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しばいてくぞ

ニーチェと脳 (4)

 

前回の記事から

こういうものである。実は受容と脳内での成形がまず始めに有るのだが、有るものは外界であってそれが意識に現象すると逆転誤解されてしまう。いいだろうか、現実に起きていることは、思われている順序通りで起きてはいないのである。見る「私」が見ているのだという構造は、順序倒錯によるマチガイである(感覚に関しても同様)。)

という論述がどれだけ常識になじみがたく《直感に反する》ようであっても、現代の脳科学の見解とは親和的ではないだろうか。すべてが脳の中の出来事でそれを外界に投映する、しかし常識や直感が捉えるところでは、その逆で、外界から情報が来るということになってしまう。

ニーチェの議論として原因と結果の取り違えというのが有名である。しかしそれがこのような現代脳科学ばりの知覚論にも行き渡っていること、こんな面白い話もしていたのだということ、それはほとんど知られていないだろう。全集の隅をつつくというか断片集を繙かないと出会わない文章であり、アホたちは今日も最大の駄作『ツァラトゥストラ』しか見えず読めない。

いずれにせよ原因結果の取り違え逆転という話はおもしろい。それは、認知エラーという何よりも面白く切実な話の一部である。

前々掲の断片にある夢の中で大砲の音を聞くという事だが、これは、この時期の大分前のほうに位置する断片で述べていることである。その断片を見ると、面白い話が尚一層理解できるだろう。

Wie im Traume zum Kanonenschuß die Ursache gesucht wird und der Schuß erst hinterdrein gehört wird (also eine Zeit-Umkehrung stattfindet: diese Zeitumkehrung findet immer statt, auch im Wachen. Die „Ursachen“ werden nach der „That“ imaginirt; ich meine, unsere Zwecke und Mittel sind Folgen eines Vorganges??)

Wie sicher wir eingeübt sind, nichts ohne Ursache zu glauben, das zeigt das eben erwähnte Phänomen: wir acceptiren den Kanonenschuß erst, wenn wir uns die Möglichkeit ausgedacht haben, wie er entstanden ist, d.h. allem eigentlichen Erleben geht eine Zeit voraus, wo die zu erlebende Thatsache motivirt wird.

— dies könnte in der Bewegung jedes Nervs, jedes Muskels der Fall sein.

Also in jeder sogenannten Sinneswahrnehmung giebt es ein Urtheil, welches den Vorgang, bevor er ins Bewußtsein „eintritt“, bejaht oder verneint

Alles organische Leben ist als sichtbare Bewegung coordinirt einem geistigen Geschehen.

Ein organisches Wesen ist der sichtbare Ausdruck eines Geistes.

(Nietzsche, 1884,26[35])

 

(夢の中で砲音なんかを「聞」く時に、その発生源は何かいなとなってそれから然る後に音が「聞こえ」たとしたら、順序がおかしい。これは流石に誰にも分ることだ。というのは、言うまでもなく夢の中ではまず最初に聞こえが存在するのだからそれがまず最初に有るものであってその「源」のほうが時系列上後で見つかるものだからだ。源→「聞こえ」るでは順序が逆。しかるに、夢に限ったことではない。そもそも、知覚の外に物理的「源」があって→それが→知覚に→届くという普通考えられている順番が、おかしいのである。逆だよバカ。現実上でも、知覚が先で最初だ。出来事がまず存在していて、後になってハテさてその原因は理由はなんじゃろなと後付けされるのである。いや原「因」だけでなく目的「因」もそうだし、「過程」や方法や方途やプロセスも同様。後付け。そっちが有ってそれから今が在るのではない。しかし正しい順序を考えることはほぼ誰にも無理だ。そこまで、原因→今現在という思考回路に洗脳されている。音「の原因」が分かるまでは音が聞こえないと言っていいぐらいだ。今現に知覚していること行為していることがそのままには信じられないのである。それがしかるべき原因で説明され切らないと、受け容れられないのである。これは、どの神経が働こうがどの筋肉が動こうが、常に必ず毎回こうなってしまうことである。何なら感覚器官上での受容という何よりも直接的で非思考的な過程においても、そうなってしまう。それは直接的ではなく、考えられ屁理屈付けられている思考の一種である。感じたと意識する前に、原因病の屁理屈が、感じていいかどうかを裁決しにきよるのである。つまり生体の活動は屁理屈に理解できるようになった時にしか理解できない。「生体」とは屁理屈の一種。)

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睡眠中に実際の砲音が鳴っているのではないと仮定しているのであろうが、夢の中で音源→音知覚という順で知覚が生じていたらおかしいとは流石に誰にも分かる倒錯だろうが、ここから翻って、現実だって同じことだと言っている。原因を探しに行くのが倒錯だと(或いは原因とは探しに行かれるものでしかないだと)述べている。直感に反する話すぎるから、夢という非現実を例示するというクッションを置いて論述しているのであろう。

(こういった原因病も後知恵バイアスの一種と見えるし、後知恵バイアスが原因病の一種とも見える。現時点の行為等Aには、想起(されるだけだが)できるA'のほうが想起できるBよりももっともらしい原因に思える。どちらもAに先立つ何かではあり、どちらが選ばれるか、また如何にC, D, E…が都合よく想起されないか、それは、Aを見る者のバイアスに依る。同じく、Bから見ればB'こそが最も原因らしい。そう見た時点で、A'なりB'なりが原因であったことがもっともらしく当然なように思われる。A'→Aが固定される。都合よく、B, C, …n →Aという諸可能性がことごとく排除される。この認知は瞬間的であり(まあ別にそうでなくてもいいのだが)、カラクリは意識されない。AにはA'としか思えず、A'は「や

次回の記事に続く