地上最強のブログ

しばいてくぞ

想起し、忘却する。ショーペンハウアー

 

前回の記事から

はなく、ただ対象が来ては去りしていくだけの虚しい物なのである。で、この意志というものの説明が続くのを聞こう:

誰かのせいにはしない

誰かのせいにはしない

  • SKE48
  • 発売日: 2019/10/02
  • メディア: MP3 ダウンロード

Nun aber ist der Wille allein das Beharrende und Unveränderliche im Bewußtseyn. Er ist es, welcher alle Gedanken und Vorstellungen als Mittel zu seinen Zwecken, zusammenhält, sie mit der Farbe seines Charakters, seiner Stimmung und seines Interesses tingirt, die Aufmerksamkeit beherrscht und den Faden der Motive, deren Einfluß auch Gedächtniß und Ideenassociation zuletzt in Tätigkeit setzt, in der Hand hält: von ihm ist im Grunde die Rede, so oft „Ich“ in einem Urtheil vorkommt. Er also ist der wahre, letzte Einheitspunkt des Bewußtseyns und das Band aller Funktionen und Akte desselben: er gehört aber nicht selbst zum Intellekt, sondern ist nur dessen Wurzel, Ursprung und Beherrscher.

(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung Bd.2 (1844), S. 138–139)

 

(もちろん実際はそんなことはなくて、意識状態は常住不変に常に何事かに向かっているのであり、何事かをシタイという統一に貫かれている。常に欲求が有るから思い考え何かに向かうのである。無色透明無味無臭の思考など無い。必ず特定の欲に染まっていてどこかしらに偏っていて何らかの派に属している。意識は常にシタイ方向へ準備待機している。シタイという一点から色んな行動に向かうのであり、それに記憶なり想起なりが伴なって生じることになる。自我論も要するに意志論である。方向が有る・シタイという状態が有るということでのみ意識は1つの形になれているのであり、ヒト認知とヒト行動の一切合切がこういった欲や欲求をめぐっている。そういうものはだから心の中に有るものではなく、心の中でどうにかなるものではない。逆に心が欲動に支配されているのであって、心や意識というのは、芽生えるよりずっと前に、何かをシタがっていて何かにナリタがっていて何かが欲しかったのである。)

意志として出してきたものを意識や内面から独立させている。それは心の一機能・一様態・一項目であるのではなくて、逆にここから心が出発しているのであり支配されているのである。ヒト認知の欠陥について叙述しているのを聞いていたのだが、本領の意志論ばかりどんどん拡がってきた。

しかしここで改行して次の文章で認知批判に戻る:

Aus der Form der Zeit und der einfachen Dimension der Vorstellungsreihe, vermöge welcher der Intellekt, um Eines aufzufassen, alles Andere fallen lassen muß, folgt, wie seine Zerstreuung, auch seine Vergeßlichkeit. Das Meiste von Dem, was er fallen gelassen, nimmt er nie wieder auf; zumal da die Wiederaufnahme an den Satz vom Grunde gebunden ist, also eines Anlasses bedarf, den die Gedankenassociation und Motivation erst zu liefern hat, welcher Anlaß jedoch um so entfernter und geringer seyn darf, je mehr unsre Empfindlichkeit dafür durch das Interesse des Gegenstandes erhöht ist.

(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung Bd.2 (1844), S. 139)

 

(さて、ヒトの認知はのっぺり時間軸上を単線的に進行するだけのもので、対象というものには1つ1つ1つ1つ排他的に一所懸命に取り組むことしかできないボンクラだったのだが、そんなんだからすぐ気が散ってしまうのであるのに加えて、そんなんだから物を忘れるということをしてしまうのである。一度排してしまった他は、ほとんどが、排したまんまになってしまい、もう思い出すことができない。しかもそういう想起というのは、何も無くても出来るものではおさおさなくて、想起につながるように心象がつながっていくとか、想起してしまうようにさせるモノがあるとかいう機縁に因るものである。めんどいやつでなかなか起動しないのだ。しかも目下取り組み中のものに夢中になっていると、他のもの他の可能性排除してしまったものを想起することなどますます望めなくなる。)

人間が夢中一徹のバカになりよる様を描いて痛烈である。新しい話題・忘却が出る。それもまた、本第15章冒頭で定立した事にあるように、ヒト認知が一箇所から微動だにできず視野視力ほぼゼロのライン工だからだ。1つ1つよいしょよいしょとしか取り組めない上に、刻一刻と邪魔が押し寄せてきて、絶えず手元の作業を忘れ、頭がラリっている職務怠慢者だ。しかも流れた商品はほぼどれも二度と取り戻せない。しかもしかも取り戻す気にさせてやらないと取り戻そうとしない。そ

次回の記事に続く