地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェの認知科学 (2) ~リベット実験を知っていた~

 

前回の記事から

もいっ切りリベットの準備電位云々の話そのものを書いている。

Alle Handlungen müssen erst mechanisch als möglich vorbereitet sein, bevor sie gewollt werden. Oder: der „Zweck“ tritt im Gehirn zumeist erst auf, wenn alles vorbereitet ist zu seiner Ausführung. Der Zweck ein „innerer“ „Reiz“ — nicht mehr.

Es giebt keinen „Willen“: das ist nur eine vereinfachende Conception des Verstandes, wie „Materie“.

(Nietzsche, 1883,24[34])

 

(動作というものはぜんぶ純然無意識に起動する。意識は、それに対して、遅れて現れる。脳内でのプロセスがすべて終わってから、「〇〇しよう」という意識がやっとこさ浮上してくるのである。【意識が有ってそれが動作を引き起こす】という機序など、存在しない。と言うか、「意図」だの「意志」だのというモノなどからしてが、存在しないものである。こんなものは、思考停止してる奴の寝言たわごとに過ぎない。ちなみに、「物質」とかいうのも思考停止だぞ。そんなもん、無い。)

ここじゃないどこか

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なぜ、現代の脳科学の施設なり機器なりがあるわけでもないのに、ここまでの事が判るのだろうか。ただ内観だけによってここまでのことが判るものなのだろうか。

とはいえ、この文章の実に3年以上前に似たようなことを述べている

いずれにせよ、この文章がある1883年冬~1884年の断片群には、次のような文章もある:

Der Glaube an das Wollen. Es ist Wunder-Glaube, einen Gedanken als Ursache einer mechanischen Bewegung zu setzen. Die Consequenz der Wissenschaft verlangt, daß, nachdem wir die Welt in Bildchen uns denkbar gemacht haben, wir auch die Affekte Begehrungen Willen usw. uns denkbar machen d.h. sie leugnen und als Irrthümer des Intellekts behandeln.

(Nietzsche, 1883,24[21])

 

(動作に対してそれをシヨウと思うこと、そういう思いや意といったもの、それはあくっまで心なのであって、こんなものは、何をどうしたところで、筋運動といった物過程に作用することなどない。これが何故わからないのだろうか。たのむから科学思考をしてくれ。でその科学だが、物たちの外界を説き明かした今、情動や意図や欲求といった心の内部つまり内界も説き明かすことになるのだが、それは言い換えれば、「情動」や「意図」や「欲求」といった捉え方が間違いであると明らかにしてくれるということである。そういう伝統伝来のタームや観念が間違いの歴史だったことが判っていくのである。)

述べていること、特に情動に関する批判は次の記事で見る。

また、次の文章がある:

愛しさのアクセル

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Psychologie des Irrthums

Wenn wir etwas thun, so entsteht ein Kraftgefühl, oft schon vor dem Thun, bei der Vorstellung des zu Thuenden (wie beim Anblick eines Feindes, eines Hemmnisses, dem wir uns gewachsen glauben): immer begleitend. Wir meinen instinktiv, dies Kraftgefühl sei Ursache der Handlung, es sei „die Kraft“. Unser Glaube an Kausalität ist der Glaube an Kraft und deren Wirkung; eine Übertragung unsres Erlebnisses; wobei wir Kraft und Kraftgefühl identificiren. — Nirgends aber bewegt die Kraft die Dinge, die empfundene Kraft „setzt nicht die Muskeln in Bewegung“. „Wir haben von einem solchen Prozeß keine Vorstellung, keine Erfahrung.“ — „Wir erfahren ebensowenig, wie die Kraft als Bewegendes, die Nothwendigkeit einer Bewegung.“ Die Kraft soll das Zwingende sein! „Wir erfahren nur, daß eins auf das andere folgt — weder Zwang erfahren wir, noch Willkür, daß eins auf das andere folgt.“ Die Kausalität wird erst durch die Hineindenkung des Zwangs in den Folgevorgang geschaffen. Ein gewisses „Begreifen“ entsteht dadurch d.h. wir haben uns den Vorgang angemenschlicht, „bekannter“ gemacht: das Bekannte ist das Gewohnheitsbekannte des mit Kraftgefühl verbundenen menschlichen Erzwingens.

(Nietzsche, 1883,24[9])

 

(今日の誤認知論だが、動作に際して動作出力を知覚することを考える。これは当動作の直前つまり動作表象中だったりする。つまり例えば当動作を発揮できそうだと予測される対象や相手に気づいた瞬間、このときに、こんなチカラを感触するものである。そして、そんな感触は動作の付随現象であるというにも関わらず、動作の引き金になる出力発揮そのものだと錯覚してしまうものである。いいだろうか、いま生じている作用なりいま眼前にしている結果なりにはその原因になった物や事や人が有ると錯誤してしまものだが、なぜこんな錯誤をしでかすかというと、動作なり結果なりを生ぜしめるチカラというのがあると錯誤するからである。ふだん動作の前にこんな錯誤を起こしまくっているから、やがて万物万事に渡って「その」「原因」となる〇〇を妄念してしまうようになってしまうのである(もちろん出力自体とその感触とをごっちゃにしてしまっている錯誤でもある)。しかし、チカラが発揮されて物が動かされるという事態など、存在しない。まして出力感覚が筋収縮を起こすのではさらさらない。では何が筋収縮をもたらすのかと言うと、それを知れる者なども存在しない。いやそもそもチカラというのがどうやって運動を引き起こすのかも、誰にも分からない。動作や運動があるからにはその元になるものも無いわけにはいかないだろうというのは妄念なのである。そんな引き起こし起こされ関係など、発明された妄念にすぎない。何かが起きる・A→Bという継起しか知れない。起きさせるものも起きさせようとするものも、一切何も、別に観察されない。この「→B」の「→」を実体化して、「起こす」「原因」が実体化されてしまう。全部ウソ。こんなことで何を「わかった」ところで、無意味な擬人化をしているに過ぎない。【事】を【人】にコネ造り変えているだけだ。勝手なことすんな。【人】のすることには、引き起こすだとかサセルだとか原因としてチカラを発揮するだとかいった事柄も有るだろう。で、それと、上述のけったいな出力感触がひっついて、物もまた人みたいに動く動かされる関係だと思い込んでしまうのである。)

つまり動作に伴う意志の感覚の役割を全否定している。それが何であるかは言っていないし、とにかく何であろうと、動作や筋出力等には一枚たりとも噛んでいないと述べている。またこれだけを言うのではなくて生涯のテーマである原因非存在論と結び付け…いやこれの前提としてしまう。動作感覚という日常の何千万回繰り返される錯誤が有ってそこから事物万有に原因というものをデッチ上げてしまうようになるのだといいう順番段取り、このようなヒト認知の悪習性癖について述べている。そしてこのような虚構を作らないと外界を認知(„bekannt“)できないという認知の事情についても述べている。

切ないリプライ(指原莉乃)

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すぐ隣の断片にこうある:

„Nothwendigkeit kann freilich auch bedeuten „jedesmal wenn A eintritt, wird B folgen. Grad von Wahrscheinlichkeit (Gewißheit), womit der Eintritt der Folge erwartet werden darf. Diese Gewißheit beruht auf der Erfahrung: immer ist B auf A gefolgt, niemals auf A ein non-B. Begriffliche Unterstützung dadurch, daß Folgevorgänge, die mit AB gleichartig sind, zur Herstellung der Gewißheit der Folge von A und B herbeigezogen werden.“

„Die Kraftempfindung kann auch nicht aus Bewegung hervorgehen. Empfindung überhaupt kann nicht aus Bewegung hervorgehen.

Auch dafür spricht nur eine scheinbare Erfahrung: in einer Substanz (Gehirn) wird durch übertragene Bewegung (Reize) Empfindung erzeugt. Aber erzeugt? Wäre denn bewiesen, daß die Empfindung dort noch gar nicht existirt? so daß ihr Auftreten als Schöpfungsakt der eingetretenen Bewegung aufgefaßt werden müßte? Der empfindungslose Zustand dieser Substanz ist nur eine Hypothese! keine Erfahrung! — Empfindung also Eigenschaft der Substanz: es giebt empfindende Substanzen.“

„Erfahren wir von gewissen Substanzen, daß sie Empfindung nicht haben? Nein, wir erfahren nur nicht, daß sie welche haben. Es ist unmöglich, die Empfindung aus der nicht empfindenden Substanz abzuleiten.“ — Oh der Übereilung!

(Nietzsche, 1883,24[10])

 

(動作や運動や作用や結果、いま目の前に有る生じているコレコレ、が有るからにはその元になるものも無いわけにはいかないだろうと思い込んでしまうものだが、そう思い込むと、何かに続いて起きるモノは続いて起きるものだと勝手に思い込みもしてしまう。しかしどこまで行ってもあくまで続いて起きるだろうという範囲を出ない。勝手に法則化すな。お前はAにBが継起してB以外は継起しねえなあってのを見ただけのことにすぎない。その法則は錯覚だ。そう言っても誰も聞かず、挙げ句、例えばA→B的なC→Dを観察してしまうとA→B法則を確信してしまいよるものである。困ったこっちゃ。動作に際して生じてしまう動作出力感覚というのが有るがこれは動作自体とはまったく関係のない馬の骨である。動作や運動から感覚が生じることは無い!ところが、例えば脳に運動刺激が入力されて感覚が生じるかのように見えてしまうという観察があって、妄念錯覚に支持を与えてしまう。フザけるなという話で、じゃああれか、まず感覚様ご入場前の空ステージなんぞが有ってそこに感覚様が登壇あそばされるとありがたくも動作のちんちくりん野郎が無から創造されるとか何とかそんなスジ書きがあるゆうんかお前は信じてるんかマジなんか?アホなんか?脳の感覚入力「前」、そんなもんは仮説も仮説なんだよバカ。誰が実証したちゅうねん。むしろ感覚は脳に付き物で脳が感覚器官だと考えたほうがましである。実際は、脳に感覚があるのかないのかは誰にもはっきりは言えず、感覚があるところを見ることができないとしか言えないのだが、それでもとにかく、脳に感覚が無かったら一体どこから感覚が生じるというのかと言うものではある。)

上の文章と合わ

偉い人になりたくない

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せると相当意味不明な文章に見えるのだが、聞くところだけ聞いておくと、とにかく脳が恒常的に活動していると述べている。脳が感覚ゼロの時は無いという科学話だが、やりたいことは、【動作を契機として感覚が生じる】という感覚・動作のやめてほしい結合を遮断することであろう。両者はまったくの無関係で脳は感じ続けているだけということである。最初の継起因果取り違え論段落と後の段落とが切れているように見える(し、周囲の断章たちの文脈を足したら切れてないのかもしれない)が、これが断片というものである。アホ研究者アホ訳者アホ受容層よころばせの大見得やゴテゴテ用語も邪魔をして来ず、考えていることの骨組みだけが分かりやすく見える。

この1883年冬~1884年の断片群の中にはこういった内容がけっこう多い。人間の認知構造というものをどう捉えているかを更に聞いてみよう。上に引用したも

次回の記事に続く