地上最強のブログ

しばいてくぞ

それ効果ないから

桜、覚えていてくれ

桜、覚えていてくれ

  • SKE48
  • 発売日: 2015/03/31
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ここで書いたが、だれもかれも間違った「運動」をしてしまう。

ゆうて有酸素・無酸素の話はしない。それはggrksなのだが、いっこゆうとくと、現在、これら両方を、「無意味」「必要ない」「効果ない」「嘘」「関係ない」「無駄」「体に悪い」等何らかの否定的語でググり篩うと、有酸素信仰に与しない発言が現れている一方、無酸素を無効とすることに成功している記事が全くみつからない。そういう認識趨勢だということは知っとけ。

で、何故、なにゆえ、お前は走ってしまうのか?運動してる気になれるから、が最たる原因だろう(「原因」と言って「理由」とは言わない。意識すらしていないのだから)。近い話でいくと、「」の問題。運動といえば走っているという絵ヅラ、そういうイメージ、汗をかいたら満足「感」に浸れる。というような、利用可能性ヒューリスティック。そうして、とりあえず走る。流行ってるから歩く。上海の外灘に行ったら後ろ歩きが見れる(た)ぞ。それとて、日本の無数のジムの無量大数のベルトコンベア人口ほどキモくはない。汗腺から液体が滲出すると運動の効果が得られるのなら、全身にサランラップ巻いて一晩テレビ見てても同じことである(というのは有酸素側からの声だ)。

という言い分は、おさおさ通じるものでない。汗に運動効果が・何らかの成果が・何かしらの実体が・とにかく何か意味があると錯覚してしまっている認知構造に届く声など、無い。走るのは正しいに決まっている。あれだけ何1000何万何恒河沙というメディア・映画・漫画・実世界・健康産業・フィットネス・スポーツ・減量・ドラマ・小説・アニメ・テレビ・コマーシャル…で、走っているのだから。何10,00億人が何1,000,00万年前から走っているのだから、みんながやっていることなんだから、正しいに違いない。そして私も正しいと信じる ^p^ し、それが正しいと証言する証言をひたすら集めて、それが大して効果が無いらしいといういかなる声も封殺する(という事までしてる位ならマシなほうであって、走ってる人口の99%が一切全く何も考えずに走っているのだが)。これは、確信のファッショ、知覚のファシズムとでも名付けるべき何かである。

(もちろんランニングやその他の有酸素運動に如実明確な健康・減量効果というものがおよそ全く無いなどと言っているのではないし言いたいのでもない。当たり前だ。ただ、何がなんでも特にランニングという行為から如実明確な体力向上・活力増大・引き締まったボディ()を得たいのなら、格闘家や武道家のようなそれ相当の走り込みをするしかないことも、確かである。こういう、試合に向けてスタミナやガッツを養成している人たちのレベルの走りで初めてそれなりの心肺向上・外見改善等の効果があるはずだから、脱水ガー熱中症ガー関節ガーとひたすら甘やかす自称運動をだらだら続けていて得られるものなど、本当に、洗濯物以外に何が残るのだろうか。また、ランニング(周辺全部)とは要するに 疑似サウナ 強度がアホほど低い大腿筋トレなのだから、どうせ筋トレなのなら、うさぎ跳びのほうが効率いいぐらいである(読んどけ)。禁止された学校体育にも劣る運動が、ランニングだ。知っとけ。

そしてだ。あー運動したプハーのただの満足「感」を得るためではなくて運動から何かしらの効果をはっきり明確に引き出したいのであるのならば、そうであるのならば、ランニングのフォームや呼吸を一生懸命研究して、勤務時間帯を何とかかんとかやりくりして、ン万円のシューズ買って心地よくなって、糞曲詰めたウォークマンスマホだ嬉しそうに用意して、ピチピチのくっそきんもいタイツ上下着て、そこまでして、コンベア上・歩道上でえんえんえんえんえんえんえんえんえんえん走って走って走って走って汗かいてシャワー爽快ー!汗かいてシャワー爽快ー!してるぐらいなら、とっととスクワットやったらいいんじゃないのか?それも、前ならえして不細工に尻突き出して空気椅子やってる例の絵ヅラのあの気持ちの悪いヨガもどきじゃなくて、最低100kgは背負ったスクワット  フィットネス産業などすべて情弱商売なのだから  

初めての星

初めての星

  • NMB48 Team N
  • 発売日: 2017/07/04
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問題は、意味や効果や中身、何か得れるものが確実実際リアルに有るもの、wirk-samなものと、有るような気がするだけの物とを容易に取り違えるという習性、である。かかる認知構造が問題なのであって、今から以下はもう運動の話なんかどうでもいい。話を進める上で無数に例があって困るぐらいなのだが、思いついたままに並べてみよう。(以下に書くのはただの例であって、例の内容には頓着せんとってくれ。何でもそうだが、例は所詮例として、聞いてだけはおいて、而して、自分の中で自分に理解知解できる抽象的一般的普遍的思考内容に変換しなければならないのだが、この程度のことも出来ない分からないで単なる例示の内容にぐずぐずコダわる奴が本当に居るのである。)

運動や健康の話は どうせ泥沼戦だから  せんと言いつつマクラがそれなので続けると、食べ物の偏見が思いつく。おそらく、動物性タンパク源として最も人類が選択しなあかんのは、他との比較を絶して、昆虫であろう。昆虫の生産が本格的に始まったとすると、色んな改善が有るだろう。糖質制限人が無視黙殺している穀物生産に対する食肉生産の効率の最悪さが結構(どんぐらいかは知らん)クリアされてしまうだろう。知らん。空想。また、てめえが食いたいだけの確証バイアスで畜産業・狩猟・屠殺等々々を礼賛礼拝している連中が無視黙殺している動物の苦痛

の問題がクリアされてしまう(虫の苦痛を検討しないとして)。《丸ごと》食べれるにより栄養も申し分ない。にもかかわらず、昆虫は一挙には普及しがたいだろう(日夜虐待虐殺されている家畜のために即刻一挙に普及すべきなのに)。要因の1つを想像だけで書くと、抵抗があるからだ。この抵抗を変えることは、まずできない。実際には、栄養が偏っているし動物の苦痛と引きかえで得られている鳥牛豚肉よりも、実際にはグロいらしいバッタ・コオロギ・ハチのほうが何よりも好ましい食糧であること、虫のグロさとはそのうぞうぞした動き、または、どこにどう動くか分からんその予想不可能の動きにのみあるのであって完全静止しているとまったく気持ち悪くはないということ、こういったことも、思い込みで凝り固まったら、一切知覚できず理解できなくなる。虫イコールきもいダメ以上ダメ終わり。これが、ファッショ的無思考的認知構造である。同じように、土が可食化したものが野菜だと解釈できるなら、土そのものを食うのが本当は正しいのだろう。しかしやはり抵抗 (ry

さて本当にそろそろ全く別の  角度から   例から、wirksamなものとそんな気がするだけのものとの取り違えを見てみよう。例えば雷。「雷」には、何の実際的効果も無い。あれはただの音。それなのに、あの、たっっだ単なる音、に、雷の脅威を、託してしまう。と言うと、雷鳴が脅威の徴候ではあり雷鳴を怖がることには根拠が有るのだ云々を脊髄反射で繰り出すさかしらが湧くのだろうが、そんなことは聞くまでもないことであり、今言っているのはそんなことではなくて、今言っているのは、雷の音に危険を実際に知覚してしまってそれをヤメることが決して出来ないという錯覚隷属のことである。そしてむしろ稲光はキレイに見えるのであろう。あれこそが電流本体であり殺傷力所有者であるのに。雷を聞いたことなど誰にでもある。が、本体そのものを忘れて本体の徴表を本体と取り違えてしまっていることは誰も考えない(気付いていないとは言っていない)。本当は違うと判っていてもその認知を撤廃することが出来ない。

音で例示を続けると、銃声には、実行実際力ある所の意味内容は、なにも無い。銃の意味は、殺傷作用である。派手な破裂音ではない。反対に、なんとも地っ味ーに、ほとんど聴こえない音で空中を飛んでいってる、あのカゲの薄い金属片に、銃の意味のすべてがもっぱら有る。そこ以外には、無い。もっと言えば、撃鉄にも、グリップのおしゃれにも、バカみたいな仇名やメーカー名にも、無い。とすら言える。ただただ、高速射出弾丸にのみ、銃の意味が有る(銃床の話なぞしてない)。もし高速射出弾丸が無かったら、銃にまつわる一切の諸物諸関係蘊蓄物語が、無意味である。逆に、高速射出弾丸さえ確保できるのなら、銃は、歴史的にあの形を取って来たあのあれである必要もべつに無い。銃というものの形状が特にあのあれで、そして音が特にあの迫力(だけは)あるあのあれ、であるのは、この宇宙の歴史的偶然に過ぎない効果【金属片を高速で射出して標的に命中させて傷を負わせるまたは死亡させる】を得られさえすれば、究極的には何でもよかった。隣の平行宇宙では、銃じゃなくてスリッパでやっとる(意味わかるか?)。ひるがえって、銃のなぞは、虫も殺さない。だから空砲なんてものが成り立つのである。ところが、銃の暴力性を、我々は、ひたすら、あのに知覚してしまう。それをヤメることが出来ない。あの音こそが、銃なのだ。銃自体なのである。オレの空手はぴすとるの10倍はスリリングだぞ。いやこれは象徴であってメタファーをメタファーと分かってはいる、なんてことは言えないのである。それ自体は痛くも痒くもないただのrepresentationに、本来の効果を知覚してしまっている

(こう言ったところで、視聴覚が意味を持つものやメディア等と抵触を起こすことなど別にない。今は現実実際wirksamに関することの話である。映像作品の中では、銃の意味とは、あの形状あの絵ヅラ、あの破裂音あの音響がすべてだ。そんなことは当たり前である。ここでは視覚・聴覚効果が、効果なのだから。また、食糧を始め生産と供給の効率を考えていくと、マーケティングやメディアのすべてが実際には必要でない、およそパッケージングに類する全てのものが存在価値がないことになる気もするが、気もする奴の早計蒙昧であって、人間が、メディアの演出、ブツ自体の価値に対して「過剰」(キッショい用語やな)であるショー的なもの、「広場の市」(『ジャン・クリストフ』)的な社会形態表現形態等をやめてしまう日など、永遠に来ない。人間は表象動物なのであり、また、人間は無駄なことをすることが出来るという動物なのである。)

そして、「それ自体は痛くも痒くもない」ものに錯覚しているものとなると、例が有りすぎて、1秒に8,00,0億個は思いつく(し、思い付け)ものであり、以下に書くこと、ますますなおのこと、ただただ単に思い付いただけの例である。

乗り遅れたバス

乗り遅れたバス

  • 欅坂46
  • 発売日: 2016/04/06
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例えば、《辞表を叩きつける》。その辞表でもたらしたい意味・効果は、叩きつけ行為には、一切全く無い。辞表の意味は、辞表文面という視覚情報の中に有る。上部が受理するという経営行動の中にある。お前がもたらしたかった効果は、お前の辞職による当課とかに於ける喪失(そんなもん無いんだがな)という生産諸関係とかの中にある。ところが、にもかかわらず、紙に過ぎない物体を机とかの上にそこそこの勢いで少々の音量を伴って置く、という物理的所作が辞表そのものの意味であるかのように錯覚する。おかしいとは思うが、瞬時に疑問を抑圧する。

同じく、電話の《ガチャ切り》。やはりお前は受話器を《叩きつける》。物体としての受話器をそこそこの勢いで少々の音量を伴って置くという行為の中には、何も無い。それは、相手に見えていない。それは、相手にその行為の想像すらさせていない。どんな切り方をしようと、電話が切れたという音声情報しか、相手には伝達されない。受話器が傷むだけ。電話相手に憤懣を伝達するという効果をもたらすものは、電話という機器の性状上、音声の形でのいくつかの命題、の中にしかない。何を言うか喋るかが、電話行為における意味のすべてである。にもかかわらず、受話器を叩きつけると、何らかの意味の有ることをした気になるのである。だから、叩きつけられ用の耐衝撃スマホが生産されているのである。

ところで、これら等々々々々は、戸を強く閉める行為等々々々々(戸を強く閉める行為とは言っていない)とは違う。後者は、見えているし、聞こえているし、内容(怒りとか)が伝わっているであるがゆえに、こういった行為は、ケムたがられる。誰にも伝わらない叩きつけは、喜ばれる。一人でリキんでいるアホ絵なら、歓迎される。本当に暴力になっているものが忌み嫌われ、暴力っぽいもの、道化でしかないものが、好き好まれる。道化の道化による…社会。そう言えば、すぐ「ぶち」たがるアホが居る。ただ具材や調味料をそっと入れるだけなのに、それらを鍋に「ぶちこむ」。ただOS上という空間でインストール等の無音の作業をするだけなのに、「ぶっこむ」。人畜無害な所でいくらリキんでもただのアホなのだが、こいつらがリキみたがるのは、元々人畜有害な所でもリキみたい・イキリたいのだが、そうもできないチキンだったり、そうもできない法治国家だったりするので、安全無難な場所で、必死にイキるのであるようである。極めて惨めかもしれないが、これの数兆km延長上に数々のキワどい路上〇〇や〇〇運動や〇〇闘争が有るとも言える。国家という動物園の中のわんぱくチンパン君たち。今日も一日杓子定木で簡単な反抗を繰り返した。

雨の動物園(チームB Ver.)

雨の動物園(チームB Ver.)

  • AKB48
  • 発売日: 2014/04/01
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本来それ自体には意味が無いrepresentationに意味を知覚してしまうものをと考えていると、違った  角度から    方面から   側面からだが、間違った名称が間違った意味を伝えかねない悪質な命名というのを思い付く。例によって例など99.9.999万個は思い付くのだが、例えば事件の名称などが有る。例の「コンクリ殺人」、何も伝えない最悪の名称である。この事件の意味の中心は「殺人」ではなくてそこに至るまでの凄惨な内容であり、しかも、被害者が痛苦を感知しない遺骸状態になってやっと登場するのが「コンクリ」であるのだが、この名称で、あたかも物体液体「コンクリート」が悪者であるかのように取られてしまう。コンクリートなぞ端役も端役であるのに、看板上主役になってしまっている。最悪の名称であり、事件の本体と事件の看板が取り違えられかねない。名称変えろ。ただし、事件の名称には、こういう、内容を間違って伝えかねない間違った名称が多数有る。コンクリ事件の話を特にしたい訳では全くない。自分で例を思い付け。(と言いつつもうちょっと言うと、文句を付けれないのは分かっているが、地名を冠した事件名・報道名もマズいものではある。その地名のその場所が悪いかのように見えてしまう。その地名のその場所という歴史的偶然そこであったにすぎない(多くの場合に!!!常にとは言っとらん!!!!)そのそこが、その事件のあたかも主役になってしまう。勿論ここでの誤読の責任は100%受容側にあるのだが、しかし、例えば、ニュースがあると真っ先に地名に反応してこの地域だから云々と喋り出す極度の低能たちがはびこっている某掲示板サイトなどを思い出すと、いかに呆れ果てた誤読でもやる奴が必ず湧くようなのである。)

作品名などもそうである。殺人と言えば、ここでも引用したが、「香水―ある人殺しの物語」など、最悪の名称である。この小説(いや映画も)の内容のショッキングさは、殺人行為には全く無い。殺人行為など端役中の端役に過ぎない。ところが、このアホ題名のせいで、人殺しが主題の作品だと見えてしまう。類似例が無数にあるから飽くまで自分で思い付け。(ry 今例示してきたのは、アクセントの置き所を間違えるバカというカテゴリーに収めるべきものである。ただそれも、ここに書いたような、直裁的な表現を異常忌避するという病気の一症状なのかも知れない。そうすると上記道化社会にも話がつながる。

そして表象系の話になったところで、representationの最悪最低の使い方に出くわす。のことである。人間のパフォーマンス・業績・技術・価値の大部分が、その人間の顔面部分にはべつに無い。ってかそいつの顔がどないかなんて、そいつが何を成したかと何の関係もない(ここも参照)。顔でシュート決めんのか。顔で〇〇細工作るんか。顔でホームラン打つんか。顔にスキースケート履くんか。顔がクルマ乗るんか、顔が時計巻くんか、顔がパンツ(ズボン)履くんか、顔がパンツ(パンツ)履くんか。…… と判ってはいるところが顔を求める。顔が何の機能も持たない場面にも人面を出演させたがる。ピアニストの意味は指の運動であって、ジャケットに演奏者の顔の写真を配するのは無意味である。作家(と自他称されているがただの小説家)の意味は書いたものであり、〇〇文学全集に頁いっぱいの作者の顔面写真を掲載するのは無意味である。しかも後者に於いてはたいてい顔面が汚いため見せられて不快である(とはいえ、職人の顔面の地肌までどアップで長時間撮影し放映するNHKの醜悪な映像よりはマシであるが)。俳優とアスリートの意味は全身の運動であり、その顔面を放映または掲載するのは無意味である。政治家の意味は政治内容であり、その顔面をテレビでこれでもかと……云々。チェリビダッケグレン・グールド、野口破天荒

遠き落日(上) (講談社文庫)

遠き落日(上) (講談社文庫)

のその嫌というほど見せられて来た顔面に、何の意味が有るだろうか。何の意味も無い。(そしてコトは顔に全然とどまらない。)

ところがだ、顔とはrepresentationの最たるものである。その人一個人の表象も表象、表象たる表象、表象の中の表象である。《顔はその人を表す》のである!!(実際は、その顔に寄せられてきた一連の他者の一連の反応に顔所有者が取ってきた一連の反応という社会的相互作用が数年~数十年に渡って形成してきた獲得され固定化された入出力セットが存在するのみである。そしてこの過程は、社会的通念や美的イメージ等の共有などにより、傾向的であらざるを得ない。こうして、以上のプロセスによって、以上のプロセスによってのみ、《この顔にはこの性格》という結果が帰結する。バカはプロセスを見ない)。側頭葉にはかなわんという訳である。だから、それ自体にはチカラ・効果・リアリティ・中身つまり Wirk-sam-keit が皆無である物どもに意味を求める中でも、顔の表象にしがみつく事だけは、人間は、未来永劫 ヤメないしヤメることができない。今までに見て来た《仕方ない》物事の最たるものが、顔欲求なのである。

ただ、そんなに大事なものなら、年中剥き出しにしておくという人類社会の慣習が間違ったものであるとも言える。顔(の肌)こそ何よりも被服被覆によって守らねばならないものであるはずで、風雨・陽光・粉塵・排気ガス副流煙副流煙副流煙副流煙等から全力で保護していなければならないはずのものである。この事には我が皇国の賢明な民はとうから気付いており、  人に顔を見られるのが要するに怖いという小心者根性、顔を覆っておくと安心できるという臆病心から   顔面を外気から守るために顔面に白デカマスクを張り付けるという世にも醜い風習を作ったのである。

と考えてくると、さらにどんどん(無)意味病が思い当ってくるだろう。例えば《形あるもの》への固執がすべてそうである(形あるもの一般が不必要だとは言ってない)。世の中には、本というもので自室自宅を埋めるのが大好きな人種がある。本の意味は、データである。それ以外には無い。ぜんぶPDFでいい。テキストなど・レファレンスなど・二次文献など、ウェブ上に有る。ところが、手に取って感触を確かめてその存在感をひしひし伝えてくれる物・ブツ・物体・物品・物物物物物物物が、人間は、心から大好きで狂おしいほど愛しいのである。物体・紙を指でめくると、それはそれは気持ちいいのである。物体ペンで物体ルーズリーフに字を書く。蛍光ペンで色つける。こうすると、学習内容が定着する気がするのである。物体万年筆で物体「便せん」や物体「原稿用紙」wwwテラバロスwwwwに字を書くと、すんごく何か中身のあることをした気になるのである。紙で書類を出させると、何か確固とした安定あるたしかな事をした気に錯覚できるから、何らかの「確実」な何かがそこに有るという存在錯覚が出来るから、企業は紙での提出を強要する。印鑑を笑ってられない。ハンコ社会とか言う問題ではない。ブツにすぎないものに意味を知覚してしまう欠陥認知そのものが問題なのである。当然お前はゴミ屋敷を笑えない。ほとんどの ご家庭が何らかのゴミ屋敷だと言える。誇らしげに置いてるその〇〇全集からお前は何を引き出していると言うのだろうか。庭にどでかい石があって自分の人生に何がもたらされるのだろうか。盆栽やペット、なぜお前は他生物の生を独占できると思っているのか。置いてあるだけのあの楽器この楽器、無いと不安だから買っただけのひしめく家電品、摂食上一切必要でなく気分の問題でしかない食器(特に皿。ボウルですべて済む)の数々。それから、総じて、お前が生活に必死にもたらしているその《彩り》のあれやこれや、それは何の中身があるというのだろうか。そもそも何か中身があるのだろうか。有象無象の《捨てられない》そのゴミたちを、一度でいいから、意味の観点から反省できないものだろうか。その点、アメ公なんてもっとヒドい。壁に架けた何十もの写真入りケースwwwアホすぐるwww。壁に生えたお前が虐殺した鹿の頭。原始人ですか?賞状やメダルや模造トロフィーの数々。メルカリで売ろうぜ!(よく、定型発言しかできない無思考が、《富と名誉》云々とかぬかすが、全く別のものである。財や権力や地位といった中身内容しかないような・意味そのものですらあるようなものたちと違って、名誉というのは、ただのゴミである。旨くもないし中身実質内容というものが全く無い。何かが有るような気になれるだけのもの。)

自分は鹿の頭を飾る気が無いように本を飾る気が無いから、ただの1冊も本を持っていない。それでも学者はできる。そして、そもそも、「研究室」なり「書斎」なり「松岡正剛」と言ったものが、鹿の頭を飾ったゴミ屋敷にすぎないのである。

 

その汗は嘘をつかない

その汗は嘘をつかない

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
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