地上最強のブログ

しばいてくぞ

勘違いしたらあかんよ

 

前回の記事から 

日本語に於けるクソ翻訳をおちょくりシバき倒すことを職務としている本ブログだが、断っておくが、誤訳」云々の邸能末節論議には一切関わらないつまり「語」訳にも関わらない。「単語()」1個1個の《正しい》訳をしたところで原文の理解にはクソの役にも立たない(し、そんな作業をするのが(あるべき)翻訳なのではない)。この邸能論議がやっていることは、つまるところ言わば、辞書の見出し語が何だったら自分の気が済むかという、非常に低レベルで、事の本質となんら関わらないところの趣味交歓に過ぎない。外語というのをどんな日本語で受け止めたら自分が気持ちいいかをくっちゃべっているだけ。

同じことが、日夜津々浦々でアホたちが興じている《日本語》のクソ談義にも言える。アホたちが論じて論じさせている《正しい日本語》というのは、現行(だけ)の辞典等の(ただの)語彙登録典やあるいは自分(だけ)の語用に照会して気に入るか入らないか(だけ)をダベってるだけの不毛無内容無意味無価値の井戸端会議である。それはこいつら自身の言語に関してそもそも何ひとつたりとも語っていない。わかったら二度と新書・テレビ・新聞の《日本語》論をシャットアウトしろ。

さて邸能「誤訳」論議だが、一例を挙げると、「フルメタルジャケット」の字幕のこと。戸田奈津子に代わって原田眞人が担当した字幕にアホたちがバカ嬉しがってよだれ垂らして顔真っ赤にして潮吹いて射精していること周知のとおり。しかし、ごく素直に、世間の他人たちがホザいている評価(によってしかお前たちはメディアを知覚することが出来ないのだが)にハマらず、同調バイアスで知覚を歪めないで、ふっっつーに原田版の《正しい》字幕を見ると、なんのことはない、ただの下ネタである。この原田字幕には、軍隊教官のシゴキの雰囲気など、ひとかけらも出ていない。ち●ぽ。

そらそうだ、これがシゴキの口汚い罵倒であるのは、英語でのみそうだからだ。もっと言うと、この映画製作当時の制作地域の英語とこの映画の想定配給先の英語原住民たちの英語の語感の中でのみ、そうだからだ。こんなものを《原文に忠実に》日本語に「直」「訳」(って何だ?ゆってみろコラ)したところで、一切何も伝わらない。

そして《原文に忠実》というのは、何かイイことなのではなくて、100億パーセント、ただただひたすら、間違ったことでしかない。それは、「忠実」ではない。

下ネタが罵倒語句になっているイギリス語原住民の語彙体系・語用体系・社会コンテキスト全体が理解出来ていないと、戸田字幕・原田字幕どちらにしてもらっても結局何も理解できない。

これは、他の無数の戸田批判(・他の無数の「誤訳」談義)と全く同じことで、そこには批判など成り立っていない。翻訳ごときに何かを伝えてもらおうと期待して、翻訳などどというただの道具に全力でオンブしてしてしまっている以上、何も解決しない。原文に当たらない限り、原文のある程度のコンテキストごとの理解がない限り、無駄に無駄を重ねるだけになる。わかったか。

こんなことをこのように明示的に指摘している文章は、呆れ果てたことに、本ブログだけである。てめえの頭で0.1ミリ考えたら誰にでもかる事なのだが、そういったわずか1しずく・わずか1滴の思考が誰にも出来ないほど、それほどに、人類とはアホなのである。

(と断言してしまうことについて注記。そんなことはない、それぐらいのことは考えている人はいる、とお前は言いたくなるだろう。アホ、ええか、よう聞け。思ってても言わん書かん出さん発表せん奴は、なんの意味も無い、まったくひとかけらも。この記事を始めとして何記事かで言っているが、或る事を思っていたり・理解していたり・認めていたりしても、それを発言として外に出して明示しない限りは、いくら自分のなかでキバってても、いくら自分のなかで蓄えてらっしゃってくさらしていただいてやがっても、存在しないに等しい。お前がいくら自己内満足しても、それは、世界には、無でしかない。なおこれは、無論、声がデカいだけの奴ら問題とは、違う話である。例えば、Apple大好きアホの声がバカでかいだけで、現実のユーザーの大半がWindowsなのは誰でも知っている。それは、声を上げるまでもない事柄。一方、声が本当に無いから上げないといかん事柄がある。今はこっち。)

この件に関してキューブリックの判断なぞ何の関係もない。こいつは日本語を全く知らん。決めつける。知る気もないだろう。というのは、日本に好事趣味以上の関心を持っていないからだ。人間は、その文化・社会に多少とも深めの関心があったら、その言語を知ろうとするものである。「フルメタルジャケット」の後半を見よ。あれが、アジア(日本)に好事趣味以上の関心を持っている人間が作りそうなものか。

この映画の後半は、字幕問題等除けば悪くはない映画である前半(落武者武者修行よりは面白くない)とは別の映画であり(そうやってけじめ付けて全然かまわん)、目立ったテーマが、西洋人には理解できねえ人種が居るんだよスッゲーよなという好事趣味だ。西洋人が情の通った人間でアジア人が効率マシンという最低俗オリエンタリズムだ。つまり、コッポラ「黙示録」以来1ミリの進歩もない。むしろ退歩している。

例えばそのマシンとしてチーンエンジャーの女の子を起用している点がそうだ。こんなもんいるわけないだろバカ。どこのブラックラグーンどこのシンシアザミッションだ。漫画にも劣る中二妄想だ。

こんなんいるわけないばかりか、反対に、民間人を殺すための戦争であるベトナム戦争において女性というのは、赤子老人子供と並んで、ありえない・あってはならない犠牲者の典型的代表であり、したがって、斯かる闘う少女(カッケーおもてんちゃうぞ邸能ども)をあたかも実在していたかのように描くことで、民間人全員が敵兵だという米国のデタラメ言い分をキューブリックは代弁して弁護しているのである。なんて野郎だ?いやこんなもんだよ。人種社会集団意識としては、こいつも、この程度の男なのである。「フルメタルジャケット」のスナイパー少女は、《戦う少女》的なものとはぜんぜん全くちがってて、侵略とその口実を正当化するイデオロギーのための道具である。

僕たちは戦わない

僕たちは戦わない

  • AKB48
  • 発売日: 2015/05/20
  • メディア: MP3 ダウンロード

キューブリックというのは、バリー・リンドン」という世に並ぶものなき至上審美映画や、あの、映画史上・表現史上の

頂点と言っても足りない極上傑作、

エンタメ化した芸術にして芸術化したエンタメの究極の精華である

時計じかけのオレンジ

という映画史上永遠最高傑作を作っているのだが、そんな方面では力を発揮できても、欧米以外社会の認識には何の力も発揮できないのである。そしてこれは欧米人の通例である。欧米人というのは(と十把一絡げにする大問題は今は措く)、普遍的一般的な事柄や自文化自社会に関する事柄でなら、途轍もない手腕をふるって、およそ考えうる最高度の結晶・成果・営為・作品・表現をもたらす連中なのだが、非欧米社会集団の事柄になると、知力が凍てついてしまい、アホでマヌケな無知蒙昧を発揮するのである(そうでもなく最高度の認識を示すことも勿論多々あるが、そんな周知の事実をくだくだしく註する必要などない)。だいたいこれと似てなくもないようなことを岸田秀どこかで言っている(というかどこででも言っている、この硬骨漢なら)。

しかし、このことを日本人は問題にしない(岸田秀本多勝一などは例外中の例外)。ハイデガーナチス問題のような遠い異国での問題には熱中できるのにだ。この記事最下段参照。

フルメタルジャケット」後半が愚劣であるというのは、アイズ ワイド シャット」や「2001年宇宙の旅」が映画としてもサブい駄作であるのとは問題の質が違う。アメ公から観たらおもろいのかも知れないわな。が、アジア人がこれを面白がってたら、滑稽を通り越して、ただのアホだ。なのに、日本人はそうするのである。日本人観客は、欧米人が作った日本人等の(東)アジア人(+世界中の民族)への人種差別映画を欧米人の視点から観て心からウレシがれるのである。映画を離れて一般論からしても、日本人は、欧米人が歴史的に下と見てきた側を、自分たちがその側であるにも関わらず、欧米人の側に立って見るのである。そうして、日本語でも何でもないところの、日本人がアメリカ人(WASP)に蹂躙されたがって屈従の快にもだえているような米英語愚訳で腐りきった日本語字幕、言語のクズでしかない日本語吹き替え、これらを心から楽しめるのである。まさに「バナナ」にしてヒトモドキ、家畜人にして米国属州民である。そうして、欧米人が欧米人のためにやってる映画祭に出て光栄を浴したり、はたまた、欧米人のためだけに作られた賞であるノーベル賞を名誉の至宝と信じこみ受賞者を国民総出でことほぐのである。悪質な《国際》とは、オリンピックだけでは全くない。そして最悪質のカン違い《国際》が、植民地根性である。

つまり、(代表的アジア侵略者の)マッカーサーと並んで写っている昭和天皇の物議をかもすあの姿、ほとんどの日本人が、結局、あの姿なのである。

ベトナム戦争に関して言えば、現代ではネット上のヒトモドキどもが唱和して中傷するしきたりになっている本多勝一がとっくに半世紀前から言ってたことだが、そしてふっっっつーに見て聞いてりゃ誰でも気付くことなのだが、米国人欧米人がこの戦争を取り上げる時には、映画などが特にそうだが、もっぱらひたすら米国人のほうで何がどうだったという事しか取り上げず米国人の悲運や惨状だけをこれでもかと描き嘆くのみで、侵略された国の人間の声も顔もまったく見えない聞こえないモノしか作らない。文献もそうらしく、下記のニック・タース氏がそう述べている。繰り返すが、日本人はそういうものを観て読んで聞いて、そうだなあうんうんと心から共感し、何もおかしいと思わないのである。人種3原色は科学的には阿呆でナンセンスだが、あえてこの遠藤周作的語彙を使ってこう言っておいてやろう:

鏡を見ろ、お前は黄色いぞ

そこで哲学や文学やってるお前、お前もだよ。人種に悩まずに欧米を専攻するな。

映画に戻ろう。描かれてるのがひたすら合州国人のことなのに、自分が属する広域社会集団のことが無視されてるのに、自分ら自身が空爆され核兵器を落とされた側なのに、米軍に駐留されている側なのに、この映画を観る日本人の感想は、御存知の通りだ。どうしたものか。実に、2010年代ともなると何と米国の中からこの「侵略された国の人間の声も顔も」きっちり取り上げた

動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか

動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか

  • 作者: ニック・タース,布施由紀子
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2015/10/02

のようなそれこそ「ノーベル賞」100回受賞してもいいような記念碑的超重要労作が出版されているのだが、こんな時点でなお日本人には「フルメタルジャケット」は下ネタ字幕の問題だろうか。結局

戦場の村 (朝日文庫)

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はこの国民には届かなかった声なのだろう。