地上最強のブログ

しばいてくぞ

連鎖する #03_2

 

前回の記事から

この表現力というものが表象作品内での力関係を表示する唯一のものであるということが、漫画受容層の大半を成すところの(体の大きな)子供のおつむにはどうしても分からない。

本ブログがどこまで程度の高い話にでも対応しているかというのは、ほうぼうで示してきたものである(過去記事読め)が、今回、反対にどこまで庶民の話題にも対応できるものであるか、どこまで子供に付き合って口を利くこともできるものであるか、どれほど清濁併せ呑む器量があって、どれほど、古今東西・老若男女・天上天下・米ソ冷戦・生活保護創価学会安田講堂教行信証京阪人身天外基盤の話題を扱えるかということを、この記事を以って例証しておく。(引用する絵は前回記事参照。)

四字熟語ガールズ/Team M

四字熟語ガールズ/Team M

  • NMB48
  • 発売日: 2018/04/04
  • メディア: MP3 ダウンロード

いま、へのへのもへじのヘチマが、私は地球を破壊できますと言って、おにぎり三角形が私は銀河系を…と言って、さあどっちが強いか、と言い出したらどうか。誰が誰に勝った負けたの言葉だけを見てたら、どうか。しかるに、これがド〇〇ゴ〇ボ〇ルキャラ/某不良漫画/某アメコミ等のキャラ強さ議論^q^である。ググれば何十というこの手の話のアホー知恵遅れからスレからが見つかる。子供たちは、(スカ〇タ〇の)数字しか見ない。何のキャラが何が出来る壊せる云々と作中で言いましたのその言っただけのことしか見ない。それならただの言ったもん勝ちで終わりだ。つまり漫画受容層の(体の大きな)子供たちは、ただの言葉をあーでもこーでもとダベっているのである。

しかるに、漫画とはまずはである。絵がどこまでも主であって、台詞が主に近付くかこれに代わってしまったら漫画失格だし、そんな漫画は無いとしても、そんな風に読んでたら読者失格ではある。どこまでいっても、で見せてなんぼなのが、漫画。に篭もる力がイコール其処でのチカラである。

もちろんそんなことはない、実際に絵として当キャラが当破壊行為に従事し当勝利行為を収めているところ、そういうコマ、そういう絵、そういう描画、を見て物を言っているのだ、と言い返したいだろう。そうだ、もちろんそのが問題である。そのの、絵としての迫力や説得力

f:id:kakaist:20190405181813j:plain(『餓狼伝』20巻18~19頁)

がどの程度のものなのかが、問題である。

そこでは、子供たちにそれしか見えていないところの「強」さ類は、作品とキャラの魅力の些細な一要素・一エピソードに過ぎないのだが、もう敢えてそこだけを特に見るとするなら、まずはこう言うしかない:漫画とはまず絵であるという公準から、漫画において強さとは絵ヅラの強さ以外の何でもないという定理が導かれる。ここでは「強」さや「力」は、絵がどれだけデカデカと主張し、ド派手に叩き壊し、生々しく迫り、ぐいぐいと読み手を引っぱり、ズカズカと印象に残り、華麗に乱舞し、果敢に挑戦し、思い切りデフォルメされ、《ありえる》《ありえない》の揚げ足取りを破砕するリアルなフィクション力(りょく)を有しているか、どれほど飛びぬけててぶっ壊してるか、によってのみ、計測される。もちろんすべて人体(状出力体)に関してのことであり、着眼するのは人体の表現である。それ以外に何があるというのか!このような前提の下に見るならば、鳥○明のZ戦士たちは松尾象山1人よりも弱い(表現力が)。落書よりもヒドい絵の不良たちは、口では何と言っても、字面ではどんな「強」さが申告されてても、所十三や東條仁の不良たちのどれよりも弱い。落書よりもヒドい絵よりもヒドい絵しか描けてないへのへのもへじ漫画の有象無象は言うまでもない。そうして、ハルクは花山薫より弱く(表現力が)、オンスロートもTOAAも渋川剛気より弱い(表現力が)。ゴーストライダーもギャラクタスも地下闘技場トーナメントの予選落ち。あと100は例を思いついて、各自補完せよ。ハナシが粗雑にすぎると見えるだろうが、安心しろ、漫画受容層の(体の大きな)子供たちのやり取りなどは、もっと粗雑である。ところで、もちろん、以上のような話は、実際の漫画作品の良し悪しや魅力を考えるうえで、9999億兆分の1も参考にならない。アメコミなら、歴史や社会や科学の文脈に置いて(置いて描いてある)読んでこそ、初めて読んだことになる。

f:id:kakaist:20190405181848j:plain(『グラップラー刃牙』39巻41頁)

ちなみにこれは表現界の一片隅の話だからかように単純に述べてて済んでいるのだが、これが現実上の生体間の「強」さとなると、身動き取れないぐらい複雑なことになる…というよりもう「強」い弱い云々が何の意味も持たない。

現実生身のこの世界では、実際に何が・どれだけ「強い」云々の話は、意味や中身が無いに近い。もし、アタマが極端に弱くて、例えば本質「強さ」があってそれが出来事「勝ち」を結果としてもたらすといったようなイメージを描いているのなら、自分の知性以前に知能を疑ったほうがいい。事実出来事「勝ち」等々の個々の偶発事・偶然的成り行き顛末は、ただ起きた事に過ぎず、その裏にその〈実体〉となっている「強」さなど、存在しないししたためしがない。

まず、誰が・何が・何動物が・何獣が・何怪獣・何昆虫が「勝」つか「負」けるかは、個々体の組成・生育環境・教育・訓練・学習内容・コンディション・モチベーション、それから周囲の物品・地面の性状・日射角度・交通量・往来・外気温・風力・時間帯、等等等等等(が何百何千通りあるか見当もつかないしそれらが組み合わさって複雑極まりないよりもなお複雑極まりないことになる)、そもそもの「勝」「負」の判定基準…等等等等のあまた無数のファクターに依り、それらそれらそれらそれらに依存し連関し左右され支配され……つまるところ無限無際限に多種多様であり、そこに何があるのか・如何な「強」さがあるのか、というのは算出不可能だし、そんなことはもはやなんの意味も無いとしか言えなくなってくる。

たしかに、試合等の状況設定、つまりリングや土俵やルール、総じてお膳立てというものがあるのはもちろんだ。とはいえ、そこでも、上記無数の「勝」ち「負」け要因のいくつかが免除されるだけであり、そう考えると、やはりそこでの出来事(「勝」ち「負」け等)も、複雑極まりない諸原因から結果した、もはや偶発的偶然としか言えないような、特に何をも意味し難い単なる1個の結果であると言える。ところで人間は強さとか何とか言って元々は何を考えていたのだろうか。明らかに、人生でのそれだろう。日常でのそれだろう。生きていくうえでの、生きている今刻一刻においてのそれだろう。そうであるのに、丸腰丸裸の個体1対個体1の状況という、傾向的歴史的現実的に絶望的に存在しえない架空抽象の状況を設定して、そこで勝ち負けの判定を出して、それで、「強」さを測量したことに、果たしてなるのか?そう大まじめにお前は信じてるのか?設定された特定の一定空間で一定規則上の一定パフォーマンスにおいて一定の成果を上げたというだけのことで、「強」さの何が計測されるというのだ?

バカバカしくなって来ないだろうか。強い弱いとか勝つ負けるとか言うのは特段にだらしない言葉遊びにしかなっていないのだから、一事が万事こうなのである。蠅が象に「勝つ」ことは無いだろうが、細菌が巨大動物を「倒す」「滅ぼす」とは言う。最も沢山の人間を「倒した」のは蚊だろう。さてどちらが「強い」ですか?(くだらね!)そこで行われた「勝負」「争い」「闘争」「競争」が何であるのかを、お前自身が理解しているか?それを考えたことがありますか?言語ゲーム「強さ」はそもそも成り立っているのか? 

f:id:kakaist:20190405181942j:plain(『範馬刃牙』1巻40~41頁)

そう、ウイルスより「強い」ものは無く、サメとライオンが何に負けてもシャチもアフリカゾウもミサイルより弱い。大統領最強。書いてて心からバカバカしくなるが、それは「強」さの話が心底からバカだからだ。

それでは結局人間が「強」さ云々をするときには何を理解しているのだろうか。まず、「実際」の生体的(?)強さや「実際」の(筋?)力だけを言っていても、得られる意味がほとんど無い。いや意味と言うなら、無意味と言ったほうが早い。おそらく日常何気に思ってる「強」さというのは、強そうさだろう。いかにそう見えるか、いかにそんな雰囲気を出しているか、いかにそんな印象を与えているか、いかにその印象で自分を通すことが出来てしまっているか、その印象でいかに可能最大限の結果を可能最多数導き出せているか、といった卑近で示威的なもの、であろう。少なくとも状況を設定して考えるよりはよほどか自然な答えである。つまり、いかに見えるか、ということがコトの大部分かも知れない。表象の世界で「強」さだったものが現実でもそうだと言ったらもうそれでええのかも知れない。

f:id:kakaist:20190405182302j:plain(『グラップラー刃牙』40巻141頁)

 

さて、今までのところ、放映上の日本語吹き替えがゲロクソきもいという話をしていたのだったが、これが蔓延している原因のほうは検討がつきやすい。上述の「わかりやすさ」キチガイの現代には「やさしさ」キチガイも当然併発するからだ。視聴者に「やさしい」放送をと考えたら、アホでマヌケでみっともない吹き替えという反知性的・反人間的・反人道的な措置を取らざるを得ないくなるのである。ここまでは大方の者に見当が付く。ただ、ここからさらに、「アホでマヌケでみっともない」ものも繰り返し刷り込まれたら気に入られてしまうのであるという話には、なかなか誰も進めない。

例えば合州国映画で現地のテレビ画面が映ることがよくあり、十中八九、落書き未満のひっでえ絵柄のクソ品質のアニメを現地人が嬉しそうに観ている。日本の止め絵アニメも相当にヒドいが、この、アメ公現地人が噛り付くように観ているアニメも、輪をかけてヒドいものである。しかしそれに、日本原住民の誰も疑問を持たない。むしろ日本で放映する。ただただ歓迎される。この記事で書いたが日本人は米国属州民で「バナナ」なのだがそういった話は措くとして、人間は、明らかに生理的にキモいものでも、繰り返し刷り込まれたら好意を抱くようになってしまい(単純接触効果)、周囲の「みんな」がそれを気に入ってると自分の感性も捻じ曲げるのである(同調バイアス)。

次回の記事に続く