undの用法が多様と言う話。それが当たり前という話。何故かと言うと、「と」という接続詞がそもそも色んなことをやってる事を思い出せよということ。
例えば
と言うのがあって、「* 快速や動体視力」「* 快速とか動体視力」「快速、動体視力」とどう違うだろうか。3個目はまだしも1個目2個目は非文でもあるが、何故だろうか。
「や」等では類が同じものしかつなげれない:「快速や準急や通勤快急や不快京阪」、「動体視力や静止視力や核抑止力」。だから「月やスッポンポン」が成り立たない:やで繋げれるのは星同士・亀頭同志。
一方「と」のほうは、「ノグリラーメンとU.F.O.」といった「や」等と大差ない列挙(
なども「みどりや森の運動公園」とほぼ同義)もすれば、「ノグリラーメンと辛ラーメン」「U.F.O.とペヤング」といった新たな接続を作り出すことも出来る。「美味しい食品」という類に属するノグリラーメンやU.F.O.を、「ゴミ」という類に属する辛ラーメンやペヤングと繋ぐことが出来る。その上で新たなものを作り出す。「ノグリラーメンと辛ラーメン」で「麺」という類を新たに作り出すことができる。「ノグリラーメンと辛ラーメンの区別もできない」という命題を作り出すことができるが、やで繋いでいると作り出せない。
普段ぼっっっけーと使っている「と」だが、積極的な新接続・新意味・新観点を創出する接続詞なのであり、ぼっけーと使ってても往々にして新創出をしてしまってる。それは自分による・自分がやっている新創出なのだから、「と」で繋ぐのは、言うなれば、責任がある。例えば「日本と韓国」と言うと、日本という国が有り韓国という国が有りと漫然と言っているのでは全く無く、 ←くだらんわボケ。
「と」で繋ぐのは、積極的な何かプラスアルファ行為であらざるを得ない。表現の世界では当然自明のことであり、「と」が常に積極的なプラス何かの表現手段である。「快速と動体視力」なら、「快速の電車が有ってそこに乗ってるあのコが居てそれを見ている自分の動体視力が有って見ている自分の想いが有って」という物語を作り出している。こういう創出、「と」以外には、出来ない。もしくは「と」の出来損ない模倣の「快速、動体視力」といったものでしか出来ない。後者は「セッ鹸、嘘、ビデオテープ」とかの欧米言語の気取った言い方のキモい物真似である。
他にも、
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といった表現がどれも「と」によって独特なことを言っている。どんなことを言っているのかと言うと、一義的には決まらない。例えば
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と言うと、植物と採掘という類が異なっている2つのものを繋いで、「(グループの活動を喩えている所の)ゴールドラッシュというのが有って、その風景の中にサボテンが有るが」という場面を創出している。ゴールドラッシュが主、サボテンが従でありながらここに欠かせない静物として独特な味わいを添える。
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という表現などもこれに近い。忘却と美学と言った場合「忘却の美学」などと言うより余程含みがある。
「Ottilie und ich」(Wolfdietrich Schnurre, Es ist wie mit dem Glueck (3833306793 / 9783833306792) に収録)といった表現もこういうことである。「Ottilie wie auch ich」「Ottilie, Gabi und Klaus」のような単純列挙ではない。(Ottilieという)或る独特な人物「と」自分を繋いで、こういう結合から一定の人間関係を創出して、Ottilie単独・自分単独には無かった新たな物語を作り出している。2人がただ居ると列挙しているのではない。undで2人が結び付いてしまい、結び付いて出来る磁場に2人が組み込まれてしまう。そして何かしらの、読まんと分からん(上の例たちなら聴かんと分からん)味わい・含み・匂い・韻々たるものが込もる。undにはこういう力が有る。(このことに関して、undで繋いだ名詞《2つ》を無冠詞にするという用法を思い出すかもしれないが、それは全然ちがう。この無冠詞用法は、リンク先に解説しているように、複数の名詞を列挙する時のものであって、und結合《両》項目を《際立たせる》とか何とかいうような用法ではない。)「Feuer und Wasser」と言うだけですでに火だけ水だけには無かったモノを言ってしまっている。この中に命題「Feuer und Wasser kommt nicht zusammen」がもう含まれているとも言えるだろう。
見ているように、ただただundで両項がつながれているだけである。元々有ったOttilie・ich・Feuer・Wasserに何も足していない。ただ繋ぐだけで何か新しいものが生じる。と・undとは、つなぐだけで総合判断をしてしまう、まさしく繋辞なのである。と言うか、総合判断とは原型がこのようなものなのであろう。(ただするだけで何かプラスアルファしてしまうもの、これは、描写がそうである。描く・記すというのは、事象に何も付け足さない純粋観照では全く無い。ましてや、描いた・記したものを公表(=社会性化)してしまうと、ただ描いた・記した・書いた・報告しただけだった筈のそのそれが、確実に何か効-結果をもたらしてしまう。カリカチュアなどをその最たるものである。ただ描写しているだけなのに極めて積極的・能動的な価値判断をしてしまうのがカリカチュアである。)
これほど潜在的効果を有している接続詞であってみれば、文を接続する時にどれほどの事をやっているのか、押して知るべしである。と言うか、これは、「そして」に、サテ言ワセテモラウガ・ココデ真ニ言イタイ事デアルガ・斯クノ如クデアルカラダカラコソ等々様々な含みを負わせている事からも判ることである。「そして」はただ文と文を繋いでいるのではない。積極的に何かをやっている。それをよく分かっている。だからundも分かろうか。undを二度とぼっっっけーと見るなよ。
[…] Man wird mir schon diese meine Sätze nicht glauben, und wie viele der Art habe ich noch auf der Seele!
(Nietzsche, Die fröhliche Wissenschaft, II/82)
ぼっっっけーと「そしていかほどの」とかにすんなよ。undが「逆接」になっている。言うなれば:
- obwohl ich viele der Art noch auf der Seele habe
と言っている。
次、ここでも紹介してるヴィーラント(Christoph Martin Wieland, 1733–1813)の『アブデラ人物語』第2部第5書第2章(Wieland, Geschichte der Abderiten (Zweiter Teil, Fünftes Buch, Zweites Kapitel))
Dies war's auch wirklich, was der Präsident hatte sagen wollen; aber bei dem Wörtchen und überfiel ihn eine Art von Beklemmung, als ob er wider Willen fühlte, daß er im Begriff sei, eine Sottise zu sagen; […]
ぼっっっけーと「その一言でそして」とかにすんなよ。これ言い換えると
- das war auch ein Wörtchen, bei dem ihn eine Art von Beklemmung überfiel
である。
というかundがクソぼっっっけー単っ純ーに「そして」をやっていることのほうが無い。前文に対して後文がプラスアルファ何か意味を帯びて繋がる、前文に対して後文が脱出不可能磁力で論理的・文脈的・連関的に繋がる、ということを分かっていなければならない。undをこういう風にして都度都度見ていなければならない。誰もが見てるはずの例をもっかい見よか。『親和力』ひらけ。(なお、アホが勘違いするのを防がなければならないのだが、【「誰もが見てるはず」だ・お前は次のテキストを見ているはずだ・お前は見ながら理解していないのだ】ということを示したくてこのテキストを選んでいるのであって、別にゲーテだから特に選んでいるわけではまったくない。ゲーテだからと言って特に引用例示するにふさわしいお手本のドイツ語というのではまったくない。勘違いするなよバカ。)