地上最強のブログ

しばいてくぞ

アウトプットせんかい

 

嘘を見抜く云々などクソどうでもいい話だが、とにかく、はびこってる誤情報・妄信・神話と違って、嘘を見抜ける事などあるわけ無いこと、ずっと言われてきたことである。人間こんな話が大好きだから《人が何を考えているか分かる(かどうか)》云々も大好きだが、これも、分かるワケがない。

人の心は読めるか?

人の心は読めるか?

  • 作者: ニコラス・エプリー,波多野理彩子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2015/01/23

自分の中のことは外に出さないと何が何でも金輪際伝わらない。察しも伝心も、存在しない(あると信じたがってる阿呆が存在しているだけ)。自分の中でどれだけ強く熱く思っているつもりでも、どれだけ千々の想いを重ねても、どれだけ黒々と呪いを溜め込んでも、どれだけ眠れない夜を過ごしても、アホの1人相撲にしかならない。言葉にしてしまわないと、言語に乗せてしまわないと、お前のその内面ちゃんは、未来永劫、存在してないに等しいほど、中から外に出ない。し、誰も出してはくれない。しかも反対のケース、自分には分かっていることと、お前と違う自我人格世界にある他人に見えているもの、これらが違うということ、これもまた、大方がワカっていないのである。そうして、自分にはわかってるから自分の中では自明で片付いているから、伝達をサボり説明をハショりして、伝わってないまま、今日も1人よがり。ならまだマシなほうで、自分だけが分かってる自分だけ納得状態でウレシそうに調子乗ってペラペラしゃべって書きこんでしているが周りから見るとアホにしかなってないという奴、おりすぎて困るぐらい居るだろ。自分ランドの中でハシャいでるだけのバカ。1年で1億回は経験する人生喜劇だが、ほぼ誰も自覚しておらず、被害者が加害を、加害者が被害を、相も変わらず生み出し合い塗りたくり合っている。我々の中は中に過ぎず、中から外に自分が、もっかいゆうぞ、自分が出そうとしない限りは、その中のものは、誰にも、見えず感じず知れない。であるがゆえに、ひるがえって、嘘を通すことが常に誰にも完全に可能である。外に出していない限り中は断じて分からないのだから。察してもらうという事態が存在しないのと同様、見抜くという事態も存在しない。その近似値現象がちらほら起きるぐらいだが、それでも、共感力()の高い低いがあるのではなくて、察した・見抜いた者がたまたま有利なコンテクストに居たというだけのこと(または作り話)に過ぎない。

ほっとっても中が外に出るという能力は人間には無い。そんな奇跡もそんな権能も誰にも無い。逐一言葉にせえ。喋れ。

(ただし真相から言えば以上の言い方には問題がある。自分の内面の状態を自分だけが熟知しているワケでもないからだ。内面てのは、他人(+他人としての自分)が何を考え感じているのかということを知識として学習してきたその学習内容から都度都度構成している社会的フィクションである。既製のものの学習。新奇なものの創造など無い。内面とか内「心」とか総じて心というのは、他の誰のものとも同じであるところの配布アプリなのである。お前の秘密・お前のファンタジー・お前のアナーキーは、誰にでも思い付くようなものなのである。ただ、これで言えることは、自分の内部・自分の思想・自分の感性が世界に1つの独特なものではまったくないしそんな奴は居ないということ、孤独などというものは存在しないということ、である。何を孤高にカッコつけようが早晩公共知に判定されてしまうし、他に無い内面なんて存在しないからどんな「特殊」個人でも公共知に診断されてしまう。一方、他人と結局は相同のものではあるにしても自分の中ってのがアリアリと有るということ、このことには、何の間違いもない。最終的には完全透明なのではあっても心たちの内-外構造が有ること自体、この構造自体は、揺らがない。箱の中に何が有っても結局大したものでないにせよ、箱を閉じておくことは、出来る。)

ということが、インプットだのアウトプットだのの問題とつながる。結論から言うと、もうインプットはいいから!!ということである。

世の中には、来る日も来る日も万巻の書を読み、倦まずたゆまず克明丹念にあの論争この理論展開を追い・ノートを付け・付箋を挟み・あの見解この見解を比較考量し、人間辞典な博学を持って聞こえ、打てば出ぬ音色無きが如くよろずの分野に通じ、それでも足りぬとばかり今日もチンチンと時の部屋に籠もる、碩学俊英の人士が有る。… 何とオメデタいのだろう。こいつが確信している勘違いは、まず知識の置き場所問題から見てそのオメデタさが露呈する。記憶や知識がどこにあるか、《今日の朝食》が脳内のどこにも無いのにどうして思い出せるのか、記憶や知識の貯蔵庫が宇宙のどこに有るのかというと、そんなものは貯蔵されるものではないというのが答えである。想起現象が有るだけ。想起能力だけが《記憶力》。それは、溜め込み力(りょく)ではない。知識は、お前の中には溜まらない。ではどうしてるのか、知識とは、冗談抜きで、書いてあることを想起して来ること、これに尽きる。お前の中には悪魔で脂肪やタンパク質しか無い。知識は、ウィキペディアに書いてある。「百科()」に書いてある。新聞に書いてある。石板に書いてある。NANDメモリに書いてある。冗談でない。博学の士よ、お前の知識は、お前の書棚の本の中に書いてある。それをお前がどれだけ思い出して来る(referieren)ことが出来るかというのが、「知識」だ。お前は何も蓄えれない。

また、何よりも、人間は、覚えたシリから忘れてゆく。この話は、カロリー確保よりもカロリー排出、摂食よりも排便のほうが大事という話と似てるが、人間の知的能力というのは、入ってきたものをどれだけ捨てられるか、勉強した中のクズをどれだけさっさとクズと検知して排出できるか、どれだけ物の見事に忘れれるか、どれだけ上書き保存できるか、にあるということである。「記憶」に関する真の能力は忘却力であって記憶力ではない(ただの脳の病気による信ジガタイ記憶力や或いは大変な成果を上げる記憶術訓練法などなどに驚嘆するのは、ものを分かっとらんアホなのである)。つまり、膨大な読書量とは、膨大な大便量である。お前は読んだハシからクソ垂れてってるのである。速読は速糞でしかありえない。わかったか!!!!!

また、アウトプットつまり自分自身が発信し発言してゆくとか、そこまで行かなくても日記書くとか、そういうのをしていると、インプットのほうも能力が著しく向上してくるものである。これには、発信者の都合や理屈や論理が分かりやすくなり、そうしてインプットしているその情報の都合や理屈や論理が分かりやすくなるからといった要因がある。さらに、知覚とは実は行動であるように、受け手となることは同時にこちらがアクションを起こしていることでもある、という神経構造上の要因が有る。なんぼ熱心に鋼の意志で吸収しようと意志しても、なんぼそんなにふんばっても、自分もまた身を乗り出している・自分もまた操作者であるという構えがないと、ろくに吸収できない。一言でいうと、知識を使っていると知識を使いやすくなるのである。

知識がどんだけしょっぼいミジメなものなのかが理解できただろうが、しかし何故こんなようなカンチガイが立派なものと(本人以上に周囲の愚衆が)信じているのか、3000年も8000年も信じてきたのか、と言うと、《自己を完成》するというカルト信仰のゆえだ。完成した・実現した・世と調和した・仁徳を体現した・「聖人」の・礼節知り足るを知り居所に納まれり、そんな「自己」、そういうトロフィーを手にとって愛撫したいというオメデタイ欲情が、有るからだ。そんな風に個人が完成に向かって磨き抜かれていくことは、無い。それがほんまなら、完成元年までのそいつが無価値だってことになる。いや、何歳だろうと何段階だろうとそいつはそいつである。

Wir sind allzumal vollkommen! Denn wir sind jeden Augenblick Alles, was Wir sein können, und brauchen niemals mehr zu sein.“(Max Stirner: Der Einzige und sein Eigentum

その時々の現れが全てである。

左様、もうインプットはいいから!!さっさとアウトプットせえ!!!ということである。延々とインプットにいそしんで、読書陛下にぬかづいて畏れおおき知識様を溜め込んで、それで満足するのは、自分だけだ。自分の中が膨れ上がるだけ。

Hier genoss er seines Geistes und seiner Einsamkeit und wurde dessen zehn Jahre nicht müde.

Friedrich Nietzsche: Also sprach Zarathustra, Zarathustra’s Vorrede 1

次に、何ひとつとして、自分の中に溜め込むことは、出来ない。読んでも読んでも、お前の内面が磨かれていくという事態は、存在しない。朝食の白米様と同じく知識様もお前の中には入らない。インプットというものは、実際には、されない。

白米様

白米様

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2016/07/20
  • メディア: MP3 ダウンロード

次に、どれだけのモノになった(とお前が信じてる)お前であっても、その溜めた(はずの)物を外に出さない限りは、純然無駄である。誰にもお前のスゴさは見えない。だから大体こういう人士はスゴくは見えない。こういう、すべてを痴る者にして認識の境地に達した人物こそ重みのある寸鉄一言を口にし…云々といった光景は、マンガにすぎない。そんなヤツおらんしそんな場面無い。この人士は、うだつのあがらんオッサンというのが関の山である。そう、蓄えた能力も彫琢した内面も、外に出していないと、表出して目に見え手に触われるようにしていないと、表現にもたらしていないと、伝わらない。いつまでも大したものに見えてこない。いつまでも「成果」が出て来ない。宇宙の誰もお前を登録してくれない。(そして、大したものになるつもりも・「ひけらかす」つもりも・スゴい人になるつもりも見えるつもりもないよというお前の自分に対する嘘は聞いていない。)

一方、中から(aus)外(außer)に、外-表へと(äußer)向かって・表の陽のもとに出している(drücken)なら、外表に表-出している(ausgedrückt)なら、表-現(Ausdruck)しているなら、中が外に(ex)出させられている(press)なら、文字通り自分が目に見えるものになる。表現せえ!!!!!! そして自分の中がなんぼのもんであっても、それは、(そもそもまず、知識自体である物体テキストへの参照力であって「なんぼのもん」でもないのだし、)表に出ている限りそうであるに過ぎない。周りからは、お前の外しか見えないし知覚できない。逆に知覚できる外への表出・表現をしていればしているだけスゴさが見えるし、或いはまた、スゴく見える(ペーペルコルンの問題)。誰もがそうであった。宗教開祖が大したもんなのは、ぎょうさん喋ったからだ。こいつらがどんだけ的立派で悟達の境地に達した奴でも、喋らんかったらチンカス鼻糞だったし、しかも、喋っただけで書いてはいない分だけ、明らかに鼻糞である。書いたプラトン、書いた儒者、書いたパウロ、書かれた三蔵、のほうが業績が上である。断定する。一方こんな奴(←1文字も読んでないが)がなんぼおっても、勝手にアタマ膨らまして勝手に埋もれてくオメデタイ阿呆である。いや、自分発表する手段がぜんぜん無かった「昔」(というただただ最悪の時代。21世紀に生きててよかった!!!)と違って、現代では表現方法に事欠かない。アウトプットしたい放題だ。いやインプットにしたって、現代は、「写本()」だの「貸本(爆)」だの「経文(失笑)」だの「写経www」だのやってた穴居原人時代ではなくて、情報の洪水情報食い放題情報バイキングの時代である。例えばアホー知恵袋見ると、よくまあこんだけのこと考えてたな・見抜いてたな・整理できてるな・詳しく知ってるな・頼もしいなという奴がワンサカ居る。想像だけで言うが、こいつらの大多数がじゃあ普段何をしてるのか、その頼もしい知識を伝えるのに精を出しているのかと言うと、まったくそんなことはないだろう。スレ立ったから書いてみたというだけだろう。あのな、はっきり言って、気まぐれ知識人は、閉じ込もり知識人よりタチ悪いぞ。知ってんのなら喋れ。書け。そこの溜め込んできたお前、発表しろ!!!!!

(こんなことを考えてみよ:いま896頁の本が有って、これを隅から隅まで舐めるように読みつくした上で適切にも245頁と612頁から引用して来れるAが居る。かたやBが、当245頁・612頁だけそこだけを読んでこの頁から引用して来れているとする。わかるか?外見上はこの2人の仕事は同じなのである。Aがどんだけインプット頑張ったかも、Bがどんだけなーも頑張ってないかも、他人からしたら、どうでもいいことであり、見えない触れない他人の内面・他人の歴史・他人の御苦労なのである。他人には、アウトプット【245頁と612頁からの引用】しか見えない・現れない・現象しない。言ったもん勝ちならぬアウトプットしたもん勝ちってことを考えろ。ってかな、これだけは覚えて帰れ、結果がすべてだ。 体に関してもな。)

という現代、もちろんSNS的なもの全般にも言及しなあかんが、この手の媒体は、内輪に閉じたがる点では劣等媒体である(そうでないなら別)。内輪で回覧してるだけなら、どんな情報も無価値。何なら、カンチガイ昂じた人類が知識を秘儀にしてた時代、この旧人時代とやってること変わらんとも言える。何故こんな内輪バカが発生するのか。そも人間には、発表本能・書いておきたい欲求・聞かせたい欲が有る。他方で、およそ公表というものが《恥ずかしい》というのが有る。2つを両立させようする。だから身内にだけ公表して満足にしておく。心の奥底の根底では全然満足してないにも関わらず、《恥ずかしい》が勝ってしまう。しかし限定公開情報は値打ちが下がる無価値である。(実際にそうなってるかとかいう問題じゃなくて形として)世界全土全員向けエンコードをしてる発表でない限り、ちょっとでも内輪的になってる限り、表現というものには、価値が無い。それは自分のためだけになってる。かたや、誰も知る通り、表現者とは、恥ずいのを克服してきている。いつの世どこの誰に見られても可、でやってる。表現者ももちろん自分のためだけにやってるのだが、やってるのであって、自分のためだけになってはいない。ましてや、知識の公表など、てめえの顔も公開せんで済んでる安全無難なものである。知識のアウトプットほど閲覧鑑賞上等、肖像権放棄、全世界公開で出来るしそれでやらないと何の意味もないものも、他に無い。21世紀に密儀やっててどうする。さっさとアウトプットしろ。それも、どんどんしろ。その割合となると、

インプット1アウトプット99でいい。

お前が周到入念に準備するまで世界は待ってない。お前が読書沈潜し・沈思黙考し・考究省察なんぼしたかのお前の満足は聞いてない。とっと表に出せ。《練れてない》《中途半端》《推敲の余地がある》《時期尚早》などというのは、クソどうでもいいし、考えなくていい事である。コンナモノデイイノダロウカ・コンナ若輩ノワタクシナドガとぐだぐだやってるバカのほうが迷惑である。どっかでケツ蹴られて来い。とっとと喋れ。書け。述べろ。綴れ。突っ込め。更新しろ。送信しろ。どの段階にいるのだろうと、(永遠に来ない)「完成」マデホド遠イのであろうと、お前が表現表出発表したそのそれは、それはそれでそのそれである。お前以外の人間がそれをどう取るかはお前の知ったことではない。放たれたモノがどこに落ちてどんな波紋作るかはもうお前の手を離れてる事柄だ。それにぐだぐだうじうじビビんな!!!お前が表現表出発表したそのそれは、もう現れてもうとる。現れてるものがすべてだ。「本当は…」云々を一切ぬかすな。それが全体の視座から見て・「発展の段階から」見て・連関の中の意義に関してナニでなにで何なのかは、受容側が判断して社会が作ってく判断だ。勝手にさしとけ。(よう聞け、Xについて言われたことは、言われたことにすぎず、X自体とは永久に関わらんし、何よりも、ただの言葉だ。これが「評価」「評判」の全正体だ。評価コメント採点採用してくさってくる神様気取りのアホどもはそういうアホに過ぎん。ほっとけ。)とりあえずお前は、アウトプットしとけ。わかったらそのクズ本捨ててこい。すぐ書き出せ。世に問え。表現せえ

こう行って来ると、インプットの蓄積あってこそ内容豊かなアウトプットが出来るのだよ、暴論も甚だしいよ、そんならネット落書きだって何だって書いた者勝ちということになるではないか、と思うだろう。もちろん、暴論を、《ひたすらインプット》馬鹿へのクスリにするつもりで書いている。とはいえ、気持ちとしては飽くまで「インプット1にアウトプット99」である。これは気持ちだ。確かに、自分を表現していくことの初めにまずインプットがあるだろうが、それはそこそこにしとけってことである。飽くまでアウトプットありき前提でのインプットをせえ(この記事参照)。要点はとっととアウトプットに取りかかれということだ。アウトプットが基本で優先で大前提という人生にしてしまえということだ。インプットは勝手に必要になってくる。蓄積なんて勝手にしていってまうようになる。ただそこで、受験なき科挙のごときバカになるなということだ。 

ボーダー

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  • 乃木坂46
  • 発売日: 2015/03/18
  • メディア: MP3 ダウンロード