地上最強のブログ

しばいてくぞ

弱変化語尾万能

 

みなさ~ん、
語尾変化ってむずかしいですよね☆(ゝω・)v

               ↑ 刹すぞ

 

信じられん話だが、

Der Duden in 12 Banden: 4 - Die Grammatik

Der Duden in 12 Banden: 4 - Die Grammatik

  • 出版社/メーカー: Bibliographisches Institut & FA Brockhaus AG
  • 発売日: 2016/08/01

の第1527項(968頁)に、弱変化語尾のようなもの本来の変化語尾をいわば侵食してしまっている事例が挙がっている。何例か挙がっていてそれがどんなんかというのはこの本を買って読んでくれと言うことになる(やっすいもんだから、買え)が、その中の1つが、誰でも知ってるワーグナーの「恋愛禁制〔Das Liebesverbot〕」中の

Du schweigst! Wie sollen wir das deuten?

Sie schweigt in stummen Schmerz,

was hat er ihr vertraut?

というもので、ググってわかるように、本当にこの語形でまかり通っており、疑問を呈してるページも別に見つからない。誰もおかしいと気付いていない。アホばっかか。

「stummem」としている例もみつかるが、そんな改悪はせずに、作詞者の「文法」《間違い》を鑑賞したほうがいいところである。

このDudenの説明によると、こういうのは、「aus hartem dunkelbraunen tropischen Holz」というものと似た現象である(他にも色んな説明をしている。買って読め)。この場合には1つ目の形容詞がHauptmerkmalträgerになっており、2つ目の形容詞が強変化をしなくてよくなっていると見ることができるが、「in stummen Schmerz」では誰も性数格を表示できていない。

他にも本来の語尾が-enに置き換わっていっている例を挙げつつ、「kalten Wassers」などもそういった現象の1つだとしている。これも本来「kaltes Wassers」だったものが、-en語尾に置き換わって行った。弱変化語尾万能だな。

こんなんほんまにあるんかいなと思うところではある。が、50年に1回ぐらいなら見つかる。ハインリッヒ・ザイデル(Heinrich Seidel, 1842–1906)の文章にこういうものがある。

Seidel, Heinrich: Der Neuntödter (1888). In: Gesammelte Schriften von H. S. Bd. 6. Ein Skizzenbuch. Leipzig: A[ugust] G[ottlob] Liebeskind, 1894. S. 37–65.(これな):

Seit einigen Tagen trug ich mich nun schon mit dem Gedanken, auf welche Art ich wohl meinen schwerkranken an das Zimmer gefesselten Freunde, dem Landschaftsmaler Richard Böhlau eine dauernde Unterhaltung zu schaffen vermöge. (S. 42–43.)

そこは[meinem]じゃないと困る。一方定冠詞にまではこの-en侵食は及ばないようで、[den Landschaftsmaler ……]とはさすがに言わないようだ。

 

なおこのDer Neuntödterには文法破格的な例がちょこちょこ有って、例えば、引用した箇所の後を読んでいくと、こんなんがある:

[…], wenn er einmal von seiner Wohnung kommend durch das Fenster schaue und sich dann selber unten im Atelier […]. (S. 46.)

分詞構文(, von seiner Wohnung kommend, )というのはどんなものでも自由に作れるものでは全くなく、このように第1分詞で作るものは稀である。逆にこのような文型を用いるのが普通なのが、古典ギリシャ語。またsichselberの間に異物を挟んでいるのも実に面白い。

挟むと言えばいくらなんでも破格すぎるこれ:

Und wenn ich dann endlich schon zehnmal an die Thürklinke gefasst habe und endlich an zu klopfen fange, dann schelten der Herr Böhlau und sagen, ich solle mich scheeren und ihn in Ruhe lassen. (S. 59–60.)

「分離動詞」(という間違った名称)がzu不定詞になるときにはzuを挟みますとは言うが、別に挟んでいるわけではない;「分離」「前綴り」(ではないが)と動詞がまったく別物なだけで、zuはふつーに動詞の頭に付けているだけのことだ。「挟」んでいるかのような書き方・印刷の仕方をしているだけだ。そんなのは「挟」んでいるのではない。挟むというのなら、引用文中のようなものこそ挟むというものだ!!!なんと、anfangenの従属不定詞を動詞副詞と動詞で挟んでいるのである。こんなんありか?(この記事で見たものと多少似ているかもしれない。)

またこの台詞は召使いの台詞であって主人を主語にしている文では定動詞を「敬称」にしている(schelten, sagen)。主語が単数でも、こうなる。

Der Duden in 12 Banden: 4 - Die Grammatik

Der Duden in 12 Banden: 4 - Die Grammatik

  • 出版社/メーカー: Bibliographisches Institut & FA Brockhaus AG
  • 発売日: 2016/08/01

第361項末尾(266頁)に、敬称Sieが「die Dame」「der Herr」に置き換わることがあると書いてある。ただ「[…]. Herr Böhlau haben etwas vor.」(S. 59)ともあり、定冠詞が付かないこともあるようだ。(ちなみに主語と定動詞が一致しない破格はこれだけではない。もちろん、女性代名詞で受けるMädchenのこと(そんなのは有名)に限ったことではない。)

確かにそうなのかも知れない。なるほど、この後に、主人Böhlauを受ける代名詞に「ihnen」「sie」を使っている(S. 60, 61)。ただしそれらは3人称であって(会話相手はBöhlauではない)、Dudenが述べている2人称敬称ではない。

 

 

ところで、安いものなのだから買ってしまえということを上で書いたが、そこで思い出したが、商品紹介系のつべ動画で再生回数多くなるのが、まず常に、「コスパ」が「いい」(という言い方は意味を完全に間違ってるアホしかいないが)と言われそうな、つまりクソ安物商品の紹介動画だ(非常に安くて人生の無駄時間と拷問をもたらすそれらは確かに「コスパがいい」でしょう)。

枚挙にいとまがない無数の例があるが、例えば、有益で情報に富む動画を配信している「吉田製作所」氏、現時点だと、100万回台再生のページ、ほぼどれも、クソ安物商品を紹介しているページだ(あと、アホ御用達のApple品紹介)。特に、(実は別に何も安くはない)クズ店舗のド〇〇のゴ〇PCを紹介しているページが、2020/08/22の15:05時点で412万8501回再生と断トツだ。その下位の200万回台再生のページ4点のどれも、やはりクソ安物商品の紹介動画だ。吉田氏が〇ホ視聴者池にエサを撒いて貧乏邸能のバ〇魚どもが群がってきているという絵面なのだが、

こんな絵面が、つべ・ブログ・Amazon・その他買い物絡みのありとあらゆる所で見られるネットの いや消費者行動全体の縮図にして一サンプルAmazonでも 数百とかのレビューが集まってる商品は、常に必ず、貧乏人ホイホイの廉価商品である。他の買い物現場での「人気」もことごとくそういうもので、人があつm…というか〇カが群れ集まるものは、常に必ず、バカ〇どもの貧乏根性をくすぐるク〇安物である。呆れてものもいえない〇〇どもだ。このド〇〇の〇ミなど、買ったところで、使えることは全くない。HP Stream 11-y003TUという同様のゴミを持ってた者として、断言できる。動作という動作をしない、故障としか形容できない動作しかできない【最初っから故〇】品とぐらいに思ったほうがいいような、粗大ゴミを買ってるに等しい製品にすぎない。使い道はまったく無い。(後記:同系動画で吉田氏はさらに歯切れがよくなっている。まあ、安いように見せかけてる店舗なんて情弱相手の商売だ。〇〇キ自体が悪いわけではない。安さにガッツいた低民の根性が事態の根源。)

そう、安物買いの銭失いというのは、口ではホザき言葉としてだけは誰でも言えて知っていてはするのだが、ここがまさしく 言葉を使っているだけのバカにはその意味がワカッテはいないことの典型例になっていて、その意味を知解しモノにしている者などほとんど居ない。バカは今日も安物に飛びつき、安物に血眼輝き、安物をクリックする。

こいつらを見ていると(というか閲覧数と人気を見ていると)、こいつらがどんだけ不愉快なカスどもなのか、どんだけ自分もまたそうだったのか(今もそうであるのか)がヒシヒシ感じられてしまうものである。ちーん。