思い返せば、だいたいが、読みやすい本アタマに入りやすい叙述というのは、前言ったことを繰り返して理解不安を解消してくれる構成をしたものであり、つまり構成が交錯したものである。A・B・C・D・E・F・N・M・B・H・K・Tとしか書けないと愚直どころか不親切にすらなる。A・B・A・B・C・A・B・D・B・E・A・F・N・G・Tといった構成にするしかない。
ここで韻文の分節構造を思い出す(思い出すだけ)。例えば松尾巴焦という歌人が:
金に悩んで夢は新地をかけ廻る Uenerem poscere non possvm
と提唱したが、これを、韻文規則上の区切り(太字+斜体字)と、文としての区切り(この色とこの色)とから見ると:
金に悩んで夢は新地をかけ廻る Uenerem poscere non possvm
と分節する。韻文+ただの文という2構造が交差し(合っ)ている構造が見えると言えるだろうと見えると言えよう。
日本語詩のような単純で原始的な韻文(と比べても新体詩以降のお花畑「詩」もどきの有象無象谷川朔太郎はハナシにもならんが)はどうでもいいとして、高度に発達し展開してきた西洋言語韻文を見てみよう。例えば、叙事詩韻文、最古であり故に最も伝統的な韻文であるヘクサメタの1詩行を見てみよう。あのヘルダーリンの高名な「飲食物〔Brot und Wein〕」の冒頭行が:
Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse,(引用元)
となっているが、韻律を見ると、
Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse,
という分節である。韻律は、ヘルダーリン読者と西洋詩読者の1200%が知りもしないことだから、説明を省く。とにかくこうなっとんねん。さて、普通の文として読めば、その分節は、
Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse,
となる。
この2観点だけを見ると、
Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse,
という交差構造が見える。分節と言えば、分かち書きという表記によって、(「単語」というアホ丸出し名称で呼ぶ)「語」という分節が、元から判るようになってある。この観点を加味すると3交差が見える。さらに言うと、音節という分節に基づいて分けると、リエゾンがあるから、「Rings um」という交差もしている。これで4交差。
リエゾンが成す交差が多いのが元祖ヘクサメタである:
Ἀτρεΐδης· ὁ γὰρ ἦλθε θοὰς ἐπὶ νῆας Ἀχαιῶν (Il.,1.12)(引用元)
という風に「語」分節と音節分節が交差している。さらに韻律の分節を下線+無下線で表記して、しかも構文の区切りも表記しておこう(タテ線で)。そうすると、
Ἀτρεΐδης· | ὁ γὰρ ἦλθε θοὰς | ἐπὶ νῆας Ἀχαιῶν
という4交差が見える。
こういった話を聞くと、ダンテ『神曲』の交差脚韻(これ)などを思い浮かべるだろうが、脚韻などという韻律のクズと、本来の韻律である古典ギリシャ語詩由来韻律とでは、次元がまったく違う。そう、この交差という特徴は古代ギリシャ美術の特徴、コントラポストに通じるものが有る。contrappostoというのは今張ったリンク先とあとここも参照。なお絵画における交差の美に関してこれ参照。判りやすい型なんで詳説の要ないし、これ以上取り上げない。というのは、人体が交差する型がコントラポスト以外にいくらでもあるのだがそういったものたちがここで述べたように理論的に掘り下げられていないのならそっちこそ論じるべきことでありこの事こそ提起するべき問題だからだ。コントラポストもしているが他の交差もしている人体表現の一例をこの映像で観てみると、交差の様々な可能性について考えざるを得なくなる。
さて「わかりやすい」教条が「わかりやすさ」独裁の猛威を振るっている現在には、「わかりやすく」バカがもたらす数々の弊害が出てきており、幾らでも例が思いつくが、中でも、本ブログがよく論じる映画の放映に、人間の知的尊厳を踏みにじるような例が見つかる:吹き替えのことだ。御存じの通りこれは字が読めない人のための外語音声処置であって、高識字率社会では不要である。いやそればかりか、俳優の肉声をシャットアウトしてしまい(こんな例外は普通ない)、音声という映画の鑑賞の半分相当を無にする。つまり作品損壊の機能しか有しない。また現役声優の人数がごく限られているのだから、様々な映画たちを金太郎飴化する。というように吹き替えとは、高識字率社会では、低級低民度のアホのための処置なのだが、これをこよなく愛する日本人がうじゃうじゃ居るのである。日本語吹き替えが好きでたまらんそこのバカ、お前は字が読めないのか?もちろん、アホが日本語吹き替えに愛着を示すのは、極めて少ない数の字を見ながら映像を観るという児戯にすら労を要する救いようのないサボりだからであり、また、池沼特有の思い出補正バイアスによって感覚が死滅していて金太郎飴が聞きたくなるような有様だからだし(挙句には、刑事コロンボのようにおなじみお家芸にすらなる)、また、気持ちの悪い日本語を白人に喋ってもらいたいという、倒錯と阿呆を極めた邸能の邸能による邸能のための要求をしているからである(この問題に関してはこの記事の後半で詳述している)。
金太郎飴と言えば、この記事で言及だけはしている板垣漫画に関して思い出す。ヒトモドキが他人と同じことしかしゃべれないのも相まって、ネット上では、板垣作品を揶揄するクズの声がデカすぎる(だけだが)という惨状を呈しているが、実際の板垣漫画の特徴は、表現の帝王とも言うべき凄まじい表現力にある。それは、アタマがまともな読者の誰にも判っていることだから言うまでもないことなのだが、いかんせん子供+大きい子供のクズ発言が湧きすぎているものだから、評価の要もない傑作でしかない作品の凄さを今わざわざ改めて確認しておくことにする。