地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェ対人間 (1)

 

前回の記事から

のであるという議論と思わせるもので、この記事でみたトンデモ科学的着想と見てもいいし、この記事で見たような夢のある話・希望に満ちた現実認識と見てもいい。

神経各部が記憶するのである。そんなもの、大脳に座しているらしいモノからはどうにもならないところであり、ますます意識の権能が狭まり、自分が自分に対してできることが無くなってくる。

していると思い込んでいるだけであって出来ていることなどほとんど無い自我や意識から権能を剥だつする上で、この生物が意識の自前でこしらえたものと思っている御自慢の高等思考からも権威を取り去ってしまう。以下、1880年成立断片群に認知関係の発言を拾いに行ってみよう。

Je nachdem das Gefühl der Schwäche (Furcht) oder das der Macht überwiegen, entstehen pessimistische oder optimistische Systeme.

(Nietzsche, 1880,4[194])

 

(自分に弱さを感じてビビりがちでいたら、いわゆるペシミズムで見るようになって行く。自分に強さを感じて勝ってる感じがしていたら、いわゆるオプティミズムで見るようになって行く。それだけのことだ。この順の逆ではない。)

つまり、この世界の相貌が良い悪いから見てどのようであるのかを理論的に自分の理論として自力自律で考えているつもりでも、実はそんな高等なことをしているのではなくて、自分の体組成なり社会的立場なりに劣等感を持っているか優越感を持っているか、てめえにチカラが有るかないかという事情によって考えているのであり考えのほうを左右されているのである。自分はこう思いますとお前は言う。いや、思わされてんだよバーカ。

そんな物的境遇や外的事情などで思考や理論のほうが左右されてしまう…どころか決定されてしまうのである。てめえのオツムなどない、てめえのカラダとしょっぼい事情に支配され蹂躙されているのである。何という制限のかかった志操不堅固な(beschränkt)奴らなんだろう。

しかしこの種はこんなものなのである。文句言うてもしゃあないところがある。そのことを誰よりもよくよく認め知り尽くしていた人である。晩年(1888年春~夏)に

Die Necessität der falschen Werthe.

Man kann ein Urtheil widerlegen, indem man seine Bedingtheit nachweist: damit ist die Nothwendigkeit, es zu haben, nicht abgeschafft. Die falschen Werthe sind nicht durch Gründe auszurotten: so wenig wie eine krumme Optik im Auge eines Kranken. Man muß ihre Nothwendigkeit, dazusein, begreifen: sie sind eine Folge von Ursachen, die mit Gründen nichts zu thun haben

(Nietzsche, 1888,16[83])

 

(間違った判断が有るのではなくて判断とはそもそも間違うものなのであって、それが間違っていることをどれだけ指摘できてもそう間違うという事実現実のほうはどうすることも断じてできない。それはそうでないという説明、すなわち論理というものが通用することなど、実はない。視覚上なにがどのように見えていてそれが物理的にどのように間違っていても、その見えを変更することは出来ないし、その間違いを言い立てても何にもならない。最終的には、以上を納得するしかない。人間は論理や正しさの動物ではないのであり)

と述べている人である。すなわち認知は構造上のものとして間違っているのであり歪んでいるのでありヒズんでいるのでありどうしようもないのであり、システム2で判っていること(理や論や正や当)とシステム1の処理行動ふるまいは永遠に別物なのである。そう分かっている人だから、さすがに、

Ein Überdruß am Menschlichen, als ob es immer die alte Komödie sei, ist möglich, für ein erkennendes Wesen ist es eine furchtbare Beschränkung, immer als Mensch erkennen zu müssen, es kann einen intellektuellen Ekel vor dem Menschen geben.

(Nietzsche, 1880,4[150])

 

(ひたすらおんなじことをバカみたいに繰り返す人間生物にええ加減ウンザリしてくることもあるもので、こいつらに見える以上のことを多少とも見たい者からしたら自分がヒト風情にすぎないことも残念極まりないことなのである。まあ知っとけよ、多少ともコマシな頭だと、自分もそうであるところのヒトっちゅうもんをそのアホさに呆れる余りそろそろぶっ〇〇したくもなるものなのである。)

とも述べてしまうこともある。このように、どこまで行っても何を見ても知ってもヒトの認知とそれが見せる限られたモノにしか巡り会えないという人生の構造にさすがに嫌気がさすこともある人ではあるのだが、それでもそうは言っても、この種と付き合いこの種を追究することを止めれるものではなかった。《人間トハ所詮…》的なことをホザいてるカスなのならそれで終わるのだが、到底そんな人ではないこの人は、どこに居ても何を考えても、四六時中この生き物について理論的に把握できてしまうのだった。こんな風に人間の構造や限界をよく分かっている人なのだからこの生物の上や後や他など平気で想定してしまえれるところではあるのだが、しかしそんな安易には走らずに終生この生物を冷静に分析していた。

次回の記事に続く

 

歌おうよ、僕たちの校歌(セレクション8)

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