特定された対象であったとしても、たとえそうであったとしてさえなお、お前とそいつとで同じように見えている保証などどこにもない。「映画」なんて漠然としすぎた括りなら一致しなくてむしろ当たり前というぐらいこちらと相手が違うものなのだが、もっと絞っても同じだ。アクション映画:アジアのを好きかハリウッドのを好きかで全然ちごてくるぞ。ホラー:自分ゾンビ系ぜんぶ大嫌いなんですが。映画離れよか。「車」:車種いっこ違っても話合わんのに、メーカーだけで何十あると思っとる。「ギャンブル」:パチンカスとバカジノと動物虐待で話合うか?「登山」:たとえ登る山張るテント履く靴着るモンベル背負うロウアルパインまで一致しても、渓谷行くか尾根行くかで違う世界の住人だな。「漫画」:一生読まん漫画の数のほうが多すぎて、そこからしてまず問題だ。「PC」:RyzenかCoreかだけでもズレ合えそうだな。その他その他その他その他。そういう訳だから、二度と、クソ本読みながら「読書」「が趣味」などとぬかしてくれるなよ。ガーデニング雑誌読んでようが『教行信証』読んでようがどっちも「読書」だわな!!!もっともっと特定してもハナシは同じだ。「観念論」と言ってこちらがラインホルトを言っていてそいつが島国司教を言っているかもしれない。「観念論ってなに?」というタイトル詐欺もあったな。いやそいつがマイモンやヤコービを念頭に置いていても、関心事がカスり合いもしないこと大いにありうる。同じ「カント」といってこちらには自我論者でそいつには時間論者だろう、あいつにはモラリストだろう。1人の中ですらそうだ(中島氏)。「クライストやってます」「私もです」、名前しか一致してない、こんなことザラだろ。これ学者同士でだぞ。情けないだろ。名前といえば、坂口渚沙を意味して「なぎさ」と言っても相手にはチームMキャプテンが思い付いているかも知れない。この人が坂口渚沙。サトウシオリもヨコヤマ結衣も2~3人居る。何度目のゆいぽんか?アキモトもサヤカも茉夏も複数いる。1グループに伊藤が5人居る。坂道にリナが5人いる。新海里奈?HKTに遥が3人居る。「優里」は何て読むんだ。愛佳は何と読むんだ。美月は。花音は2人か?愛理は3人か?みなみは4人か?彩佳は4人か?菅原は3人か?

バンザイVenus (typeA)(DVD付)

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  • SKE48
  • 発売日: 2011/03/09
  • メディア: CD

例示しててもキリがないから自分の心当たりに当たってくれ。自分のあるあるに還元してくれ。いいか、趣味でも何でもいいから「共通の」ナニナニてのは、仔細に見ればそれの名前ぐらいしか共有していないというのがザラだ。いやザラというより、それしかない。共有なんか存在しない。もっかい上の話すると、には365日かける何10のが有りそれらすらも断片であり他でも在りえたはずの何かだ。お前には87回会った中でのが存在するのみだ。実はサイコキラーかも知れんな。クラッシャー!! 全人類全歴史に於いて他者とはこういうものだ。一致するわけがない同じモノが見えているワケがない。そうだから、どんだけズレても、「裏切られ」るな。そんなん全部お前の1人ヨガリ・お前劇場のお前芝居だ。他人は、ちがう。そいつ自身にもなーも判ってない程に。

だから、あくまで例に過ぎないということを再三再四再五強調するために言っとくが、が薦めるがおもろいこと絶えて無しというだけでなく、およそオススメというのが、全然まったく成立しないことなのであり、おすすめでも何でもないことなのである。そいつのイイはそいつに限ったこと!!!およそ「賛成」たるものもすべてそうで、「共感」できる「賛成」しますというそのモノ、それがそいつとあいつらと完全同一のものを指している保証などどこにもないし、そんなわけもない。

だからひるがえってポジティブなことも言える。何についてどう「否定的」「評価」を下されようと、気にしなくてよい。が何に何と言おうと、いかにサゲようと、の中でのそれについて発言しているに過ぎない。それは永遠に私に届かない。そして評価とは全てがすべからくそういうものなのである。

何をどれだけ否定されようと、「批判」されようと、けなされようと貶められようと、「不合格」を突き付けられお断りされ、揚げ句に出禁にされようと、一切全く気にしなくていい。それはそいつ(ら)に見えているそいつ世界の中でのそれに関してそいつが下している評価であるに過ぎない。そいつの閉じた系の中で通用している所のそいつブツに関するそいつ評点に過ぎない。これも1人ヨガリなのである。でそれを、そいつ文法のそいつ語で発話したら偶然にもこちらに意味内容が通じた、というだけのことに過ぎない。そう、実は何も通じ合っていないことに依り、「分かり合えない」のではなくて、いやそうとも言えるだろうし、何も侵害され得ないとも言えるのである、少なくとも言明・数字・数値・評価・評定によっては。言葉によっては、言葉ごときによっては、自分の何物も、自分自身も、永久に何もされなくて済むのである。

という所から次の真理を見るのも一興だろう:自分が否定され・拒否され・拒絶され・つまはじきにされ・除け者にされ・出入り禁止にされ・クビにされ・落とされ・イヤがられ・嫌われ・追放され・村八分にされ … と何をされようと、それはその限りのモノにすぎない、別の場所に行けばまた別の反応が待っているのみ、という真理だ。その組織から否定されたのなら、隣の組織に転職すればいいだけだ。同じく、どんな人に何を言われても、気にしなくてよい。それはそいつが勝手に言ってるだけなのである。隣のレジに行けばまったく別の対応をして来る。別の店に行けばぜんぜん違う顔をしてくる。人間、隣の部屋の様子がパネル1枚で全く見えなくなる。そして、いやいやどこに行っても誰からも否定されるばかりだよという奴は、当たる数が少なかっただけだ。たとえ8700箇所の職場で必要ないとされ・8700人の異性からフラれても、8701箇所目・8701人目が同じ仕打ちをしてくるという保証などどこにもない。スネててもしゃーない。75億人から嫌われるには人生が何個いるんだ。たとえそうなっても、残り1000億人が何て言うだろな。

ただ言葉というもののアホらしさに関しては今書いたようなことまで考える必要すらない。今書いたのは、中身があるのだろう言葉に関してのことだが、ほとんどの場合言葉には中身が無い、誰もろくすっぽ何も考えんと放言しとるだけ。会話場面を見てみよう。ここでは言葉を慎重に選ぶ余裕などがまず全く無い。自分の立場・相手の表情・服装頭髪表情から何から全部含めた自分の見え方・双方の温度差・相手の考え・相手の立場・相手の考えに関するこちらの考え・相手の考えに関するこちらの出方・自分の考えに対する相手の考え・お互いの状況・今日の体調・今の気温・周囲の人数・周囲の明度・この後の予定・相手の評価・自分の評判・お互いの評定…等々々々集中力を要するファクターが多すぎる。その上、これらのファクターの2~3も考慮に入っていないほどテンパっているのが普通だろう。これほどまでに認知資源が枯渇した状態で、どうやったら、事柄と想念にぴったり寄り添ったおもいやりのある言葉なんて出して来れると言うんだ?いや、かようなまでにアガっていず余裕を持って会話しているとしても、事態は別によくならない。相手(と自分)にその時それに関してぴったりのオリジナルでかけがえのない言葉を発することなど、誰もしない。余裕があったとしても、基本的には、思い付いたことを口走っているのである。定型句をちょこっと変えているだけなのである。流行の紋切り型を吐いといて「キマった」と自惚れてるのである。発言なんていうものは基本的にどれもこれも脊髄反射にすぎないのだ。相手が何を言ったとしても、それが心の奥底の真実の泉から入念周到に細心の注意を持って汲み出してきた言葉である保証などどこにもないことなど絶えて無い。そんなものにお前はいちいちの逐一、傷付いてみたり恍惚となってみたりと悲喜こもごもしてるのか?目を覚ませ。誰も、考え抜いてなどない。言葉に使われてるのでなく言葉を使えているような者など75億人に1人も居ない。そうであるからこそ、「つい勢い」で言ってしまうなんてものも無いのである。いかなる発言も「つい勢い」で言ってしまっているものだからだ。また、とっさに言ったことだから本心が表れているなんていうこともない。なぜか。①あらゆる発言がとっさのものであり本人がメンタルレキシコンに言わされていることだから。②その「本」心が万象の真相に照らして絶対確実必殺絶命に「本」当で「本」音であるという証明がどこにも無いから。なお、存在する全ての会話が、「本」心か何か知らんが或る1つの言いにくいことの周りをぐるぐる巡ってるだけの婉曲語法でしかないという、いくらなんでも耳に痛すぎる真実については、詳論しないでおこう。しかもだ。会話に於ける認知を逼迫するファクターを順次減らしていけば会話→弁舌→執筆という発言状況になっていくのだろうが、どれだけ減ったところで、完全完璧な言葉など、宇宙の終わりの果てのドン詰まりまで、出て来ない。言葉というものが、言語という辞典に登記されているものだからだ。何を言っても究極的には使用言語に言わされているものにすぎないからだ。だから、著述や詩作のような段階でもなお会話段階と同じ事が言える:言葉とは、魂のこもった実体なのではなくて、せいぜいのところ情報を運ぶ道具、きったねーコンテナに過ぎないのであり、物を言うということは、意味と志向に溢れた行為なのではなくて、反射行動なのである(これこれ参照)。そんなもんに一喜一憂すな。(もっと身近で卑近なレベルで見た会話というもののお粗末さについてこの記事で述べてる。)

さて本記事で見てきた通り、あなたも私も遂に重ならない断片なのであり、「同じ」対象を経験しても経験内容はついに重ならないのであるが、したらばなぜ話が通じ認識が成立し客観性が有りうるのかと言うと、そりゃそうで、心の中も経験内容もどんな事物も、それ独自で理解不能というものが無いからだ。自分もあいつも自分でしかなくあいつでしかないというのは、これは個人に入る経験の定量が千差万別というだけのことだ。2つの椀に水を入れて水を構成する全原子の数をピッタリ揃えることなど出来ないが、水を構成する原子自体は相同斉一である。宇宙の中に質的にまったく独自のもの、人間の中に質的に全く独自の者など存在しない。誰の心もそれが含むモノは同じなのである。内訳が違うだけ。同じだから、或る意味では完全に分かるし通じるのである。自分に緑に見えてるものが隣人には赤に云々かもしれなくても、それで光の波長や視覚解剖構造が変わるわけでないし、たとえそうなったとしても、緑/赤ヲ見ルという経験の構造や様態まで変わるわけではない。誰一人、同じように見えてはいないが、同じものを見てはいるのである。助かったな。