地上最強のブログ

しばいてくぞ

余の訪園録 (5)

 

前回の記事から

当動物園の目玉であるヒト科ヒトの生態を観察しているが、かかる生態観察の名著たちの中でも出色の逸品を挙げておきたく、それは

死のテレビ実験---人はそこまで服従するのか

死のテレビ実験---人はそこまで服従するのか

  • 作者: クリストフニック,ミシェルエルチャニノフ,高野優
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2011/08/20

であるが、翻訳物の常たるタイトル詐欺をしていて中身はセンセーショナルな実録ものではないのだが、そんなしょうもないものではなくて、「いやはや人間の行動心理とはなんと宿業深いものなのか…」と熟考嘆賞を迫られるところの、全編全頁含蓄しかないような極上無類の大名著である。ミルグラム本体は読んだことがないがミルグラムよりもこっちを読むほうがいいと考えられる。それだけ幅広く入念に実験を紹介して考察している。とにかく、世の権威論社会関係論集団論組織論、例えば『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)のような何も教わらんクソゴミはじめ有象無象の論稿の中で、ダントツ真っ先に読むべきであり、読み応えがあり、面白く、時間を忘れて没頭する。(ということを、ここまで本の好き嫌い選り好みをする自分が言っているのである。どこまで面白いか推して知れ。)こういうおもしろすぎる本の特徴としてツカミからぐいぐい読ませるもので、冒頭の欧米の過激内容番組の紹介から読者を見事にツカんでくる。テレビ批判部分は欧米と日本のテレビ事情がぜんぜん違う(し、30頁で熱湯コマー シャルを牽強付会していてボンクラ訳者が299ページでそれに乗っかっている)から聞かなくていいが、しかしテレビ本質論の部分は、これ以上のものには一生出会えまいと言える全世界テレビ視聴者必読必熟読の内容である。なお、驚嘆絶句させられる人間心理の愚かさどうしょうもなさをこれでもかと描き考察し剔出しながら、認知バイアス絡み等の心理学用語を一切全く使っていない点が実に何とも言えず特徴的である。

そしてそういった本として真っ先に思い浮かぶ(というか最近読んだ)のが、

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

という、我を忘れ寝食もページも本も忘れ内容に没入沈潜してしまう、まさに《つれて行かれてしまう》ところの、おもしろいにもほどがあるぞと言いたい超絶名著である。この、読み飛ばせる段落が無くて困るとすら言いたくなる、科学思考のいや思考というものの手本にして極意書となってしまっている名著であるが、ここまで読ませる本となると、もう『ユーザーイリュージョン』ぐらいしか思い付かない。事物や現象や人間を解きほぐしてしていく途方もなく卓抜な理論もさることながら、人がものを考え言うときにどれだけ思考パターンに汚染されるものであるか汚染されているものであるかを描き抉り抜くまさに叡知そのものの分析手腕、冷静沈着眼光紙背に徹する物の見方考えの進め方思考の暴き方、に言葉を失い気を失う。心理学の用語や理論をこそ援用していない(例えば一言もアポフェニアとかそういった用語を使わない)ものの、認知科学の所見や成果を逐一彷彿とさせる考察である。そういったものとしてはかつて安斎育郎『人はなぜ騙されるのか』(朝日文庫)などという名著もあったものであるが、しかしそこは邦著らしく、欧米言語翻訳本に比べて内容が薄すぎる。

 

この記事で疑似「日本人」「論」または似非文化論にジャブを打っておいたが(シャブではない)、今後もちょくちょくシバいたるつもりだが、そこで不図思い出したのだが、「すい(み)ません」も一義的でないものであって、ごたごた論議はするどこのどいつも、この世界一醜い文言の機能の一部しか見ていない。(例えば榎本博明『「すみません」の国』(日本経済新聞出版社)など、呆れた古色蒼然にしてすっかすかの内容、それはもうヒっドい駄著である。読んで得るものが無さすぎる。最近の本にしては珍しく本多勝一に言及している(しかも肯定的に)が、本多氏の明識明察には比べるべくもない。)まず謝罪に列島人ほどの絶対効力を知覚するような呪物崇拝・呪術信仰の世界からしてゲロヘドものに気持ちが悪いが、これはたまに言う話であって、いま、知られてない(が誰も分かって使っている)機能を1つ挙げてみると、むしろ相手にこそあやまらせたくて「すい(み)ません」を言う奴、そういう場面も多々ある。「お前があやまれよ」の意味で「すい(み)ません」を言ってる奴が、実際ある。事態が軽度のケースで、考えもなく咄嗟に出てきているスイマセンがこれだ。語・句・文とはコウイウモノダと定義することなど出来ず、さまざまな場面でさまざまな機能を示す。例えば「早よ解放してくれや」の意味での「すい(み)ません(でした)」も結構使うものである。「なんだよおまえ」の意味での「すい(み)ません(でした)」もよく聞く。「日本人」「の」「すみません」など無い。ただ様々な「すみません」が有るだけだ。つまり犬のワンワンと全く同じ。機能を有するただの音声。それが言葉。そして見るところその多くが、すまなく思っているのではなくてすまなく思わせたがっているものであり、むしろ相手をやりこめたがっている。涙を見せまいとテーブル下でハンカチ握りしめたり血が流れるまで拳にぎりしめたり精液を垂れ流したりするという行動、回りくっどいアッホみたいな行動を人間はするものだが、謝罪で攻撃するという鬱屈した陰惨な攻撃など、極度に回りくどい。きっしょ!!!(なお、エセ「日本人」論をシバいといた文章としてこの記事の最下段付近も読まれたし。)

 

さて、本シリーズで見ている動物もといヒト物のおもしろ☆ワクワク珍行動として、ドまぬけな言語使用の場面というのがやはり注目に値する。

この記事で、他人が言った言葉を引用するときに(口語文語の別すらなく)常に絶対必ずぞんざいで高圧的な命令口調で引用するバカというのがあることを述べたが、いや別に命令文に限らず万事に及んでである。例えば相手が言ったことを引用するのに「お前はどうして…なのか?」と引用するといった具合。しかも外語だったりする。それは実は「すいまんせ、…なんですかね?」ぐらいに言ってたのかも知れない。そもそもこうやって2人称をいちいち出すのがキショい。こう言われるとすぐ心当たり思い付くだろうし例など億兆も阿僧祇那由他もあるのだから、『裸でも生きる』(9784062820646)など、九九九九九九牛の一毛にすぎない。なぜ列島の現地民は、人の言葉を引用するときに、オ前ハ…ナノカと言わせたがるのだろうか。なぜそんなクソ高圧的エラそうに喋られたがるのだろうか。どうしてそこまで卑屈が大好きなのだろうか。自分がそんなにエラい人と話してたんだぞと間接的に自慢したいのだろうか。自分は精進中の「まだまだ」なひよっこなのれす^p^とヘリ下りたいのだろうか。自分の周囲にいた人々が自分に人生で成功させることになるような厳格でキビシー人たちだったと描いて思い出話を装飾したいのだろうか。何なのだろうか。もちろんぞんざい言葉で引用しても字数の節約とかにはならない。むしろ改行頻繁で原稿料稼ぎになってる。(それに、文章量を節約したいのなら、やってることが本末転倒だ。ほとんどの奴が、アホみたいに、「インターネットで調べたところ」式に、タイムスリップしてきた江戸時代人み

次回の記事に続く