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しばいてくぞ

ニーチェ、1888年春 (2)

 

前回の記事から

恋は仮病中(Charming Trip)

恋は仮病中(Charming Trip)

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りも強くあろうと戦い合っているチカラ意志たちの各定量が世界を成すのだから、こういった邪気やドスを除いた純粋物の純粋やりとりを記述した学などは、コトのしょぼい一部をとらまえているに過ぎない。「物質」「原子」「圧力」「衝突」「重力」などと言うといかにも現実世界の実像をそれに即して克明に描写しているようだが、全然そんなことなくて、こんなものは、描写にせいぜい努めるためにイメージに頼って考案したモノにすぎない。生命や生動というのは一番みんなが知ってる言い方で言うとチカラを蓄えていって強くなっていくという事柄である。チカラの増減というのが人生なのである。そんな所で自己保存や基本的人権やなどあったものではない。嘘をやめい。生きている以上ドダイ勝つか負けるかこ〇すかこ〇されるかしかありえない。覚えとけ。ところでこうやって「生」ということを言っているが、「生」という以上個々の生の話をする以外には話しようがないのだが、そうではあっても全存在者を説明できるものではある。とにかく生きるというのは最大限のチカラを最大限に感じれるレベルになるまで戦ってくということである。力を着けていくということでしかありえない。そしてそもそも何事かを目指すということが力を目指すということでしかありえない。チカラを目指すこと、これがすべての根源であることは疑いようがない。力学なり物理学なりといったものは悪魔でこういった現実相を書き記した報告にすぎない。)

という断片がある。読んでの通りだ。もしこのような世界説明体系が生き延びていたら、広範に受容されて一定の公認を得ていたなら、現代の知と言論がどのようになっていただろうか。これがもし科学になっていたら、科学はどのようになっていただろうか。もしニーチェ科学が成立したら、世界はどのように見られるようになるだろうか。

Philosophie

Die Physiker glauben an eine „wahre Welt“ auf ihre Art: eine feste, für alle Wesen gleiche Atom-Systematisation in nothwendigen Bewegungen, — so daß für sie die „scheinbare Welt“ sich reduzirt auf die jedem Wesen nach seiner Art zugängliche Seite des allgemeinen und allgemein nothwendigen Seins (zugänglich und auch noch zurechtgemacht — „subjektiv“ gemacht) Aber damit verirren sie sich: das Atom, das sie ansetzen, ist erschlossen nach der Logik jenes Bewußtseins-Perspektivism, — ist somit auch selbst eine subjektive Fiktion. Dieses Weltbild, das sie entwerfen, ist durchaus nicht wesensverschieden von dem Subjektiv-Weltbild: es ist nur mit weitergedachten Sinnen construirt, aber durchaus mit unseren Sinnen… Und zuletzt haben sie in der Constellation etwas ausgelassen, ohne es zu wissen: eben den nothwendigen Perspektivismus, vermöge dessen jedes Kraftcentrum — und nicht nur der Mensch — von sich aus die ganze übrige Welt construirt d.h. an seiner Kraft mißt, betastet, gestaltet… Sie haben vergessen, diese Perspektiven-setzende Kraft in das „wahre Sein“ einzurechnen… In der Schulsprache geredet: das Subjekt-sein. Sie meinen, dies sei „entwickelt“, hinzugekommen —

Aber noch der Chemiker braucht es: es ist ja das Spezifisch-Sein, das bestimmt So-und-So-Agiren und -Reagiren, je nachdem

Der Perspektivismus ist nur eine complexe Form der Spezifität

Meine Vorstellung ist, daß jeder spezifische Körper darnach strebt, über den ganzen Raum Herr zu werden und seine Kraft auszudehnen (— sein Wille zur Macht:) und Alles das zurückzustoßen, was seiner Ausdehnung widerstrebt. Aber er stößt fortwährend auf gleiche Bestrebungen anderer Körper und endet, sich mit denen zu arrangiren („vereinigen“), welche ihm verwandt genug sind: — so conspiriren sie dann zusammen zur Macht. Und der Prozeß geht weiter…

(Nietzsche, 1888,14[186])

 

(物理学的世界というのはなんぼ確固と見えてもそれでも現実の1つの写しにすぎないものであって、それはつまり【すべては決まった法則の中で決まった運動をする原子群なり】という写し方なのだが、こんな考えからすると、日常知覚されているのが嘘の世界であって物理学世界を各生物が勝手各様に捉えた世界であるということになる。原子云々の1つきりの本物の世界を全生物が共有していてしかしどやつも自分なりの捉え方正当化可感化しかしていず出来ていないのであると。いやいやそう考えるのがおかしいのである。なるほど原子などと言うが、これは、ものに原子というものを見たい見える見えるしかないという見え構造見え事情から仕方なくヒネ繰り出されたものなのであって、それこそまさに物理学が断罪する各生物の勝手各様の見え方見方と同じ穴のムスコムジナなものなのである。やってることが一緒なのである。その見方が精度や精緻さこそそれ相当なものなのはそうだろうが、かと言ってヒトに可能な見方の範囲内を一歩も出ているものではない〔ということに関して『知の構築とその呪縛』読んどこう〕。そうして各生物各様の見方というのをは自分の体系から閉め出してしまっているのだが、いやこれこそ一等まっさき最優先に大事なものである。世界というのは、チカラたち=全生物たちがおのがじし手前勝手に自分ワールドを構成して他の奴らに対峙しつつ自分のチカラを刻々涵養していく(各自のチカラの多少が各自の見え方を決定する)その有様から成るものである。こんな有様こそ、まさしく、物理学がうっとこの商品と喧伝してる世界の実相貌に他ならない。つまり俗に言う「主観」というものたること、これが世界の実相貌に他ならない、学術がそれをいくらガンバって蔑んだとしてもな。それどころか(生)化学だって話は同じことである。例えば生体の行動や反応を研究するのはいいが、そこで見ているのは、原子ガー運動ガーといった仮構物同様の一般的抽象的無内容なのではなくて、あくまでその個体特有の一定特定の行動や反応である。いいだろうか、(生)化学なんかが言う特定個体に特有の個別的反応というもの、これをもうちょっと高次水準で言ったものが上述の各生物の見え構造見え事情というものである。いま確実に言えることは、おのおのの特異反応をする特異個体たち特異個人たち全員が、24日365時間の人生全秒全瞬間にわたって、自分に見える範囲を支配下に治めて王様になりたがっている奴らであるということであり(これを力への意志という)、自分様の行く手を1ミリでもはばむならその邪魔物邪魔者はすべてコ〇そうとしているということである。で他の個体もそうしているのだから衝突を起こすのだが、そういう時に似た者同士ならばいっしょになってしまうこともあって、自分ワールド拡張派兵が終わるっちゃ終わる時もある。そうなると合併であり合作でありカルテルであり共謀である。合従連衡するということだ。結局はかちたいのであり上にあがりたいのであり力が欲しいのである。だから結局、終わりは無い。)

見るように化学の知見もWille zur Machtの体系に取り込もうとしていた;またはそれの説明手段にしようとしていた。いずれにせよ(他の断片同様)すがすがしいまでのパワー思想であり闘争的世界観である。こういった考えが今日の思潮風潮とどれだけそぐわないかというのは自身が

予想外のストーリー

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„Wille zur Macht“

„Der Wille zur Macht“ wird in demokratischen Zeitaltern dermaaßen gehaßt, daß deren ganze Psychologie auf seine Verkleinerung und Verleumdung gerichtet scheint…

Der Typus des großen Ehrgeizigen: das soll Napoleon sein! Und Caesar! Und Alexander!… Als ob das nicht gerade die größten Verächter der Ehre wären!…

Und Helvétius entwickelt uns, daß man nach Macht strebt, um die Genüsse zu haben, welche dem Mächtigen zu Gebote stehen…: er versteht dieses Streben nach Macht als Willen zum Genuß, als Hedonismus…

Stuart Mill: — — —

(Nietzsche, 1888,14[97])

 

(自分がこのように述べている思想など現代の思潮の中では居場所がないもので迫害の憂き目に遭うだけである。大衆と公衆と市民様の時代なのだから、特定の個人が他の人間よりも特別優位であってはいけない時代なのであるが、しかしまあ歴史上の誰でも知ってるあの英傑このヒーローなど実際はそもそも大衆人気や時代風潮なんかを蹴り潰してくれるような人々なのだがな。そういえばエルヴェシウスなどを読めば思えてくることだが、力があるものだから特別優位に立てる特別個人というのがあってこいつだけが享楽できる人生というのがあって、誰だってそういうものに憧れて生きているのである。それはもう否定しようがないことである。だから力への意志というのは快楽追求である。エルヴェシウスによるとそういうことになる。一方S・ミルなど)

などと述べているものでもあるのだが、アホがすぐ飛びつきそうなこんな断片(アホは「歴史」が大好きだからな)じゃなくて上掲の断片たちのようなものを見て、闘争チカラ原理にあまねく分子現象宇宙現象を包摂しようとしていたところを押さえたいものである。

今見ているチカラ欲求論だが力の増減ということに関して必ず快不快ということを考察うする、というか非常に気にしているも

次回の記事に続く