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しばいてくぞ

我々は「人間」なのか (1)

 

この記事で、心理の科学研究が人間がエゴイストのInbegriffにしてAusgeburtだと判決していると述べたが、そうも言えるし、また、人間がどれほど動物であるかを立証し続けているとも言える。反対に、現代のエソロジーが今度は動物のほうがどれだけ人間かということを実証し出していると言えるのかも知れない。例えば:

数をかぞえるクマ サーフィンするヤギ―動物の知性と感情をめぐる驚くべき物語

数をかぞえるクマ サーフィンするヤギ―動物の知性と感情をめぐる驚くべき物語

  • 作者: べリンダ・レシオ,中尾ゆかり
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2017/12/23

といった本を参照して見よう。

人間が動物だと言うと、そう言った時の安易で平板なイメージに飛び付かずに、動物として見た人間という動物独自の特徴にもっぱら着目した上で考察をしなければならない(よって、空想架空の「野生」だとか意味不明の「自然」だとかイデオロギーまみれの「〇〇食」だとかの与太話をしないようにしなければいけない)。とはいえ、安易で平板なイメージに則って事態を見ても、どうも人間が実はもうぜんぜん「動物」であるにすぎず、動物が、思われてきたのと違って相当に《人間》だったと見直さざるを得ないようになって来ている。

「人間」のイメージと言うと自己意識や言語や感情や記憶や数学や表象代理や芸術など、つまり知能や創造力だろう。自称人間にしか出来ないもの。

そんなんもうアカン。動物に於いて確かめられてもうとる。上記の本から:

  • ヒヨコが引き算まで出来る。(162~165頁)
  • ホシガラスがエサ隠した場所5000個所を9ヵ月間記憶する。(194~197頁)
  • ヒトの記憶力記録保持者よりチンパンジーのほうが3倍ほど上、ってかチンパンジーは「写真記憶」をする。(224~225頁)
  • スカラベ(フンコロガシ)も、星の位置をいわば頭の中で撮影して記憶して自分の今居る位置を定位してしまう。(189~194頁)
  • 類人猿が文法(語順)までモノにできる。(153~154頁)
  • プレーリードッグの鳴き声には品詞の区別すら有ってしかもそれをアナホリフクロウが理解して「盗聴」する。(135~142頁)
  • オウムなど、高度な皮肉まで発する。(32頁)
  • 「動物の感情」などもう存在証拠しかないぐらいだが、ヒヒの集団が池のほとりで瞑想のようなものをする。(112頁)
  • 類人猿に空想能力が有る…。(84~87頁)人間の専売特許終わった
  • カラスには互酬性が有る!!!!(53~54頁)
  • アリやマンタすら、鏡に映った自分を自分と認識する。(120頁)
  • オマキザルが貨幣で食糧を購入し、偽造貨幣を使い、買春すら試みる。(60~61頁)
  • 「ザトウクジラの歌五〇〇曲」に韻というものが有る。(210頁)
  • ニワシドリが建築とも言えるようなことをする。中には、青色の建材にこだわる種も居て、調達に奔走する。(205~208頁)

これで、この本に載ってる《信じ難いノンフィクション》の20分の1ですらないし、もっとスゴい話も載ってる。

さてそこでだが、何が信じ難いのだろうか。何に驚いているのだろうか。要するには、ソレが《動物にもデキルんだ!》という驚きだろう。しかしこれがもうおかしい。なぜ、人間がしている事、しかも、ソレをしようと種全体で意志して誓願でも立てた訳でもなくて勝手にできてしまっていただけの事、これを何かの「高」い「能」「力」だと前提して、いやそもそも能力なぞに高低の価値を仮定して、それでソレに動物が「どの程度」〇〇なのかを測ろうとするのだろうか、そうして動物を査定するのだろうか。ここには、数々の粗雑な決めつけと断定と思考停止な前提がぎゅうぎゅう詰まっている。

そう、あまりにもおかしいのだ。絶対の次元まで高まろう自己意識でも、数万語彙と数十文法範疇による言語でも、繊細きわまりない無数の感情ニュアンスでも、際限なく訓練できる記憶力でも数十世代までさかのぼる追憶力でも、超高等な数学でも、自由自在で複雑怪奇な表象代理でも、視聴覚の数々のパターンを刺激する「本物の」芸術でも、何なら背広着た原始人には不相応な現代ウルトラ大都市社会でも、ようするには、人類が宇宙と地上に対して示している(と言うか示させられている)いち反応に過ぎない。世界に放り出されて、この種なら、たまたまこれらのことをしました、以上終わり。というだけのものだ。他の種にはそれらが無いか微小であり、ゆえに、すんごく有ると知ると、驚いてしまう。自分がたまたま持っていただけのものたちを相手が持っていないと言い立てるワケであり、持っていたら「驚」くワケだ。

そして、それらを高等能力の基準にしたいのは、自分がそれらを(たまたま)持っているからであろう。

「持っているからには、大したもんなんだろう。他の生き物は持ってないしな。我々だけが持ってるからには、我々だけに「与えられた」もんなんだろう。ということは、与えられてまた然るべきものでもある〔←誤謬推論〕んだろう。与えられて持ってするだけの価値がまた有るもんなんだろう〔←超飛躍〕。ということは、我々自身がまた〔←??!〕価値あるもんなんだろう。我々!万物ホウ! 霊長イエ!! 人間セイ! 様々チェケラ!!「ひとさま」〔←宇宙一キモい語彙〕!プチョヘンザ! ヒト!! カマ! 特☆別!」

アレ … どこかで見た覚えないだろうか。たまたま持ってしまっただけのものがあたかもコトの始めから・コトの本性として・ソレの本質として持たれるべきナニカだと・何か絶対的なモノだと後知恵バイアス錯覚を起こす事、これ、

また あなたのことを考えてた

また あなたのことを考えてた

  • AKB48
  • 発売日: 2016/11/16
  • メディア: MP3 ダウンロード

単純所有効果mere ownership effect

やないか!!!!!!!!この記事で詳述したから、はい急いで読む!!

そう、ヒトが特別だと思っているヒト固有の諸々は、しょうもない錯覚でそう感じてしまっているだけのものなのである。もっかい言うと知能とか創造力。しかしそれは…

まず、ヒトのそこまで立派な能力でもない。考えたら、アタマデッカチで密室的でアームチェア的で不健康なものである。人体の売りはそんなものではない。上のほうに貼ってるリンク先記事で説いているように、もっとカラダ使ったことがこの種の真価である。おそらく、それこそ高い低いで言うと、最上等クラスの運動制御能力。これが大脳の使命。

また、それも含めて、基準がおかしい。今顕揚したい運動制御能力にしても、別の基準からしたらしょぼいのかも知れない。別の基準からしたらタコにはまずボロ負けだろう。だから、今顕揚したくもない似非「能力」たる知能とかもである。例えば《識別》が知能の目印だろう。ねえ~そうよね~、犬なんて、こんな簡単なことも区別できず、覚えられないの。しかし嗅覚を基準にしたら、人ボケなんて、こんな簡単な匂いAと匂いBの区別も分類もできず、しかも覚えることもできない。アホやろ。となろう。水掛け論、「知能」が有るとかそれが立派だとかゆうても、基準が定まってないかまたはそんなん無いのなら、話は中身真空である。なんぼお前の「知能」・お前なりの「知能」が有っても、自慢ならん。ひたすら自分の財布をさぐっとるだけや。お前は他国の通貨も万札も見たことない。創造力などもっとこの事が言えるだろう。何なら「感情」とか「社会性」とかも。それらは、人間において顕著な値を示すそれをそれそのものと勝手に定義しているにすぎない。人間において顕著な値を示すそれが人間において顕著な値を示し他動物ではさにあらずとトートロジーしているに過ぎない。

そしてだ!!!こういうのを人間がそもそも問題にしよるというのが有る。犬は、現時点で観察されている限りでは、そういうことを問題にしない。タコもしない。イルカもしない。鳥もしない。

ジェシカはドアをノックしない

ジェシカはドアをノックしない

ノースリーブス

  • 発売日: 2014/04/01
  • メディア: MP3 ダウンロード

多分、本当にしてない。そういうことを問題にする/しないとは全く別の次元世界・まったく別の土俵上の生存戦略・全く別の生体プロセスで生きているはずだ。そういうこと、つまりどっちの能力がドウかというハナシそのものが、人間限定の関心事なのであり、人間の思考…というか言語上にのみ存在している「問題」なのである。そんなん問題ちゃう。

それでも、かくまで複雑な社会と記号体系を築いているのであるから悪魔で知能こそが!とネバりそうな奴に付き合うと、その知能自体が現在正体が割れ出している。

アフォーダンスのことだ。類書中ではこの記事でアフィ貼ったこれ:

野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへ

野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへ

  • 作者: ルイーズ・バレット,小松淳子
  • 出版社/メーカー: インターシフト
  • 発売日: 2013/07/01

が最も面白く、これしか面白くない。

まず、知能とはモノを使うことだ。モノに働きかけることでもいい。【自分対モノ】構図が分かってりゃ言葉は何でもええ。モノとはもちろん記号も含めてだ。で、思考とは記号の使用や操作や改変等以外の何でもないから、高度な思考力も、対モノ的なふるまいの一種である。そしてこの使うというのが、意志主体の一方的能動的行為、知能の一方的創造的自己ウンタラであるのではない。そうじゃなくて、モノのほうからホレ使えよと自分を差し出してくるの応じた事柄である。モノのほうが、生体(含めてモノ使用可能な運動者)に、使用等々をアフォードして来る。生体がそれに応じる。モノの性状いかんによっては使用もどこまでも複雑になる。

これが【自分対モノ】の現場であ

次回の記事に続く