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しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (7)

さよならクロール<Type B>(初回限定盤)(メーカー特典なし)

さよならクロール

  • AKB48
  • 発売日: 2013/05/22
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前回の記事から

wir nichts für das „Wahre an sich“ bewiesen, sondern nur „das Wahre für uns“ d.h. das Dasein-uns-Ermöglichende auf Grund der Erfahrung — und der Prozeß ist so alt, daß Umdenken unmöglich ist. Alles a priori gehört hierher. 〔文中の「empfindent」は「empfindet」のまちがい。引用元サイト上の誤り。〕

(Nietzsche, 1881,11[286])

 

(人間という動物は、不確かでよくわからん状態が大の苦手で、確信できないのが死ぬよりも苦しい。この記事読んどけ。ちょっと確信できそうなネタがあったら死なんばかりに飛びつきよる。こいつらには少数の法則しか通じない。なんかあったらすぐ信条とポリシー(←死語)をコネ繰り出して、1回でも通じたものは是生きるヨスガとしヨガりよる。こんな思考過程は思考過程でも何でもないのだが、人間動物ちゅうボケはフィーリングと直感でしか生きれないのである。こいつらひたすらこうやってやってきた。こいつらには、諸々の可能性を多面的に比較考量して熟考の果てにファジーアンビバレントなババンババンバンバンするよりも、出たとこ勝負のでたらめ当てずっぽに飛び付いて思考停止してしまうほうがずっと都合がいいのである。物事はあれかかこれかの単純二値ではなく何が上か下かなど決めれるものではないのだが、人カスのボケはすぐ勝った負けた上だ下だを決めつけてしまい、勝ったものだからイイくて負けたものだから悪いなどとトンデモなく頭の悪い考えをしてくさる。こうしていないと外にも出れず手も動かせずチンもこけない。動作主体Sがたんっじゅんに有って動作Vをたんっじゅんに為すといった低能図式が大好きなんだよな。低能と非科学ばんざい、熟慮と確率論思考はお断り(こういうのは発生史上も後から出来たものだしな)、これがヒトが生きてくための生きてく強さのすべてである。コレがコウだと決まっていることをソウだとひたすら信じこみ続け、続けてきたことをエンエン繰り返すだけ、これがヒト猿社会をここまでの繁栄に導いてきたっちゃ導いてきた。はっきり言って今お前と人類全員に見えている世界、そんな見え方は、たまたまうまいこといくことがあったところのイチ見え方にすぎない。手に取れる物体やブツが「存在」していてそれを手に取る主体が居て等々という信仰を続けてきたらたまたま都合がよかったというだけのことだ。ヒト動物の生存存続のために適した世界観だったというだけのことだ。それがなにがしか正答だったり真実だったりするワケでは全然別にない。何が善で何が悪かというルールやモラルや法律もまったく同様。そんなんも全部、この動物の生存上都合がよかっただけのもの。思考の産物とは言い難い。歴史がちょこっと違ってたら全く別の生存方法がなんぼでもあって故に全く違う見え方や世界像がなんぼでもあった、そんなことが想像できる。今の見え方と見えている世界は限られている。それもありうるだけの1の例にすぎない。それが分かったら、今までに人間が何を明かしてきたのかがよう分かる。それは事物そのものではない。自分らの御都合を明かしてきただけだ。生存に都合のいい生き方集を蓄積してきただけだ。これを覆すのは今となってはもう不可能である。完全に既定のものになってしまった。)

見ての通り、見事に、システム1とシステム2(System 1 and System 2)の議論、二重過程理論(dual process theory)の話である。確証に飛びつく「思考」と、科学的で確率論的で多値的な思考。この19世紀の人は、行動経済学の現代にタイムスリップして来たのだろうか。そう思ったらええ。どう見ても、現代的トピックである。

お姉さんの独り言

お姉さんの独り言

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  • 発売日: 2015/12/09
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これがニーチェのしていた議論である。こういうニーチェを知ったらええのである。「ニーチェ」「思想」とはこういうものと思い込んでいるおまえの思ってるのはニーチェではない。そんなつまらんもんではない。断片は断片で書いた時の気分が表れるものでこの断片は末尾で人類を説得するのを諦念してしまっているが、しかしこの人は説得を生涯諦めなかった。倦まずたゆまず説き続けた、それはすべて、他でもありえた膨大な可能性の1つに過ぎないと。人類は自分病を発症しているだけなのであって事物の究明に向かったことなどなかったのであると。そんなわけにいかんじゃろボケあほんだら、と。

そして自分病の問題、自分の持っているもの・やっていることはゼッタイに正しい(„Gewohnheit und unbedingter Glaube“)という認知エラーの問題を精確に認識している。この点に関して次の断片の見てみよう。自分が持っているものややっていることと人間認知がどう付き合うものなのか、コトは単純ではないのだが、その微妙な実情をしっかり押さえて簡明に描いている:

Grundgedanke der Handels-Kultur: die niedere Masse mit ihrem kleinen Besitz wird unzufrieden gemacht durch den Anblick des Reichen, sie glaubt, der Reiche sei der Glückliche. — Die arbeitende überarbeitete selten ruhende Sklavenmasse glaubt, der Mensch ohne körperliche Arbeit sei der Glückliche (z.B. schon der Mönch — daher die Sklaven so gern Mönche wurden). — Der von Begierden Geplagte und selten Freie glaubt, der Gelehrte und Unbewegliche und auch Geistliche sei der Glückliche. — Der hin- und hergerissene Nervöse glaubt, der Mensch der großen Einen Leidenschaft sei der Glückliche. — Der Mensch, welcher kleine Auszeichnungen kennen gelernt hat, meint, der Geehrteste sei der Glückliche. Es ist das selten und in geringem Grade Besessene, was die Phantasie der Menschen zum Bilde des Glücklichen aufreizt — nicht das was ihnen fehlt — das Fehlen erzeugt Gleichgültigkeit gegen den Gegensatz des Fehlens.

(Nietzsche, 1881,11[246])

 

(認知の機微を職業を例にして見てみよう。例えば収入はあってもずっと低いままでもっと増えてほしいと思っていると、とにかく高収入になりたく思うようになる。例えば過労気味の肉体労働をしてると、ホワイトカラーのほうがいいなと思うようになる(実際なった実例も身近に仰山あるだろ)。俗世の欲にまみれて飲む打つ買うしてきた自堕落者になら、書斎の学者様や坊さんなんかが立派なものに思えてしまう。中間管理や接待で神経すり減らしてきたなら、「好きなことで生きていく」的な人生がうらやましいなと思えてしまう。平々凡々人には要職の人や名誉教授なんかは無条件にエラいだろう。いいだろうか、自分にちょっとしか無いまたはちょっとだけ有るものが、良いもの欲しいもの高評価するものの判断基準になるのであって、《自

次回の記事に続く