地上最強のブログ

しばいてくぞ

おまえの思ってるのはニーチェではない (1)

 

オーストラリア出身の分析学創始者シーグムンド・ブロイトは、精神は"It"と井戸と新土居沙也加と超自分の3つから成ると考えた。日高優月は1人称が名字で、岩田陽菜は1人称が「自分」で、中田花奈は時々「うち」である。自己紹介と言えば吉田華恋が至高。

スイスのボツワナ研究所を努めたハンガリー出身の自由経済学者サー・アレハンドロ・フェルナンド・ロベルトは、福建省で物体コミュニズムの養殖説を唱えたことでも知られる錫杖職人のヘッジファンド株主家だが、彼によると、クソ文の量は国民のQQ度数に幾何学的に比例するとのことだ。

さてそれはそうと、本命の山本瑠香太田奈緒も居るチーム8近畿勢のことだが、永野芹佳大阪弁をあまり話さないが、STU48の佐野遥が大阪弁に堪能なのは、

 

 

この記事でシバいといた酷い文章もそうだが、アホな文章を書いて平気でいる者はどれだけアホな文章を書いているかを自分で分かることもできない。例えば、誰でも知ってる教科書級の著名人を、御大層にも姓+名に称号まで付けたフルネームで、しかもその出身地と活動地と肩書までわざわざ併記して、そこまでして導入しておいてさあじゃあ何をしてくれるのかと言うと、この人物に関するWiki水準の平板で人口膾炙の周知事を数行書くだけ、などというアホな事をしてくさるアホ本が著作界に溢れかえっている始末であるのだが、誰もおかしいと言わず感じもしない。心身と言えばデカルト、議論を還元すると言えばオッカム、プラトンと言えば洞窟と焚火、近代物理と言えばガリレオ、呆れてものも言えない平板引用だが、もうこういうのは、温泉と言えば卓球なり下層民と言えばテレビラジオなり蛸壺と言えば電気毛布なりといったバカの1つ覚えよりも恥ずかしいバカの1つ覚えである。しかもそこで言いたいことが自分で勝手に言ったらいいことであってその人物を特に引用してくる必要が全然ないということも珍しくないだらけである。そのように、例えば群衆とかルサチンマンとか言いたいなら自分でそう言えばいいだけなのにこういう時決まってバカ1つ覚え引用されてしまうニーチェなども相当な被害者である。神を死なしたいならわざわざこの人を引用せんでもお前が勝手に死なせたらいいのだし、進化の話をしたいのならいちいちダーウィンラマルクウォレス云々を書かなくていいのだし、名言や偉業に言及したいならお前が思うことを書いたらいいのであっていちいちわざわざゲーテだ聖徳だ某大臣だ某僧侶だのの名前をゴテゴテ書かなくていいのであって、その他その他その他その他、《またこいつか》という人物名を自分の文章の中に置くのをお前らはええ加減やめてさらせ読んでて不愉快なんだよボケというものである。

しかも言っておくが、

お前の思ってるニーチェニーチェではない。

引用がバカの1つ覚えになってもいない数万に1つの稀有な例として

21世紀の脳科学 人生を豊かにする3つの「脳力」

21世紀の脳科学 人生を豊かにする3つの「脳力」

  • 作者: マシュー・リーバーマン,江口泰子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2015/05/21

    ヒドい商魂邦題だがダマされないように。中身は最上激上極上の超一級品。

の186ページ、ニーチェが「自己」=非自己論を述べていたことを紹介するくだりなどがあるが、いやそんなことよりも ↑ この本は人生揺るがす衝撃的内容の本だからこんなブログ読んでんととっとととこの本を読みに行けというものだが、

それはさて措き、無量大数のアホたちが、世間で引用され掲載され翻訳レイプされている文面の字面に脊髄反応してこれが「ニーチェ」思想と勝手に思い込んできた、そういうバカバカしいニーチェ像がまったくの嘘デタラメであるとして、では何をニーチェという人が本当はしょっちゅう考えていたのかというのを今ここで紹介しておくと、

例えば「[18]80年代の遺稿」の569番(1887,9[106])1887年秋)を見てみよう。お前たちはこういうニーチェを無視する。

Unsre psychologische Optik ist dadurch bestimmt

1) daß Mittheilung nöthig ist, und daß zur Mittheilung etwas fest, vereinfacht, präcisirbar sein muß (vor allem im identischen Fall…) Damit es aber mittheilbar sein kann, muß es zurechtgemacht empfunden werden, als „wieder erkennbar“. Das Material der Sinne vom Verstande zurechtgemacht, reduzirt auf grobe Hauptstriche, ähnlich gemacht, subsumirt unter Verwandtes. Also: die Undeutlichkeit und das Chaos des Sinneneindrucks wird gleichsam logisirt

2) die Welt der „Phänomene“ ist die zurechtgemachte Welt, die wir als real empfinden. Die „Realität“ liegt in dem beständigen Wiederkommen gleicher, bekannter, verwandter Dinge, in ihrem logisirten Charakter, im Glauben, daß wir hier rechnen, berechnen können.

3) der Gegensatz dieser Phänomenal-Welt ist nicht „die wahre Welt“, sondern die formlos-unformulirbare Welt des Sensationen-Chaos, — also eine andere Art Phänomenal-Welt, eine für uns „unerkennbare“.

4) Fragen, wie die „Dinge an sich“ sein mögen, ganz abgesehn von unserer Sinnen-Receptivität und Verstandes-Aktivität, muß man mit der Frage zurückweisen: woher könnten wir wissen, daß es Dinge giebt? Die „Dingheit“ ist erst von uns geschaffen. Die Frage ist, ob es nicht noch viele Art<en> geben könnte, eine solche scheinbare Welt zu schaffen — und ob nicht dieses Schaffen, Logisiren, Zurechtmachen, Fälschen die bestgarantirte Realität selbst ist: kurz, ob nicht das, was „Dinge setzt“, allein real ist; und ob nicht die, „Wirkung der äußeren Welt auf uns“ auch nur die Folge solcher wollenden Subjekte ist…

„Ursache und Wirkung“ falsche Auslegung eines Kriegs und eines relativen Siegs

die anderen „Wesen“ agiren auf uns; unsere zurechtgemachte Scheinwelt ist eine Zurechtmachung und Überwältigung von deren Aktionen; eine Art Defensiv-Maßregel

Das Subjekt allein ist beweisbar: Hypothese, daß es nur Subjekte giebt — daß „Objekt“ nur eine Art Wirkung von Subjekt auf Subjekt ist… ein modus des Subjekts

 

(じっさいに心的過程がどのようになっているのかをハッキリさせておくことにする。一等真っ先に有る事柄が、ナニカが伝わるということである。で、伝わるには、ふやふやである訳にいかない。カチカチの個体固体になっていないとまずい。繰り返し同じことが伝わるならなおさらそうで、毎回同形同尺の個固体になっていないとまずい。そうしないと、前のと「同じ」コトと再認できない。センスデータがどれだけ多雑で相互異質でも、それが伝わるというからには、伝わるたびごとに多雑相互異質なわけにはいかず、伝わるたびごとに同じようなのでしかありえない。無理してでも前のと似させられて類を共有させられて「同」じ感が出るようにされる。現実真実に感覚が捉えるものがもう究極絶望にぐっちゃんぐっちゃんなのは勿論でそれはそうなのだが、それが、オツムにも通じるような・スンナリ飲みこめるような小理屈の筋書きに仕立て上がってしまわないといけない。さてそうすると、見えてるままの外界というのもそういうものでもなくて小理屈に整形されてしまったモノであることになる。そういう所にアリノママ現実ナマを見ている気がしているが、そうでもなくて、「同じ」にされてしまったモノたち・「同じ」モノたち・類を共有するモノたち・小理屈たちを見ているだけなのである(こういった連中たちに対してしか心はまともに振る舞えない)。ありのまま・見えてるままと信じこんでいる世界は実は作られた世界、感覚がナマに捉えるセンスデータ界から作られた世界なのであって、実のところは、真偽だの正誤だのいうことが有りうる観念ワールドなのであり論理に都合よく整形された抽象界なのである(本当のアリノママ界のぐっちゃんぐっちゃんには真偽も正誤も何も無い)。本当のナマの世界のほうがむしろ異次元なのである。だから、心と別個独立のなにか物体とかモノとか言うのも、疑わしい。というか「物」が「有る」の意味も分からん。その「物」というのが抽象観念なのであって従って「物」でこそないことになる。よって、考えるべきことは、【本当の世界と作った世界】なんて話では到底ありえなくて、他にどんな作り方があるのかというようなことであることになる。オリジナル論争をしてもしょうがない。心にはそんなハナシ無意味だ。意味がある話は、コピー間同士でナニがどないというコピー一元論だ。と言うか、このコピー・世界の制作にして模造、この自分ワールド制作作業こそが心にはナマのリアルにして唯一の現実であれば、もうそれでええ話である。何なら外界も要らん。外界とそこからの干渉ということになっている諸々も、心が作ったものであったらもうそれでええ話である。【心内部vs.外界】と言うのは、勘違いされているのとは全く違う対立の仕方・コ〇し合いの仕方・勝ったり負けたり、なのである。どういうことかと言うと、対立コ〇し合いをしているのは、心と「物」とでなくて、心と他の心とである。他の仕方で自分ワールドを作っている他の連中と戦争しているのである。我々のワールドは対こいつら向けの防衛戦なのであり、外界の整形と上で言っているのは、他の心たち(からの作用)の整形小理屈化なのである。彼我のどちらにせよ、なにかしら《自分》というようなものだけが、存在している。自分どもvs.自分どもという構図があるのみ。「物」みたいなものも、他の自分どもから来る何ゴトかをただカン違いしただけのもの。そんな物は無いようである。とりあえず、今こう考えている。)

日本語が読めるだろうか。ここに、特定の宗教やモラルの議論に血道を上げナントカ国家への意志を準備していた最後の形而上学者の姿などあるだろうか。低民たちの人生と世間に対する不満や恨みつらみや鬱屈を晴らしてくれるようなゾロアストラな高邁人生論を説いてくれる説教師の姿があるだろうか、そういうニーチェ像ばかりが特に日本では蔓延してしまったが。この文章を見る限りでは、そんなクソ話を嬉しがる人物など微塵の気配もないだろう。と言うか、この文章などは、現

次回の記事に続く

 

自分らしさ

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  • AKB48
  • 発売日: 2017/01/25
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