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しばいてくぞ

それは「思考」なのか

僕だけの光

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前回の記事から

ついつい自分ワールドの中以外が見えなくなってしまうという事、もちろん全人類の全人生の間がそうなのだが、まあそうも言ってないで、例を挙げよう(あくまでたまったま思い付いた例にすぎず、こんな例やこれに類する例やこの例示によって言いたいことを言えそうな他の例など他に3000000万億個あるのだから、あくまで自分の心当たりに当たるように。)。

この記事で見た、Fr・ヴィルヘルム・マーダー(Friedrich Wilhelm Mader, 1866–1945)のEl Doradoという非常に興味深い冒険小説の第57章「Unkas' Treue」に:

Es kam ihm zustatten, daß er sich auf dem Hinweg in dem schwachen Dämmerlicht, das die Fackel bis zu ihm herübersandte, das günstigste Versteck gemerkt hatte, denn Moiatu, der nach Ulrichs Leiche forschte, hätte ihn nun unbedingt entdeckt, wenn er sich nicht so gut hätte verkriechen können.

という文章が有る。今さらdennの用法解説などしない(読んどけ)が、理由接続詞が何に係るかというと大体は前文「の全体の内容」とかであり、そうして「というのは」と言う限りなら、すんなり判る。一方、「というのは」が前文の一部に係っていると、少々戸惑う。

Oh! Baby!(高橋Team A)

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今なら「günstigst[ ]」に対して理由説明している:「それはイイ隠れ場所で、Moiatuの奴にも見つからずに済んだものである」。

何かの間違いがあるワケではないのだが、ここでdennを使った時にはその理由説明導入・denn適用範囲の理解・納得・イメージが若干わずかに使用者側サイドに偏っている、何が「なぜなら」なのかが書き手にヨリ分かっていて若干わずかに読み手を置いてけぼりにしてしまっている。

もちろん、マーダーだけの問題ではないし、それどころかマーダーの特徴でも何でもない。何の興味もないゲーテの『堤城平の遍歴時代』の第1巻第3章に:

Wilhelm folgte mit einiger Beschwerlichkeit, ja Gefahr: denn wer zuerst einen Felsen hinaufsteigt, geht immer sicherer, weil er sich die Gelegenheit aussucht; einer, der nachfolgt, sieht nur, wohin jener gelangt ist, aber nicht wie.

とある。やはり理由接続詞が前文の全体でなく部分に係っているケースで、何が「というのは」なのかが、denn以降ずっと読んでいかないと、判らない。「着いていくのが難儀なのだが、難儀というよりは危なっかしいものだ。でなぜ私が「難儀というよりは危なっかしい」と言うのかと言うと、着イテイク〔folgen〕という登り方をしていると、前行ってる者よりは見通しも自由も効かなくなって来るからである」。

マーダーよりも一段と書き手側(=自分)にだけは分かっていて読み手側(=相手)は置いてけぼりというタイプの「なぜなら」導入であるが、もちろん、ゲーテ個人だけの問題ではない(とはいえこういう自分内理解寄り・ニュアンスまかせの文章がゲーテには非常に多い)し、それどころか、個人の文章の特徴でも何でもない。

さて、ドイツ語文章の話をしたいのではない。そういうブログだからそういう例示をしたというだけのことであって、特にドイツ語文章の話をしたいのではない。し、理由節の話をしたいのでもない。ただの例示ただの遊びはここまで。今したい話は、【自分にだけは分かっている】ままにしゃべってしまい書いてしまう振る舞いの話である(が、さらにしたい話が有って、後段)。

このふるまいが、例えば、自己満足な話し方をするだとか、伝え方が下手だとかいう時の振舞いである。往々にして、自分に納得させたいだけの奴が有る。一人合点してるピエロが居る。一人でヨロコんでる奴が居る。ひとに話してるようで自分に話しているだけの奴が居る。が居るというより、あなたもお前も私もみんなこんなことを日常でしてしまっている。

潮風の招待状

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この話だけなら、心当たりも通念もあるだろう:相手側ニ立ッテ…。よく言う話だ、それすらも考えてないでしゃべくってるそこのアホは猛省しろ。しかし、よく言う話をオウム返しするそこらの1000のゴミくそブログではない。もっと聞いてみよう:言イタイコトヲ形ニシテ…。

本当に、そうだろうか?本当に、言いたいことが有って→それが形になって→それが外世界に表出されて→言語記号として形象化されるのが発話なのだろうか?心的ナントカに、そんな下請けたちが実在しているのだろうか?実在してそうなのはどう転んでも言語記号だけだろう。それ以外は、目にも見えず穴にも入らず尻にも触らないではないか。

そんな、「形ニシ」ないといけない内容、ばくぜんとしたいめーじ^q^とお前たちが呼びたがりそうなモノを、三葉虫の時代の古人なら「混沌」とでも呼んでいただろう、知らんが。それは、「形態」にされるのを「待っている」。ヨリ「規定」された対自へと、他の別物たちからヨリ「区別」された即-且つ-オカズへと「展開」するために幾多も「媒介」されていかなければならない、原初のカオス。

という図式から、我々は、カオスを差し引く。そんなものは、無い

そろそろ、人間のアタマん中で起こっていることをハッキリさせておこう。… ほぼ何も起こっていない。少なくとも、「内容」を手探りするようなことなど、形アル言葉ニシヨウと意識や意志をもって努めることなど、「考えを」「整理」し「てみる」ことなど、「明確な」「イメージを持つ」ことなど、ちんちんをちゅぱちゅぱすることなど、起こっていない。そんなことをしていない。しているのは、せいぜい何かを感じているだけのことだ。それを言葉にもたらすのは、お前のメンタル言語装置というお前の中に有るのではないものの仕事であって、お前は、自分でしゃべってなど、いない。

そう、最近ならこの記事この記事で述べ、他にこの記事で触れているが、結局はこの記事を開いたらええというところの、人間は言葉を使うことが出来ず言葉に使われることしか出来ないという問題に、ここでつながる。

(と言った過去記事で見ているように人間がどれだけ言語に喋らされているだけで操られているだけであるかということ、これ勿論例に枚挙いとまがないものであるが、いまテキトーに思い付いたあるあるを1つ。例えば、瞬間的にそこそこの好感を持った場合に想いと反対の言葉が口を突いて出るという反応。こういうのは大体、瞬間的に強烈な好感を持った場合には起きないもので、そんな時にはもはや言葉が出ず表情が固まる。注意せよ、賛辞が出て表情が緩む、ではないからな、まちがうなよ。これは特に未知初対面のケースでのことで、親密周知の知人や親族には賛辞が飛び出て表情が緩むばかりであろうが、後者はむしろ好意を持つ時の(と言うか持ってしまう時の)通常の反応なのではない。同じく未知初対面で、瞬間的に・突発的に・予測不能に・不意に、強烈なことはないがしかしそれなりの・そこそこの・ほんのりの・しかし無視はできないし・ストーリーが始まってしまいそうな程度、の好感を持つと、そうなると、素直に心中を報告することが絶えてなく、否定的でマイナスなことを口にしてしまうのである(空想が描いてるものは空想に過ぎないからな、映像じゃなく、お前の日常を見ろ)。心当たりありまくりだろ。この時には、何っっっにも考えていない。脳に調音器官を完全に乗っ取られている(アホは年中乗っ取られているが)。ただ、この奇怪な反応のことは純無意識(←バカだから)的にでなら、よく知られている。しかしバカだからそれを分析器にかけることはせずぼっっっけーと思い出して、《好きなひとにはツラく当たるもの》《いやよナントカもナントカのナントカ》をホザき出し信じ込みだす … ちげーよボケ!!!!コトは「反応」や反射の問題だ。対人に十二分に考える余裕時間がある状態では、ハナシが全く別だ。作戦も戦略も駆け引きも成り立っている長時間スパンでは、咄嗟に反対の言葉が飛び出す反射反応など用が無い。そこでイやだ嫌いだ言っているのは本当にそうかもしれず本当はそうかも知れず本当はそうじゃないかもしれず本当は何1つ分からん。余裕時間があれば人間は存分に隠す。咄嗟反応発言とはまったく別次元別世界の発言をし出す。)

そしてここで、《思考と言葉》的うんぬんの、世にもオメデタイ与太話をやっつけることになる。思考が有り、それに「対応」していて表すことができる記号の体系があり、それを我々は自由に操り、他人に「伝」達する。コミュニケーション☆彡明晰判明♡



そのキレーゴトをやめい!!!

そんなものはお前が絵に描いた餅だ。お前の脳内世界支配プランだ。お前の観念ワールドを気持ちよがらせるためのオナホだ。お前たちは学術や思想をそれなりに考え抜いて追求してるのじゃなくてお前たちの使用済み極上生腰の報告会をやっているだけだ。

心の中に思考が混沌とあってそれを言葉として表出?それはお前の実感にそぐっているのか?お前は自分がモノをしゃべるときの実感としてそれを本気で本気にしているのか?確かにそんな思考-言語図式を肌で感じて手で触れて亀頭でさすったんだな?本当の本当だな?

んなワケがない。誰もなーも考えんとクソ伝言ゲームを数千年繰り返しているだけだ。しかも特に、ジャルゴンをぺちゃくちゃ書き散らすしかノウのない学者のアホども、そうして自分が何しゃべってるのかを自分ですら分かってないようなジャルゴントルエンでおつむがイッてるアホども(あなたがすぐ思い浮かぶあの著名人たち全員のことだよ)がウレシそうに繰り返してきたクソ噂話だ。けだし、学術者とは叡知と学識の人々ではなくて一生自分のカビ腐った確証バイアスの牢屋から一歩も出ない思考停止人の代表だからな(特に!!こいつらの物の言い方やボキャブラリーを観察してたら分かるわ)。

ではどうしたらいいのか?思考が存在しない(←いやそうやろ!言語記号のほうはアリアリ有るんだからどっちかが無いことになるやろ!!!お前わしの文章ちゃんと読めやボケ!!!)のなら、何が思考なのか?簡単だ。口から発し・手から書き・印刷物になり・ディスプレイに映った記号たちが、思考なのである。それらの記号たちが思考を代理表象しているなんて風になってんじゃなくて、そいつら本人が思考自体以外の何物でもないのである。思考なんてのは言表の前から有ったようなものではなくて、記号が生じた時に生じるものであり、発したときが存在開始時点というものなのである。

次回の記事に続く