地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (13)

 

前回の記事から

ェが科学というものについて発言している文言を確認しておいてもいいであろう。

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Umfang der dichterischen Kraft: wir können nichts thun, ohne nicht vorher ein freies Bild davon zu entwerfen — (ob wir freilich nicht nicht wissen, wie sich dies Bild zur Handlung verhält, die Handlung ist etwas Wesentlich-Anderes und verläuft in uns unzugänglichen Regionen). Dies Bild ist sehr allgemein, ein Schema — wir meinen, es sei nicht nur die Richtschnur, sondern die bewegende Kraft selber. Zahllose Bilder haben keine Aktivität nach sich, davon sehen wir ab: die Fälle, wo sich hernach etwas begiebt, was „wir gewollt“ haben, bleiben im Gedächtniß. — Aller unserer Entwicklung läuft ein Idealbild voraus, das Erzeugniß der Phantasie: die wirkliche Entwicklung ist uns unbekannt. Wir müssen dies Bild machen. Die Geschichte des Menschen und der Menschheit verläuft unbekannt, aber die Idealbilder und deren Geschichte scheint uns die Entwicklung selber. Die Wissenschaft kann sie nicht schaffen, aber die Wissenschaft ist eine Hauptnahrung für diesen Trieb: wir scheuen auf die Dauer alles Unsichere Erlogene, diese Furcht und dieser Ekel fördern die Wissenschaft. Jener dichterische Trieb soll errathen, nicht phantasiren, aus wirklichen Elementen etwas Unbekanntes errathen: er braucht die Wissenschaft d.h. die Summe des Sicheren und Wahrscheinlichen, um mit diesem Material dichten zu können. Dieser Vorgang ist schon im Sehen. Es ist eine freie Produktion in allen Sinnen, der größte Theil der sinnlichen Wahrnehmung ist errathen. Alle wissenschaftlichen Bücher langweilen, die diesem errathen wollenden Triebe kein Futter geben: das Sichere thut uns nicht wohl, wenn es nicht Nahrung für jenen Trieb sein will!

(Nietzsche, 1881,11[18])

 

(すべては造った世界だということを認識したいことについて述べる。何か動作や行動をするに際しては、どんな動作や行動をするのかを思い描かざるをえない。もちろん、思い描いてそれがどのように行動につながるのかのプロセスは未知であり、行動というのは行動しているヒトにこそ永遠に未知であることはそらそうである。思い描くと言っても動作を粗く素描するだけのものだが、これが動作の原動力そのものだと思ってしまう。そも思い描くというのは数秒間数分間とかに何度も何度も多数回するものなのだから実際はほとんどの思い描いたイメージが行動につながらない反故になるはずなのだが、ところが、思い描いた心象と行動が一致したケースだけを都合よく記憶してしまい、そうして、思い描いた通りに現実が成ったと思い為してしまう。しかしヒトの行動と人類史はまったくの未知で不可知なのであって、そんなところに都合よく目的や意味や歴史を見ても、阿呆な妄言でしかないのである本当は。ヒト認知はそういう妄言虚妄をコネ繰り出すようにプログラミングされた欠陥物であって、虚妄妄想のほうを宇宙の本体と思い込んでしまうものである。ここで学術や科学が役割を果たすことはないのだが、しかし科学は虚妄癖に養分を与えてはしまう。人間は不確かというのが嫌いで、不可知で不分明にしておかれる間を拷問と感じる。嘘を付かれているのではないのかと疑わざるをえないのがイヤでたまらない。こんな奴には当然科学の営みはエエものに思える。いいだろうか、世界の実相に迫らんとする無我無欲の知的動力が科学を営むとは限らない。未知不明瞭を嫌うがあまりすぐ虚妄をデッチ上げたがるヒトのボケさアホさが、全身これ確実性のかたまりにしか見えない科学に走るものでもある。そこでやってることは一種の謎解きまたは当てもの当てずっぽであり、虚妄の続きにすぎない。複雑多様で不可知な現実に確からしいものを当てに行っているにすぎない。これは視覚の構造とよく似ているものである。視覚とは見ることというよりは見える物を造ることであり、他の感覚同様、「見る」というよりはずっと見に行く・当てに行く・確からしいものを勝手に抽出して来ることである。さて、であるから、ヒトボケの虚妄大好き根性に迎合しない限りは、科学というのは客を集めれないものである。ヒトの虚言癖妄念欲を満たしてやるために営まれてしまっているものでもある。)

このように述べて科学に賛否どちらでいるのか、それを簡単に決めてしまうことはできず、他の断片で言っていることと照らし合わせないとその辺はなかなか分からないところではあるが、とにかくこの断片で確実に言っていることは、科学が客観的で定量的で測定された精確な知識をもたらすものだから、ヒトの欲動によくよく迎合してしまうものでもあるということである。その欲動が、確かなことを知りたいという欲動である。本シリーズのこの記事でも見たことではあるが、ここでは、よく分からない状態や欺かれているという疑念が嫌悪に満ちた恐怖心になりそれが科学の動力となるものだ(wir scheuen auf die Dauer alles Unsichere Erlogene, diese Furcht und dieser Ekel fördern die Wissenschaft)と述べており、確実病と科学とを明確に関係付けている。

もちろん科学というのはコレがコウだとは言わないものである。二元論や断言で安心を保証するようなものでも何でもない。安心させてくれる命題群や共同幻想を供給するものでは断じてなくて、すべてを確率と統計傾向の不可知の炉に流して、何が分かりましたとウレシがるのでなく分かるまでにどう進んだらいいのかの仮説と反証を提示するだけのものである。つまり分からないとか不可知とかいう側にこそ立つ知的営みであり、世界の実相に嘘をつかず虚妄に溺れないものである。今までに見てきた文章からニーチェがそれを理解していることは確かめるまでもないことである。

だからこの断片に読むべき論点は、確かでありたいという病

次回の記事に続く

 

ランナーズハイ(小栗有以、後藤楽々、高倉萌香、松岡はな、山本彩加)

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