地上最強のブログ

しばいてくぞ

文学の主人公 (3)

叙事詩とショートストーリー

 

前回の記事から

「グロ」テスクにかまけて主人公の行方を見失っていたが、話を戻すと、グロテスクなまでに己をさらけ出している主人公の姿をシリーズ第1回で見てたのだった。そのような主人公として、日本の我々としては、私小説ジャンルなどを思い出したいだろう。自宅でそろそろ風俗に行こうかなと思っていたんですが。

文学作品で、主人公の高尚さが、神話の高みから1000~3000年かけて下落して来た。むしろ、大方が、下落した主人公の近世近代現代小説をこそ「文学」と認識しているだろう。現代日本で売文用大量生産のエンタメ小説お花畑小説が「文学」扱いされている状況で文学史の話もあったものでないかも知れん。

典型的な主人公と言って古典古代ではそういうのが主人公だった。例えばWikipediaFrançois Léon Benouvilleのページで見れるようなアキレス、François Léon Benouville, La Colère d'Achille (1847), Montpellier, musée Fabre。怒っているアキレス、ホメロス叙事詩の主人公。全てが無欠の半神アキレス、このような凡そ弱さといったものの片鱗も無い主人公など、現代の感覚ではサイボーグだろう。それが叙事詩文学というものなのだが、それは、

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

  • 作者: トールノーレットランダーシュ,Tor Norretranders,柴田裕之
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2002/09/01

『神々の沈黙』を解説しているくだりを読んだら分かることなんで措いといて(『神々の沈黙』自体はおもろない。『ユーザーイリュージョン』は全ページ最高に面白い)、ただ現在だと叙事詩と看做される(episch)作品でも主人公が無感情・無意識のサイボーグではおさおさない。なおこういったキャラ、北欧神話なんかだとわんさか居る。一部挙げると:

ヘッベル(Friedrich Hebbel, 1813–1863)の戯曲『ニーベルングの人々』の「仇討つクリームヒルト」第3幕第3場より

ETZEL.: „Denn sieh: Es sind drei Freie auf der Welt, / Drei Starke, welche die Natur, wie's heißt, / Nicht schaffen konnte, ohne Mensch und Tier / Vorher zu schwächen und um eine Stufe / Herab zu setzen – “
KRIEMHILD.: „Drei?“
ETZEL.: „Der erste ist – / Vergib! Er war! Der zweite bin ich selbst. / Der dritte und der mächtigste ist er! /
KRIEMHILD.: „Dietrich von Bern!“
(「アンチェインが居るよな、3人。こいつらが生まれたせいで全生物が1ランク下がったって言うだろ」「ってえと …」「ジークフリートだろ。死んだけどな。次がエッツェル、俺だ。で一番強えのがあいつ」「勇次郎かよ」〔強調原文〕

アキレスやジークフリートアエネアスという連中、主人公にして作中最強無敵なのだが、ヘッベルの戯曲ではこのジークフリートを超えるキャラを用意してる。やっぱドイツ文学て心くすぐるな。じゃなくて、北欧-ゲルマン神話叙事詩ソースの宝庫だという事だ。指環。ただ、『ニーベルングの歌』の主人公は男ではなくてクリームヒルトである。これは常識。男ではなくてティナである。もっと常識。

自分からすれば叙事詩と言うに値するのは『ゴッド・オブ・ウォー』シリーズだったりダークナイト三部作だったりであって、大河小説やロシア文豪小説ではない。そんなくだらんもん要らん。日本でなら山崎豊子『沈まぬ太陽』こそ叙事詩たる叙事詩である(主人公の命運がオデュッセウスのと酷似)。あと、『火の鳥』なり『風の谷のナウシカ』なり、漫画だと叙事詩が豊富。叙事詩の定義なぞ千差万別だから詮索しても仕方なく、例えばこんなんがある。このリンク先に書いた叙事詩定義からすると、『ゴッド・オブ・ウォー』(特に「アセンション」)などこの上なく叙事詩である。いずれにせよ、どういった場合でも、近現代叙事詩では、苦悩する弱い有限存在者が主人公。

で、有限の主人公が凡庸な読者と全く同じ目線・位相で日常世界の一幕に映るという傾向の極に有るジャンル、特段格別有限的で非恒久的・反-普遍性と言えそうなジャンル、ショートストーリーという文学ジャンルが有る。

short storyとは、(古くはアーヴィングの『リップ・ヴァン・ウィンクル』が該当するが、)ポーから、Sh・アンダーソン、O・ヘンリー、H・S・ルイス、フォークナー、フィッツジェラルドヘミングウェイ、H・スレッサーといった北米合州国の小説家が展開してきた文学の一領域である。特にポーはショートストーリーの創始者とされるのが一般的であり、この文学的手法に明示的に理論的根拠を与えている(有名すぎるし興味ないからggrks)。

ドイツ語圏では、1886年Deutsche Rundschau誌でA・E・シェーンバッハ(Anton Emanuel Schönbach, 1848–1911)が、(以下これの197頁~)英の「short stories」と区別しつつ米の「kurze Geschichte」「Novellette」に言及、シュティフター(Adalbert Stifter, 1805–1868)レントナー(Joseph Friedrich Lentner, 1814–1852)フォンターネ(Theodor Fontane, 1819–1898)ローゼッガー(Peter Rosegger, 1843–1918)の小品を想起しながらもこういったドイツ語文学短篇小説が「どだいコンパクト長編」なのに対して米の「short story」が実(際)生活・等身大・断片・些事・他愛ない一幕・登場人物少人数が特徴的であると述べる。観察しているものから何かをキラリと描き出してくる手法、要するにその場的気分が全て、習作・スケッチというのが特徴だと言う。と言うことは、近世から現代まで連綿と続いているドイツ語圏短篇小説、暦物語(Kalendergeschichte)、ノヴェレ作品の数々、H・v ・クライストのが際立ってる逸話物(Anekdote)、などが、ショートストーリーとは言えない事になるようだ。一方で、ホルツ(Arno Holz, 1863–1929)J・シュラーフ(Johannes Schlaf, 1862–1941)の『或る死』、ヘッベル(Friedrich Hebbel, 1813–1863)『牝牛』、ビューヒナー(Georg Büchner, 1813–1837)『レンツ』、クライスト『ロカルノの女乞食』、E・T・A・ホフマン(E. T. A. Hoffmann, 1776–1822)『騎士グルック』、ゲーテ『ドイツ亡命者の談話』などをドイツ語ショートストーリーの伝統に連ねてきた歴史もある。

Klassische Deutsche Kurzgeschichten

Klassische Deutsche Kurzgeschichten

  • 出版社/メーカー: Philipp Reclam Jun Verlag GmbH
  • 発売日: 2003/04/30
  •  
  • ってことがこれの317頁に書いてある

ところでそうするとカフカの神話改変物、『伊勢物語』、モーパッサン、等々々はどうだろうか。日本では、ショートストーリーよりも更に小粒のいわゆる「ショートショート」が優勢なようだが、しかしそれ以外に、分量も作風もショートストーリーとしか言えない作品が数多くある。そういった物もどっかでいつか考察するであろう。

次回の記事に続く

 

痺れる (光文社文庫)

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