地上最強のブログ

しばいてくぞ

私の読書歴②~『ノルウェイの森本』『父親たちの正常位』『硫黄島からの物体X』『裸で銃を持つ男』『バットマン対キングギドラ』『バットマン以外全部沈没』『最終平気、彼女?』『Y氏の食人』『未遂少年コナン、ザ・グレート(名探偵)』『七色〇んこ』~

ゼロベース

ゼロベース

  • SKE48
  • 発売日: 2017/02/22
  • メディア: MP3 ダウンロード

SKE最高神曲(の1つ)

 

前回の記事から

人間は信じ難い多種多様な芸術を花咲かせ、信じ難い多種多様な移動をし、信じ難い多種多様なパーソナリティに分化し、信じ難い複雑精妙な理論を著述し、信じ難い複雑怪奇な文法を習得し、この世で壊せないものがなく作れないものがないらしい。…… 他の生物種も、まったく同等の権利でもって、そう主張できるかも知れないではないか。それをヒト種が認識できないだけではないかもしれないではないか──蓋し、人間には自分たちの良さしか良さたる良さとして認識できないのだから。犬にはヒト様のような高等な自省能力や時間的自己省察力が無いという。まったく同様に、人カスにはイヌのような高等な何らかの心的能力が呆れるほど欠落しているのかもしれない(心的能力以外の能力なら確かに無数の能力が欠落しており、それは固より有名なことだ)。ただ、それを、形として捉えて認識することが出来ないだけなのではないのか。いやもっと悪いことに、科学ならばそれが出来ておかしくない(科学以外には出来ない)はずなのに、そっちに食指を伸ばそうとしない、そっちに研究方面を広げようとしない、関心を持とうとしないでいる、そんなゴーマンな姿勢でいるのではないのか。それなら、どんだけ研究が続こうが、イヌ含め動物たちは無いものだらけのないない尽くしになるだけだ。高緯度の国に熱帯雨林が無いと確認してウレシがっているような愚だ。愚すぎて言葉もない。

げに、ロレンチーニ瓶や側線によって外界を捉えているサメからしたら、人間の「感性」など笑えるほどショボいのかもしれない。ウン億の絵画やクリエイティブな楽曲や人倫の階梯や集団のネットワークなどのごときよりも 比較を絶して多種多様で複雑霊妙で深遠な歴史があるのかもしれない、この軟骨魚には。ただそれは、ヒトには見えないか、見る方法があっても(目立っては)模索しようとしない。

(この話は、問題に対するセンスなり、考えたことのある経験なりが無いと、どうしても、何を言おうとしているのかが非常に分かりにくい話である。別の言い方をしてみよう。人間は なんかあるとすぐ他の生き物にも自分たちのような意識や知能や感情や言語があるのかどうかなどと考えてしまい、その疑問をやがては微生物にまでも及ぼす始末である(し、ほぼあらゆる科学が この疑問を疑問に思っていない)が、しかし、それが有るか無いかを問うに値するモノがなぜ特に意識や知能や言語や感情なのだ・なぜこいつらでなければいかんのだよということ、このことを考えてみたことなければならないのである。

人間だけが持っているものなら他にもあるだろう。なぜそっちに関して問わないのか?発達した母指対向性や白眼のほうが理論的知能よりもヒト繁栄の成立に本質的だったりしてな。言語にしても、意識と同様、無意識過程という真の支配者の表面に張り付いて自分を主人公と錯覚しているだけの道化なのかも知れない。感情の自称豊かさのヒトリヨガリぶりについては言うまでもないし、これに関してはさすがにワカッテいる人が相当数いるだろう。ちなみにヒトの知能も大したものではない。自分は自販機でジュースを買えないしプルタブを開けれないし電車に乗れないし水爆や会議資料を作成できないが、猿はこれらすべてが出来る。自分は他人の感情がろくに読めないが、馬は容易く読む。自分は上下関係の空気をまったく読めないが、象は簡単に読んでしまう。

また、その種にしか無いモノならどんな種にもあるだろう。意識や知能や感情や言語が、(少なくともヒトが示している度合いで言えば)何が何でもヒトにしか無いものであると言うのなら、そうならば、ナガスクジラやオルニトレステスやオオゲジ(Thereuopoda clunifera)や高度好塩性古細菌のHaladaptatus paucihalophilusやメタノナトロナルカエウム・テルモピルムにしか(どのような度合いであれ)何が何でも無いモノだってあるだろう。それが、意識や知能や感情や言語にタメ張るモノでは到底ないという確実な証明もないだろう。そういったモノを見つけるのを単に人類がサボっているだけなのではないのか。

仮にネコが、なぜ人はソファで爪を研がないのかと問うたとしたら、これはマンガだし、なぜアメーバはソファで爪を研がないのかと問うたとしたら、これはナンセンスだろう。だったら、(人類の)意識や(人類の)知能や(人類の)感情や(人類の)言語の在不在をネコやミミズやムカデに問うことも同じぐらいマンガでナンセンスなのであって当然いいはずだ(しかもそれらは人類限定のそれらであって、ネコ版やミミズ版やムカデ版の意識知能感情言語が有るかもしれないが、ただ、そういうものに関しては科学は見つけようと頑張ってはおり、サボってはいない。)そんなものは有無を問うても何の意味も無いものなのかも知れない。それが有るか無いかが爪なみにものすごくどうでもいいこと、であるのかも知れない。単細胞生物に知能があるかどうかと考えるのが単細胞生物に爪を切る習慣があるかないかと考えるのと同様に無意味ではないという保証もない。少なくとも単細胞生物は夜に爪を切ると親の死に目に会えない等と思い込めるほどバカではない。

ソファ爪研ぎは冗談にしても、そのようにヒトの目にも見えるしヒトにもマネ出来るものとはまた違うもの、ネコやミミズやムカデやメタノナトロナルカエウム・テルモピルムにしか見えず・このコらしかやらない事が有るはずだ。だがそれは、あくまで、まず発見する気になられていず、なられても、検出が困難なものだろう。人類は自分のオツムの中しか見えないのだから。ということなら、それを自覚して、意識知能感情言語が他の生物に無いよな~というオノロケをとっとと止めたらどうなんだということである。人間は握力がねえよな~ばかだよな~と類人猿から嗤われ見下げられたらどういう思いだ。人間はこんなものも食えないのか、弱虫のヘタレの腰抜けだなと野生のイヌネコに見下されたらどんな気持ちだ。(ちなみにほとんどの者が野生の意味をわかっていないか、都合よく利用している。ライオンが筋トレしないから自分もしないというのなら、じゃあお前はライオンのように地べたで寝るのか。シマウマの内臓を生で食うのか。お前の「ライオン」はお前の中のマンガだ。そういうおまえを戯画という。)

しかしこういった事柄は、或る一点に於いて、すべて無意味になるというか非難しようがなくなる。というのは、自分たちの特性が他の生物に無いないなと誤認したり問題視したりするのがヒトという生物種(或いはヒトという「属」)だけだということである。)

人間は案外実は無いものだらけなのかも知れない。各生物ごとに 他の生物には無いものを精査したとしたら、他が持っていないもの競争の大会を開催をしたとしたら、もしかすると人間はどえらい下位になるのかも知れない。わからない。誰も調査したこともないからだ。していないといけないのに、人間の独自性を自慢したいなら真っ先にしていないといけない調査なのに。しかし下位になる公算は高い。身体だけ考えても無いものだらけで、大脳の発達ぐらいしか無いからだ。(ただ、訓練で習得する運動技能だけは他の生物たちを圧して凄いように見える。これだけは人間は宇宙に胸張って自慢できることだと見える、知能や音楽や言語がではなくてヒト以外にこんな卓越を示す生物はいない)しかも脳にしたって、それが取り立てて複雑だというのは、取り立てて複雑だということ以外の大したことは何も意味していないかに見える。そこにたっぷり詰め込まれたヒューリスティックは、同種異種問わず生命の大量虐殺と大量差別と大量解雇と大量偏愛と …… 等々にはとても役に立っている。立派だな。うむ、相変わらず、自慢のタネにはならないぞ。そんなものなくても生物はクレバーでスマートにやっていくし、そんなものを抱えたサルよりもずっと大繁栄する。例えば

のどこかにそんな話が書いてある。

ここで、この世の誰も知らないことを言っておく。(この本に書いてあることだとは言わないが、)かつてこの記事この記事で書いていることなのだが、人間が地上でどういう位置を占めているのかとか生物としてどのようであるのかと言う時、他の生物たちと比べたり生物全体の中に置いたりする時に、これまでの歴史上、どの文化のどんな言説に於いても、ただの1人も気

次回の記事に続く