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しばいてくぞ

ニーチェの認知科学 (1) ~視覚処理と因果錯誤~

 

どんな人物もそうされるものだがニーチェなども、物事を自分が見たい見方で見ることしかできない連中に受容されてしまい、自分の都合と確証で歴史人物を製造したがる奴らに勝手に虚像をデッチあげられている。この人が、後世が型にはめてしまったような、「永劫」「回帰」を耐え忍び「未来の」なんやかやについて大いに「形而上学」を語る「超人」の後援者だったり、「生」の「大いなる」「没落」や「生成」を「哲学」していた「西洋」や「道徳」の打診者代弁者、「神」の「死」を「大いに」預言する重厚長大な知の巨人、であってしまっているのは、そうあって欲しいやつらの願望に因る所にすぎない。それはお前の「ニーチェ」(だとして)だよバカ。実際には、書いたものには、ごく日常的なお前や我々のつまり人間の外界認知の構造について述べている(そして他の生物なら他の生物なりのまったく異なる外界認知システムが有ると述べている)文言が散見される。例えば、たまたまテキトーに開いた断片群(1884年夏~秋)の中の偶然目にとまった1文章に曰く:

ハート・エレキ

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Das Auge, wenn es sieht, thut genau dasselbe, was der Geist thut um zu begreifen. Es vereinfacht das Phänomen, giebt ihm neue Umrisse, ähnelt es früher Gesehenem an, führt es zurück auf Früher-Gesehenes, bildet es um, bis es faßlich, brauchbar wird. Die Sinne thun dasselbe wie der „Geist“: sie bemächtigen sich der Dinge, ganz so wie die Wissenschaft eine Überwältigung der Natur in Begriffen und Zahlen ist. Es giebt nichts darin, was „objektiv“ sein will: sondern eine Art Einverleibung und Anpassung, zum Zweck der Ernährung.

(Nietzsche, 1884,26[448])

 

(ものを見るというのはものを考えるのと同じことをやっている。同じような情報処理をしている。受容情報が既知既存のスキーマに基づいてパターン化されて、既知既存のフレームに収まるように加工されてしまうのである。感覚と思考が違うことをやる別物だとは思うな。なにごとも、要するに、センスデータを加工しているのである。知能のすることと同じだ。受容データを分類棚階層棚に振り分けたり統計的に捉えたりしてしまうのである。こんなとこに事物がきのままナマのまま現れるわけがないからな。なお、ヒトが何故こんな風に外界を受容するのかと言うと、それはもちろん外界をうまいこと食べてしもて消化してまうためだ。こういうのはぜんぶ一種の摂食なのである。)

 

この人のボキャブラリーに関しては確かに上記のものや「パースペクティブ」や「解釈」や「背(前)景」や「力」や「意志」やと大仰で時代がかっているものに見えるが、それらでもって言いたかったことは現代認知心理学を《先取り》する内容なのであって、大仰で時代がかっているように見えるのは、外語読解が幼稚でお粗末な邸能たちが定型無思考の大仰クソ日本語に「訳」すしかノウがないからなかったからである。こいつらがやってることは辞典見出し語機械転「訳」以外の何でもない。アホは、「生理学」とか「芸術」とかゴテゴテ語彙を並べ、何かを分かった気になり、一切何も分からず、「研究」と称する。そんなアホどもが受容してきたのがニーチェだ。

世界と他人に自分の期待と自分ワールド憲法を勝手に《おしつける》奴らがどうやってニーチェのフィクションを伝承してきたかに関しては上のほうでリンク貼った記事シリーズで詳細に見ているが、主に断片群を見ており、いま、この記事でもしているように、有名作品の誰もが見ているはずの文章に当たってみよう。誰もが知ってる『悦ばしき知識』、これの第3書、神殺害(という、シュティルナーが40年前に言っていた事)の話が出る名物断章の直後の第127断章。

美しい稲妻

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Nachwirkung der ältesten Religiosität. — Jeder Gedankenlose meint, der Wille sei das allein Wirkende; Wollen sei etwas Einfaches, schlechthin Gegebenes, Unableitbares, An-sich-Verständliches. Er ist überzeugt, wenn er Etwas thut, zum Beispiel einen Schlag ausführt, er sei es, der da schlage, und er habe geschlagen, weil er schlagen wollte. Er merkt gar Nichts von einem Problem daran, sondern das Gefühl des Willens genügt ihm, nicht nur zur Annahme von Ursache und Wirkung, sondern auch zum Glauben, ihr Verhältniss zu verstehen. Von dem Mechanismus des Geschehens und der hundertfältigen feinen Arbeit, die abgethan werden muss, damit es zu dem Schlage komme, ebenso von der Unfähigkeit des Willens an sich, auch nur den geringsten Theil dieser Arbeit zu thun, weiss er Nichts. Der Wille ist ihm eine magisch wirkende Kraft: der Glaube an den Willen, als an die Ursache von Wirkungen, ist der Glaube an magisch wirkende Kräfte. Nun hat urspünglich der Mensch überall, wo er ein Geschehen sah, einen Willen als Ursache und persönlich wollende Wesen im Hintergrunde wirkend geglaubt, — der Begriff der Mechanik lag ihm ganz ferne. Weil aber der Mensch ungeheure Zeiten lang nur an Personen geglaubt hat (und nicht an Stoffe, Kräfte, Sachen und so weiter), ist ihm der Glaube an Ursache und Wirkung zum Grundglauben geworden, den er überall, wo Etwas geschieht, verwendet, — auch jetzt noch instinctiv und als ein Stück Atavismus ältester Abkunft. Die Sätze „keine Wirkung ohne Ursache“, „jede Wirkung wieder Ursache“ erscheinen als Verallgemeinerungen viel engerer Sätze: „wo gewirkt wird, da ist gewollt worden“, „es kann nur auf wollende Wesen gewirkt werden“, „es giebt nie ein reines, folgenloses Erleiden einer Wirkung, sondern alles Erleiden ist eine Erregung des Willens“ (zur That, Abwehr, Rache, Vergeltung), — aber in den Urzeiten der Menschheit waren diese und jene Sätze identisch, die ersten nicht Verallgemeinerungen der zweiten, sondern die zweiten Erläuterungen der ersten. — Schopenhauer, mit seiner Annahme, dass Alles, was da sei, nur etwas Wollendes sei, hat eine uralte Mythologie auf den Thron gehoben; er scheint nie eine Analyse des Willens versucht zu haben, weil er an die Einfachheit und Unmittelbarkeit alles Wollens glaubte, gleich Jedermann: — während Wollen nur ein so gut eingespielter Mechanismus ist, dass er dem beobachtenden Auge fast entläuft. Ihm gegenüber stelle ich diese Sätze auf: erstens, damit Wille entstehe, ist eine Vorstellung von Lust und Unlust nöthig. Zweitens: dass ein heftiger Reiz als Lust oder Unlust empfunden werde, das ist die Sache des interpretirenden Intellects, der freilich zumeist dabei uns unbewusst arbeitet; und ein und derselbe Reiz kann als Lust oder Unlust interpretirt werden. Drittens: nur bei den intellectuellen Wesen giebt es Lust, Unlust und Wille; die ungeheure Mehrzahl der Organismen hat Nichts davon.

(Nietzsche, Die fröhliche Wissenschaft, III/127)

 

その迷信をやめい: おつむの程度がアレだと、「意志」だか「意」だかを信心し出す。それはもうガッツリ有り有りと存在してはって、毫も譲れんもんなんだそうだ。なんたって、自分のする動作は意志有ル「自分」様のする動作らしいからな!し「ようとした」のだから、そんな意があったのだから「した」ことになるんだからな!…ちがいます。単に、「しようと」する感じ・感触・味わい、そんなようなもんが、有る。それだけ。おわり!!…であるのにだ、そんな感触などを頼りに、原因様「しようとした」が結果殿「なされた」を生じせしめるだとかいった御高説をコネくり出しよるのである。あのな、1個の動作が成るためだけにだな、どんだけ無数恒河沙阿僧祇那由他な諸々の連関・仕組み・からくり・原子運動・金の愛、銀の愛が有るおもとんねん。そんなとこで「原因」1個「結果」1個はいしまいなワケがないだろ。しかもその際に、我らが「意志」陛下だが、あとでもっかい言うけど、こいつ一切何もしてないんだぞ。しかしこういったことを解さん輩には、「意志」というもの是ほぼ魔力である。呪術だ。精霊信仰だ。必殺テレポート。そら与太話「原因と結果」も成立するわ。しまいには「意志」殿下に手足生えて世を統べ出すぞ。それもこれも、行為事象の何がどないなってんのかの実相をロクに知りよらんことに因る。それが何故なのかと言うと、ヒトはヒトが大好きだから、そこばっか目が行ってモノとその仕組み・ブツたちの働き合いに向かわんから、である。何万年もそうやってきたからである。ええか、「ヒト」なら、そら、なにかをスル・シテルように見えるわな。このへんばっか見てたらそりゃ「原因」「者」云々とか思い為しよるわな。そういうことだ。(なお現代でも思い為している模様。) …【何かがあると即原因が有る】・【ナニカガイルは本間日陽】・【原因→結果】の信仰箇条、基底に【意志→結果】教条・未確認「意志主体」物存在論・行住坐臥の刺激受容どれも意志基体の刺激受容説。うむ、おめでたいぞ。ちな、今でこそ分かれてるが昔はもっとヒドくて意志も原因者も区別なかったからな。どっちが根本も派生もなかったからな。そういえば、小生もかつてハマってた助之平先生だが、この人なども、有ル物即是意ス者也などとラリっていたものだが、考えたら、先祖返りである。意志とは何なのかをつらつら考えてみたことがなかったのだろうな。あたかも手に取れる物・掌が語ること云々と妄念していたのだろう。なんたるボンクラ。 …真相を言うと、「意」とは、頻々出してきたが故に無思考脊髄反射で勤行されるようになってしまっただけのうんこなのである。ウンコな議論。よって、これだけは覚えて帰って。「意」なるものは、イイ・悪イの情緒情感にヘバリ付いてきよるなんかである。コトは快不快の問題。ところで、いま刺激が閾上に来て、まあ刺激αとすると、これが快なのか否なのかというのは、無意識過程において大脳のほうで処理しはって決めはる事柄であり、処理いかんではαもどっちにもなる。わかったか?快・不快・「意志」ウンタラとは、大脳が発達している生物種限定のハナシなのであって、そうでない生物種(山ほどおんぞ)には、こんなもん無いのである。)

「意」識が動作等においてただ感知されるだけの付随物にすぎず何ら基点的実体ではないという知見、例のリベットの話を想わせるものであるが、いや想わせるどころではなくて、ここではそない明確に言っていないだけで、別の文章に、お

次回の記事に続く

 

出逢いの続き

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  • 渡辺 麻友
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