地上最強のブログ

しばいてくぞ

余の訪園録 (6)

 

前回の記事から 

たいな書き方をするが、こんなん、「ググったら」と書いたら済む話だ。「2004年に〇〇社から発売された」などとバカくそ丁寧に書いてないで「2004年発売(〇〇)の」と書いたらいい話だ。世のほとんどの文章が、かったるくも無駄にバカくそ丁寧で・回りくどくて・ドンくさくて・鈍重で・アホみたいにしゃっちょこばりすぎている。それが字数のムダの元だ。認識しろバカ。)

などと言うと、だったらどうしたらいいのか、相手の台詞を敬語で引用したらいいのか、そんなことしたら自分が敬語で話されてたことになるではないか自分が偉い人だと語っていることになってしまうではないかと言い返したくなるだろう。… 阿呆!!!!!!

「」に入れて引用しなければいいだけなのである。

むしろ(当然上掲本含め)お前らはなぜいちいち「」に入れて引用するのか。お前が描いているそいつは本当にその「」内の通りに喋ったのか?一字一句たがわずそう言ったのか?現実の発話では「えー」なり「ぃや それは あれやから」なり「だから、うん、どうしても…」なりといった接続間投詞・緩衝間投詞が無数に入るし、それを除去して考えても、これまでに人類が出してきた本のなかの引用符内の通りによどみなく喋った人間などいないことが自明である。「」内の通りにしゃべる人類は存在しない。それは「引用」ではない。「会話」でもない。場面の描写でもない(お前のオツムではそのつもりなのだろうが)。

»Heut, wie ich merke, gefällst du dir sehr, mir in Versen zu trumpfen.« –
»Waren es Verse denn nicht, was du gesprochen bisher?« –

(Mörike, Häusliche Szene)

と書いて実は脱線しまっていて、というのは、「」に入れる引用だけが問題なのではなくて、「」に入れる以外の引用、「間接話法」(そんなものは日本語にはないが)で引用するときにも、オ前ハ…ナノカ式に引用しよるからである。むしろ原稿料稼ぎのクズ「」が蔓延する前まではこっちの間接オマエのほうが一般的だった(のだろう)。

よって再三、なぜ列島人種は「お前」と言われたがり、「はやく行け」と言われたがり、「これを見てみろ」と言われたがるのだろうか。引用を簡潔にするためにでは断じてない。そんなん字数なんてどんな口調で引用しても大して違いない。

とにかくだ。引用は、すべからく、「間接話法」で、《はやく行くように言っていた》・《見てみるように促して》という風にト書き・ニ書きで書けばええ話なのであり、「」など使う必要などないのであり、コノヨウニ言イマシタと述べる時に「」を使うという原始風習、「会話文」などというクソ日本語を全廃してしまえばいいのである。

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ドマヌケな発話場面と言えば、電話対応なんかしている者や窓口で客や来訪者を受付している者、つまり組織の末端で外部者との折衝に当たらされている係の者のしゃべくり、などがその最たるものだろう。ここで書いたように受け付け窓口電話口で客を相手にする者などただ対応作業をやらされてるだけなのであって権能も知識もないのだからテキトーにやってればいいのであって窮すればとっとと上に回せばいいのであるのだが、そうなのにもかかわらず、ちょっと遣り取りが混んで来たらたちまち張り切り出して責任感に紅潮し何やら組織を背負って立ち出し、客に言い返すためのあの手この手の小理屈屁理屈を編み出しはじめ、自分1人による悲壮な独戦を開始し出し、意地の意固地になってガンバり出すものである。こいつが何ぼガンバっても何も出んオツムからは何も出んのであるのに、糞もろとも腸までヒネり出さんばかりに兎にも角にも何か喋ろうとし何か意見しようとし、何をどうにかしてでも客に勝とうとし出す。そして自分の業務も就業目的も相手との関係もどんどん忘れて行きどんどん興奮に溺れ出す。そんなバカを50000人ぐらいは見て来たものである。アホというのはすぐテンパるもので、すぐ周りが見えなくなり、すぐ現実とそこでの位置取りが見えなくなり、自分が何者の何立場でそこで何をしているのかが見えなくなり、無我夢中のゴリ霧中になって言葉のグルグルパンチにブッ狂ってしまう。こうなった時にアホがしゃべっている理屈は、話の流れとも符合せず、事実とも一致しない、トニカク言ウダケハ言イイタイノダというだけのただの口角泡未満であり、いかなる内容でもなくいかなる内容にもなっていない。

こいつらが敵としてしまった目前の者に対して必死でやっている理由付けや理由の提示という小理屈作業、作話という病気状態にも似ている。とにかく何かを言おうとして懸命にものを言うのだが、その言っていることには妥当性や反省が何もない。いわば、言葉が口から突いて出てくるままにべらべら垂れ流し撒き散らしているだけ、そんなブラーブラー状態。自分が何をしているかを脳が分かっていない患者の、外見からは滑稽にすら見えてしまうような話作り、そんなモノホンの病状、そんなものと、健常者のフリして社会に潜り込んでいる認知偏狭人の日常のふるまいとは、特に違いがないとすら言える。実に、しゃべってる本人は真剣そのものだ。くれぐれも言っておくがモノホンの脳障害なら何もおかしくはなく本当は何も滑稽でなく何も責められるものではない。しかし同一症状を自他称健常者が示すのである。そらヒドいやろ。

そして、こいつらが一にも二にもなく主張し二言目には持ち出してくる言い訳と相違して、こいつらはオ客様ニゴ理解イタダケルヨウニ言葉を尽くしているのではない。キチント説明シヨウトして必死に喋りを砲射しているのではないただ相手をやり込めたいだけなのであり、自分の確信と納得を確信し納得したいだけなのである。そしてつらつら思い返してみれば、このような連中に別に限らず、例えばなにかしら誤解されたように思って訂正のつもりで言葉に狂奔し出す場面なり何なり、トニカク言ワナケレバと強迫状態になっている場面、そういった場面の万事が万事このようなのであって、そこでは我々は説明や弁明や理由提示や論議ということを出来てなどいない。己の確信確証したいことを己が確信確証せんがために我を忘れてしまっているだけなのである。それでも誤解されたままではイヤだからなどと言うのならお前は阿呆で、例えばスポットライト効果1つとっても判るように、他人とはお前のことを殆ど見てないのでありそないに関心ないのでありお前の理解納得体系に異他的なのでありお前にコミットしていないのでありお前の「本当は」などどうでもいいのである。あくまで、お前や上記対応係は自分のために必死に物狂いになっているのであって、お前はお前のためだけにふるまっているに過ぎないのである。愚を自覚しろ。

と言うと、そんなに人間はアホじゃないわそんなに自分を確証したがっているだけで相手に勝ちたがっているだけのロボットじゃないわと言いたくなるだろうが、残念ながら実にそうなのである。この記事とそこでリンク貼ってる記事で書いている問題だが、人類のほとんどあらゆる行動と日常が、他人に勝ちたいだけ・己のチカラを確信したいだけの故のものになっている。簡単に実験して確かめれる。ドラッグストアなり108均なりどこかしらの商店で通路を半分でもいいから塞ぐ形で物色していてみよう。通り掛かった人間が、必ず、こっちが塞いでいる通路にムリヤリ入ってくる。この通路を通らないと行けない所も無く、この通路を通ったら効率いい経路なのでもなく、しかもこの通路に用も無いにも関わらず、何なら素通りするだ

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けなのに、かなっらず、ムリヤリ入ってきよる。或いは、用があるフリをすらしよる(そして自分の中では、そこに特に用があったからここにムリヤリ入ったのであってこの塞いでいる人が居たから入ったのではないと思い込むのである)。これはやってみればどこででもいつでも100%観察できる不思議行動だ。面白いほど成功する。通りがかった奴がこの通路にどう見ても明らかに用が無いのが見て取れる時でも、こいつは、こちらの通路(半)塞ぎを目にすると、一瞬考えたりなんかしては、使命を思い出したごとく、通路に捻じ込んでき出して、果ては「すいません」などとホザきながらこちらに譲らせようとして来よる。別に譲ること自体は何でもないのだが、明らかに譲る必要がない、ここに用がない奴なのである。なぜこいつらはこんなことをするのかというと、他人が空間を占拠しているのが我慢ならんからである。視野内のどこであっても自分の通行自由が保証されていないと気が済まないのである。どこの馬の骨かの他人が自分の神聖なるワールドの神聖なる空間を侵しているような感じがするのである。そうして、通路を塞いでいる者を見るとただ無性にやっつけたくなるのである。相手に勝ちたくてたまらんのである。こいつらはもちろん特別な地域の特別な連中でもなんでもなく世界世間そこら中にあふれてる無数のパンピーの数人である。そんなフ

次回の記事に続く