地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェは「死」の思想家だからな。勘違いするなよ。

 

前回の記事から

の後で述べている「最高のもの」 というのはそういうものではない。畏怖を起こしこそすれ、剥き出しで威圧的な暴威ではなく、心地いいものでもあり善意あふれるものであるという。これは一体何だろうか。訳文中にリンク貼った過去記事で述べている例のもののことと自分は解しているしそれしか興味ないからそれとしか考えないが、かといって実際にはそれを思い浮かべていたのではないだろう。書きながら何を想っていたのだろうか。何のことなのだろうか、この最高に価値あるモノというのは。

54th Single「NO WAY MAN」<TypeD> 通常盤

NO WAY MAN<TypeD> 通常盤

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さて現在見ている1881年春~秋の断片群だが、8年前の【感覚こそ真理】論と異なる論旨が見られる。

Grundfalsche Werthschätzung der empfindenden Welt gegen die todte. Weil wir sie sind! Dazu gehören! Und doch geht mit der Empfindung die Oberflächlichkeit, der Betrug los: was hat Schmerz und Lust mit dem wirklichen Vorgange zu schaffen! — es ist ein Nebenher, welches nicht in die Tiefe dringt! Aber wir nennen’s das Innere und die todte Welt sehen wir als äußerlich an — grundfalsch! Die „todte“ Welt! ewig bewegt und ohne Irrthum, Kraft gegen Kraft! Und in der empfindenden Welt alles falsch, dünkelhaft! Es ist ein Fest, aus dieser Welt in die „todte Welt“ überzugehen — und die größte Begierde der Erkenntniß geht dahin, dieser falschen dünkelhaften Welt die ewigen Gesetze entgegenzuhalten, wo es keine Lust und keinen Schmerz und Betrug giebt. Ist dies Selbstverneinung der Empfindung, im Intellekte? Der Sinn der Wahrheit ist: die Empfindung als die äußerliche Seite des Daseins zu verstehen, als ein Versehen des Seins, ein Abenteuer. Es dauert dafür kurz genug! Laßt uns diese Komödie durchschauen und so genießen! Laßt uns die Rückkehr in’s Empfindungslose nicht als einen Rückgang denken! Wir werden ganz wahr, wie vollenden uns. Der Tod ist umzudeuten! Wir versöhnen <uns> so mit dem Wirklichen d.h. mit der todten Welt.〔文中の「wie」は「wir」の誤り。引用サイト上の誤り。〕

(Nietzsche, 1881,11[70])

 

(見て聞いて感じてしているもののほうが偽物であってその裏の物体や死物のプロセスが真だということ、これだけは間違わんようにしろ。だというのに、おまえと人間は、その見て聞いて触わってしている世界の側に生きてしまっている。それが世界であってしまっている。いいか、感覚なんてものは物の奥を見せなくして目をクラマしてくるだけのものだ。楽しかったりシンドかったり、快だったり苦だったりするこの生きた日常は、物質のプロセス上に起きている錯覚にすぎない。物理生理プロセス上の単なる随伴現象だ。ところが、アホなことに、こちらのほうが内的必然的なものだと、死せる物たちの世界のほうが感覚内面に届く外部の世界だとカン違いしてくさりよる。「死」んでなんかないわボケ。反対にトコシエに運動流転していてただただ真であり力動が力動とせめぎ合っているという生動世界だ、感覚のほうには嘘しかないのと違ってな。このことを理解して見方を反転しなければならない。それはイイことなのであり、何よりも、ヒトならすべからくものを知りたいと思うものだが最も知りたいはずのものが物の世界死の世界なのであり、感じ(る)というカリソメの嘘のまやかしの世界から物の永遠世界に目覚めるのである。快も苦も一切の感覚が嘘だ。こう言うと、感覚の中に生きているヒト認知のあたかも自殺を奨励しているかのごとくだが、しかし真とはそういうものである。見え聞こえ感じられするものこそが(内部でなく)外部のものだと判ることだ。感覚とは存在のエラーであり逸脱なのである。いつまでもノサバれるものではない。ただの寸劇の余興だ。そっちこそマチガイなのであって、物の世界に行くことは認識が退行することではさらさらなく、進歩することなのである。ええか、「死」というものを、勘違いしてきたのである。世界の実相なのであり、それはいかんものではないのである。)

感じられている日常風景こそが「生」だと思われていてその裏の物的過程が冷たい死んだ世界だと思われているがそれは逆だよボケと述べている(実際に見えている風景と実際に存在している電磁波との対比のようなものを念頭に置いているかと考えられる。次回記事で見る)。感覚の地位が下落もとい凋落してしまっていて、物理的神経プロセスにスーパーヴィーンするもの(ein Nebenher)にすぎないとされたり、悪質な虚偽の元凶とされたりしている。物や物質や物理や電磁波、こういったものが活物の活力や反対の静物死物だという認識が倒錯した誤りだと、死んでいるはずのものが永遠の生動だと言い、その際、非常に面白いことに、「死」の意味を独立させてしまっている。「todt-」〇〇という「死」の比喩的表現に留まらず「Der Tod」と(隔字体にまでして)言い切ってしまっているように、ここで言う「死」は人生の終わりのアレも含意してしまっている。

これが科学的態度だと言うのいやまさに全くもってそうだろう。見えて聞こえて感じてするものが真実という直感に心地いい虚偽に気付いて、物質と物理のホントウの世界に目を開くという態度。いずれにせよ、引用はしていない前後の断片、いや他の時期の数々の断片で述べているように(例えばこれ)、現代の人間は個人の日常を勝手に最上価値にして「人間」を謳歌しているがこの傾向が間違いであって人類は数万年単位で「人類」種単位の思考(どころかもっと広い思考)をしなければならず自分の感覚でなく物体と物理の側に立った考えができるようにならなければならず将来的にはそういう思考がふつうになるのであって現代の人類はそこまでの過程にすぎず過程というものに付き物のエラーやバグに満ちたものであるという根本の主張が有る。そ

次回の記事に続く

 

友達でいられるなら(島崎遥香、横山由依)

友達でいられるなら(島崎遥香、横山由依)

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  • 発売日: 2015/01/21
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