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しばいてくぞ

ニーチェ美学と内臓

ゴンドラリフト

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  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
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前回の記事から

っぱり」Aに成る、それはAから見て言っているだけにすぎないのに。極論すれば、「やっぱり(な)」思った瞬間全人類が後知恵バイアスを犯している。それは、20世紀後半の実験科学(とニーチェという驚異的考察家)が明かすまでは、誰にも判らなかった。そこまで原因病が根強く奥底にプログラミングされているからだ。)

ただそれでも、受け容れがたい話であろう。そして連いていけるか連いていく気があるなら、しょうみゆうて非常におもしろい話だろう。認知エラーを認知エラーと気付かせてもらい実際の認知過程脳内過程の摩訶不思議(ではないのだが)を見せてくれる、これが、

ニーチェ現代心理学の面白さである。

そういうものを見ていこう。1881年春~秋の断片群に戻る。

と言うかもうたいがい大量に見てきたので、今までと全く趣の異なる文章を見てみる。この記事この記事で見た話題と似たような趣向の議論。これなども、日本語で読もうとしたら、何が書いてあるのか意味不明でしかないクズ翻訳しか出回っていないから、何が書いてあるをはっきり分からせる真翻訳を本ブログがやっておくしかない。

Reinigung der Seele. — Erster Ursprung von höher und niedriger.

Das aesthetisch-Beleidigende am innerlichen Menschen ohne Haut — blutige Massen, Kothgedärme, Eingeweide, alle jene saugenden pumpenden Unthiere — formlos oder häßlich oder grotesk, dazu für den Geruch peinlich. Also weggedacht! Was davon doch heraustritt, erregt Scham (Koth Urin Speichel Same) Frauen mögen nicht vom Verdauen hören. Byron eine Frau nicht essen sehen (So gehen die Hintergedanken ihren Weg) Dieser durch die Haut verhüllte Leib, der sich zu schämen scheint! Das Gewand an den Theilen, wo sein Wesen nach außen tritt: oder die Hand vor den Mund halten beim Speichelauswerfen. Also: es giebt Ekel-erregendes; je unwissender der Mensch über den Organismus ist, um so mehr fällt ihm rohes Fleisch Verwesung Gestank Maden zusammen ein. Der Mensch, soweit er nicht Gestalt ist, ist sich ekelhaft — er thut alles, um nicht daran zu denken. — Die Lust, die ersichtlich mit diesem innerlichen Menschen zusammenhängt, gilt als niedriger — Nachwirkung des aesthetischen Urtheils. Die Idealisten der Liebe sind Schwärmer der schönen Formen, sie wollen sich täuschen und sind oft empört bei der Vorstellung von Coitus und Samen. — Alles Peinliche Quälende Überheftige hat der Mensch diesem innerlichen Leibe zugeschrieben: um so höher hob er das Sehen Hören die Gestalt das Denken. Das Ekelhafte sollte die Quelle des Unglücks sein! — Wir lernen den Ekel um!

Zweiter Ursprung der Unterscheidung von höher und niedriger. Alles Furchteinflößende als das Mächtigere gilt als höher; alles Andere als niedriger oder gar verächtlich. Als Höchstes — Furcht einflößen und doch wohlthun und wohlwollen!

(Nietzsche, 1881,11[53])

 

(物事に貴賤価値を付ける動機の原初的なのが、潔癖というものである。人体の内部のことは余り考えたくないものだろう。皮膚の下はエグいものだ。内臓がグログロととぐろを巻いてて腸なんかがウネウネ、それはもう毒々生物といった様。見た目以上に臭いも大したもんだろう。そういうのは、無いことにしたいものだ。そこから出てくるものも、出来たらヤメてほしい。糞尿分泌液〇液。消化の話は社交場で禁止、さる文人など異性の食事シーンを避けていたそうな(想像はしてまうんだがな)。だからふつうカラダと言ったら皮膚に覆われたフツーの体のことを指すものだ。それはそもそもとして恥を秘してしまっている。かようにして、カラダが生身感を出す部分には被服し、分泌は手で隠してする。そう、嫌悪感をもたらすものが、人体にはどうしても有る。その度合いは人体内部を見たことないほど顕著で、無知なほど、内部の赤身を毒々しい死体的なイメージに連想させてしまう。人間、カラダが不健全だと自分自身がキモいものだが、そういう自分は見ないようにしてしまうものだ。その水準の快楽は低級で賤しいことになる。ドロドロやね。逆に異性にヘンな幻想持ってるほど身体美に凝る。ドロいものを見たくないのであり、露骨な性や〇液はお断りとなる。この世の苦しみ痛みというのは身体内面的なものとしてイメージされてしまう。そしてそうであるほど逆の方向も力が入り、視聴覚や表象や思想が高尚の上空に舞い上がる。キモい部分に世の悪を担当してもらうことになる。つまり嫌悪の意味が逆転しているのである〔はあ?意味不明じゃボケ!!〕。しかし貴賎価値感の話はこれだけではない。高尚高邁なのは、畏怖心を掻き立てる圧倒的現象などももそうである。こういうものが卑しめられることは絶えてない。しかし上があって、崇高の天井に達するときには、畏怖させながらしかも恐怖は与えないという次元に達する。)

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上でニーチェが脳について一言している文章を見ているが、内臓について述べている文もけっこう散見されるものである。そういう文章家もそんなに居ないだろうし、まして内臓に対する印象や内臓から伝達される情報が感情生活や認知にもろに直結していることをここまで明示的に述べている論者というのも、ヘタしたら20~21世紀でも僅少であろう。内臓情論者・内臓知論者としてのニーチェ、そんな捉え方もありうるかもしれない。

文章の終盤にある畏怖対象というのはまず大災害や巨大自然現象や広大自然景観などであろう。それはもちろんいとたっときものであるのだが、しかし「Furcht」は「Furcht」である。触れたくはないし接することはできず親しみは持てず手をこまねてい茫然と見ているしかないものである。一方そ

次回の記事に続く