Hüten wir uns zu glauben, daß das All eine Tendenz habe, gewisse Formen zu erreichen, daß es schöner, vollkommener, complicirter werden wolle! Das ist alles Vermenschung! Anarchie, häßlich, Form — sind ungehörige Begriffe. Für die Mechanik giebt es nichts Unvollkommenes.
(Nietzsche, 1881,11[205])
(何であれこの世のものは何かに成るものだと思ってしまう。物事や人間が何かの方向に向かって進んでいてやがて前よりもイイものになってゆく、そのようになっているしそのようであってきたと、思い込んでしまう。それはお前の中限定の妄想にすぎない。良いだの悪いだの合ってる合ってないだのダメだの好きだの云々すべてが、一切意味のないタワゴトである。宇宙は構造にすぎない。構造にいいもわるいもクソもない。
ニーチェ)
動画やウェブ記事は飛ばし飛ばし見る。コンテンツ全部を見てるヒマがない。なぜ本にもそうしないのか?なぜ本のコンテンツは早送りしたらあかんのか。いや早送りどころか、本なんてのは、中身は読まなくていい。最初の1文字目から最後の1文字目まで読んでやるモノではないどころか、本は、いかに読まないかで考えろ。
全ページ舐めるように読んでると、「謝辞」のような読者と無関係のクズまで読まされることになる。まず「謝辞」「献辞」「ささげる」等を破り捨てろ。次に、各章の要約を破り捨てて(ところで、論文の「要旨」「要約」というクソ慣習を廃止しろ)、「はじめに」「まえがき」序文緒言を破り捨てて、訳者あとがきも解説解題も破り捨てて、あとはスキャンして、残ったその紙くずは、捨てろ。何なら本文もいらん。目次だけでいい本ばっかだ。本をありがたがるな。本などという単なる媒体、用が済めばゴミにしかならんゴミを心から有り難がれて、《本が好き》だなどという気持ちの悪い醜悪趣味に走れれて、本を聖化して物神崇拝してしまえれる偏執病がある。
書店・図書館に行けばビビるんだろ。星の数ほど本があるが、ごみの数だけと言ったほうが早い。字と紙言葉・言葉・言葉にすぎない。喋るだけなら誰でも出来る。本なぞ、喋った吐いた・ゲロった記号の堆積に過ぎない。本にビビんな。具体的に言うと、読んでやる・吸収してやるに価する箇所を見つけるのにページ嗅いで回るというのが本の唯一の使い方だ。自分にとって読むに価せん箇所の全部がゴミだ。燃やしとけ。(もうちょい読み方を言うとくと、まえがきのクズを飛ばした最初の章の2~3頁を舐めるように丁寧に読んでそれで心底つまらんかったら、お前には合わんものだと言える。捨てろ。また、なるべく中身を読みたいがブ厚くて厄介なのなら、最後の章や途中の章から虫食い的・ゲリラ的に読んでけ。)デカルトなんぞ読まんでええ。シェイクスピアなぞいらん。ドイツ文学なんて一切読まんでええ(特にゲーテ・シラー・ハイネ・ヘルダーリン読まんでいい)。漱石鴎外康成荷風芥川志賀紅葉、その他その他ぜんぶ不要。露文学なぞロシア人だけに向けて書いたものだ、国内から出てくるな。万葉古事記細道源平竹取伊勢膝栗毛から何から、その中に描かれてる人間・風景・心情、どっかの宇宙人たちの話だ。いらん。聖書?孔孟?老荘?コーラン?千一夜?仏典?見聞録?梵語?経典?全部いらん。ちんこ拭いとけ。まして装丁・紙質でボッタくってるだけの現代日本語の単行本なぞ、その何千万冊が、なにもかも全部、ケツを拭く紙にもならん。中身スッカスカ。早送りゆうなら500倍速で付き合ったれ。
ゾフィー大公妃支援のゲーテ全集が143冊になる。エピクロスが300冊の本かなんかを著わして残っていないが(要らん)、シュタイナー全集が354巻になる。100巻の『自然真営道』も僅かしか残っていない。要らん。ハイッデガー全集が102巻だが毎年増えているそうな。フッサールの遺稿が4万「ページ」(?)というのがググればなんぼでも出て来るほど有名。他、3750万語の日記のロバート・シールズ(Robert Shields)で、こんなものに付き合うわけがない。だいたい、本棚おしゃれ目的以外で全集買うやつおらん。おっても、研究用・典拠用だ。つまり利用用だ。我々としては利用してやるだけ。100も300も残してくさってるが、こいつらは書かんと気い済まんから書いただけ。(シュタイナーなぞほとんど講演だ。1年録音してりゃ誰でも354巻出せる。ジョンドゥ日記つけてたら白痴でも4万ページ書ける。)書く喋るのはてめえの為にやってることだ。こんな集成には、付き合ったらんでええ。であるのだから、本1「冊」にも付き合ったらんでええことになる。(なお、ディデュモスが3500~4000の本を書いたというのはスクリジュ・ギガンテ(Sucuriju Gigante)のような伝説的数字に見えるが、M・T・ウァ(ッ)ロ(ー)が620の本を書いたというのがリンク先に見る通りれっきとしたリッチュ(ェ)ル(Friedrich Wilhelm Ritschl, 1806–1876)による計数なのなら、実際にこれだけ書いているのなら、大変な記録である。古代人でもテオプラストスの数字が控え目で信に足りそうである。という3名のこの話、アン・ブレア『情報爆発』(9784120051104)のどこかに書いてあったことがソースであるが、もちろんこの本もほぼ全く読んでない。)
問題は自分だ。本様じゃないぞ。例えば悪について気になっているとして、フロイトやK・ローレンツあたりの糞カスよりはマシだろうかなと
なんか手に取る。800ページの大部だ、悪について網羅しているだろう、自分が悪論・攻撃論・憎悪論について常日頃考えていることに相当応えてくれるだろうと当てこむ。ところが、なんぼ読んで嗅いで回っても、ひたすらどうでもいい話をしている。例えばなぜルワンダがあったか、なぜ人は悪く感じるのか、なぜ他人に「悪意」を感じるのか、その他その他なーも分からん。(と、例えばマルコムXなら言うだろう。)しかも動物の話ばっか。人間の話するときに動物の話すんな!!上記ローレンツは固よりエソロジー系・霊長類系その他心理学・神経学・運動学でも何でもいいが人間以外の生物の話を繰り広げ出されると迷惑でしかない。そのページ全部焼いたらいい。また、近い話だが、「暴力」を題にした日本語の全書籍を見てるが、1冊残らず全部、暴力の理解にゴキブリのクソほどの役にも立たんぞ(ゴキブリのクソは役に立ってる)。そらそうで、こいつらはてめえの他者論とジェンダー論と教育論と世界平和論のお花畑に水やってるだけで、身近日常に一切触れないような、あさっての方向大気圏外に飛んでってる阿呆だからだ。世にある悪論・憎悪論のすべて、《路上の暴力》の話すら1ページも無い。
また、
- 作者: デーヴ・グロスマン,ローレン・W・クリステンセン,安原和見
- 出版社/メーカー: 二見書房
- 発売日: 2008/03/01
という商魂邦題の訳書があって、「戦争」とか「心理学」とかいう問題じゃなくて、戦闘と呼べるもの一般に於いての人体の能力全般を極めて具体的に述べている非常に参考になるものである(74ページ周辺など瞠目モノ)のだが、そういうことを述べている以外のページは何の価値も無い。特に暴力的内容ゲームや少年犯罪の増加を懸念する保守根性激臭いくだりは、ここでも書いたようにそもそも事実かどうかすら怪しい感情的な話題に感情的になっているくだりであり、まったく読むに値しない。あと、勇敢さの称揚がすべて体制側臭く、軍人臭く、何よりも、WASP臭い。ガイジンの書いたものを日本人として読むことを忘れるな。
さて、なんでお前は読んでしまうのか?形になってるものに弱いからだ(だから書類にも弱い。ハンコ文化だけが問題なのではない)。ええか、そのそれが、本でござい!バン!!と形になってるから、有難く尊く感じ、紙と言葉をご拝領たてまつり、舐めるように読まさせていただきたい気がするのである。それが形を成して迫ってくると、その本のその文章があたかも世界に存在しているのが当然のものであるかのように思えてきてしまうのである。ナントカの現象学。しかしそのテーマが現象学から捉えられるのが当然であるワケでも何でもないし、その文章がその順序通りであるのが理の必然であるワケでもなんでもない。そいつはバカやから現象学でしか料理できんのである。文章がどうしても頭に入ってこないのはそいつの章立てや筆運びがクソだからである。もっかいゆうぞ、飽くまで、「気がする」だけだ。形に仕立ててるだけで、実際はどんな本も、その時々の都合で出来たもの、あっちゃこっちゃで書いたものを寄せ集めて体裁つけてるだけに過ぎない(論集・短編集・エッセイ集のみならず何もかも)。本には物語も有難みもない、情報ゴミの山。こいつをどれほどバカに出来るかが大事。例えば、情報とはどれだけ捨てるかに意味があるという『ユーザーイリュージョン』の議論などがあるが、つまり情報とはそういうものだ。バカにせえ、読むな。そもそも、読んだことを忘れる。無情なほど、忘れる。しかも、それしか、情報の吸収の仕方は、無い。情報が通過して出て行くこと、我々は急流中の石の如しだ。通った水は何千万リットルだが、掬い上げたら、濡れてるというだけに過ぎない。速読()なんてのが有るらしい。1ヵ月何万ページ読んでも、99%流れる。多量多読ってのは、デカいクソを垂れてるだけにすぎない。要するにフードファイターだ。フードファイターは自分の消化便通をよくよく知ってるが、読んだら読んだ分だけ残ると信じてるバカは自分のクソの事も知らんようだ。おい、読んでも残らんぞ。諦めろ。(ちなみに勘違いが多いが食ったものが体になるワケではなくワケがなく、脂肪食ったら脂肪になるワケでなく、タンパク質()食うから筋肉出来るのでは全くないからな。対象筋に高強度の負荷かけるから筋繊維太くなる。それだけ。)
ただの情報の堆積堆肥だから、本を読む体験・本から得るモノてのは、他のものに於ける体験・吸収と同じである。バカ本1億冊より多く教わる・考えさせる映画がなんぼでも有る。そんなウェブ記事だって有るし、そんなつべ動画だって有るし、そんな1曲だって有る。ようはお前が何から何を吸収するかだ。本の中含め、世界が世界というコンテンツなのである。形が何であってもコンテンツはコンテンツだ。役に立たんならクズはクズだ。わかったか !!!!!!!!
(このように本というのに不要で無用な部分が多すぎるのが何故なのかというと、1つにはもちろん一枚岩の本など書けるわけがないという事情である。本の中の議論A,B,C,D,EのAが公衆向けでBが専門的反論でCが仮想論敵向けでDがココマデハ知ッテルヨというポーズでEとB-4とC-6とD-23が実は論文Xの記述Tをバラかしたものかもしれずゆえに密接なのかもしれない。そんな風に1冊の本は見えない多層から成っている。しかしもっと重要な話があって、書いたほうの都合というものがある。つまり、誰が読むと当てこんで書いたらいいのかが見当つかんものなのである。例えば1の段落に具体例が連ねてあるとして、この段落を「色々ある」と述べてあるだけハイ終わりと1秒で片付けれる者もあれば、どんな例を挙げているかに特に注目しているという者もあれば、例を結構多数挙げてもらわないと論述に付いていけないというレベルの者もあれば、という風に、受容側(die Adressaten)が千差万別である。そして、書くほうとしては、どういったタイプのどんな読みにも対応していたいものであり、或る読者には不要な部分も他の読者には不要でないのである。これは献上というスタイルを取っていた時からすでにそうなのだが、メッセージを発するからには、あまねく末代まで、4000年後の地球の裏側まで届けたいものである。つまり誰にもモテようとの配慮で書いてあるのだから、八方美人を相手にする時と同様、それに接する側はそれの全部の引き出しに付き合うことなど当然出来ないししなくていいししたら間抜けなのである。(1冊の本のみならず1人の著者であっても。)つまり、お前がご丁寧に頁をくっているその御本様のその分量は、リダンダンシーを顧慮したものに過ぎないのである。人間は、出された料理はぜんぶ食べようとしてしまう。)
で、本の話ではない。やっと本題。ここでも書いたことだしここでも書いたことだが、コンテンツを受容する時、何もかもを受け取ろうとするな。なぜすべてを受け容れないと気が済まないのだ?アホなのか?演技があったらなぜ演者の人間性まで気にする?著作があったらなぜ著者の人品まで要求する?芸術品があったらなぜそれが出来た時の体験を知らなあかん?思想があったらなぜその時代の下部構造を含める?選手がいたらなぜその人の行状をあげつらう?映像があったらなぜ制作者のモラルがお前にカンケーある?〇〇モデルが有ったらなぜメーカーの歴史に詳しくなりたがる?プレーが有ったらなぜ当人の近況や練習スケジュールの話になる?銘品が有ったらなぜ産地・加工過程の話になる?人物があったらなぜそいつの親や家系や出身地の話になる?アホなのか?なぜそこまでアホなのだ?そうすることで、お前ご愛着のその対象にお前はイライラすることになるんだろ?表現が有ったら、その表現を観て聴いてしてるその時のその体験がすべてだ。そこで止めたらええんやろが!!!!!その出所からその生い立ちからその好みからその家族から何から全部が総合的にお前の気に入るものであらそうとするな。全部を愛そうとするから、アンチるんだろ。その人のなにもかもが自分の気に入ったものであって欲しいと相手にもとめるから、お前たちは、中傷し・妨害し・褒貶し・嫉妬するのだろ。ヒーロー役の俳優に日常でも善人であってもらいたがり、悪役のあの人に裏の裏まで悪人であってもらいたがる。あのな、相手は相手だ。他人は他者だ。対象は対象だ。それはお前のものではなく、誰のものでもなく、本人のものですらない。我々は断片を受容し合うだけだ。全体丸ごとを飲み込む・愛する・意のままにすることなど、無い。し、しようとするな。しようとするから、お前は、悪意を撒き散らし、表現者たちを殺すことになる。情愛かける相手を憎むことになる。最初の文字から最後の文字まで読もうとする。
「人」の話に入ってきてるが、99%の人類が間違った付き合い方をしている。いちいち相手に全部を求めよるのだ。自分とつながりが有る人には、その人に属するあれもこれもが自分の気に入るようなものでないと気が済まないから、だからお前は、相手に気にくわん点があると、凶暴化し、攻撃する(これの単なる裏返しの奴、いつも期待を「裏切られ」てきてもう傷付くまいと臨時警戒または枯淡サバサバになっているという奴、こいつは幼稚未満の幼稚であって、話にもならん。自分に嘘ついてる奴より、ジタバタしてる阿呆のほうが、8000億倍いい)。他人を除けようとする時にでなくて他人を容れようとする時に暴力性・圧制・専横・支配・抹殺・弾圧・ジェノサイドが最極端の最大規模になる。↓ もそう述べてる。
そして今やパーソナリティに関する知見の話になってきてる。ゆうとくがな、人格や性格ってものが存在していると狂信しとるが、そんなものは無いぞ。人ニヨッテ性格カワルではない。人によっても、体調によっても、時刻によっても、年齢によっても、人に対しても、自分に対しても、その時々の現れ・現象が存在しているだけであり、その「人」という、その人「個」人という、その人の「性格」という、一定の核など、存在しない(だから法体系がフィクション体系方便体系なのだが、これは誰でも知ってる通り)。お前が全部・全体・丸ごと・何もかも受け止めようと・自分のモノにしようと・気に入って好きこのもうとしたがっているその「人」など、存在し無い。その時々のその部分部分の現れの体験が有るだけ。だから、かくして、特定断片しか・特定部分しか・特定段落しか付き合えない・出会えない・用が無いというふっっっつーの事実を、とっとと見ろ。断片化せえ。
なぜ全体病になるのかと言うと、それは、確証バイアスの裏返し的発揮である。自分の中で〇〇がxxでなければならないという確信が出来ている。自分がその〇〇に関して知る・見る・聞く・ニュースで知る・雑誌で読む・テレビで一瞥する・噂で聞く・ネットで見る・小耳にはさむ・同僚から聞く・報告受ける所の何であっても、その確信の気に入るものでないと、気が済まない。で、確信の気を済ますために〇〇に関するあれにもこれにも嗅覚を尖らせる。確信と矛盾する点などなんぼでも見つかる。ここで、ソンナ筈ハナイ…とアンチ中傷に走るか、それともアバタもエクボかは、確証バイアスの振る舞いの違いにすぎない。偏狭であろうと慈愛であろうと、生は断片でしかないと理解しない限りは、結局クルシい。が、そんな理解ができて実感さえ出来るのは、宗教だけである(お前が「宗教」という語を正しく理解するならな)。誰も確証バイアスの併合独裁病から自由にはなれないから、今日も、~ナノダと結論する。なぜお前はすぐ「結論」を付けたがるのか。確信を自慰したいからである。… ミジメめったらしいかも知れない。ゆうてこれしか人間にはできん。だからこんなのは知識人でも全く不可避、どころかこいつらのほうが重篤なことが殆どである。こいつらは言語で世界を支配したいのだから、(特に現代だと)全人類が自分にはチカラが無いと基本的には諦念している中、知的連中は世界征服ができると思っていてしようとしているのである(その馬脚を現さないように、自分の研究は研究界に一石を投ずるだけのものであり云々と嘘デタラメを前置きする)。或る対象に関して、時期Aと時期Bとで、また著作Xと著作Yで矛盾やほころびや不一致があると、それらを「発展」の諸段階と勝手に決めて、〇〇の《有機的》で《体系的に整合性の取れた》理解をもたらすことがデキルデアロウとホザいて論文とか本にするのである。それで、自分てめえひとりの気が済んでいるのである。その〇〇のどの著作も仕事も思想もその〇〇自身にさえ実は異質で不可知で新奇で断片で部分であり現象であるのに、それを受容している研究者のほうが自分の中で完全像をこしらえ上げるのである(こいつらは知識人であって知性人ではない)。〇〇亡き後なら言いたい放題だと言うのは、世論のみならず学者の構造でもある。ローカルな話をしていると思うか?違う。これは、社会が偉人をこしらえ上げイデオロギーをこしらえあげるときの手口である。西郷竜馬だろうと紙幣の顔だろうと総書記だろうと大統領だろうと民族の闘士だろうと建国の英雄だろうと、悪質さ+アホらしさは同じである。どれも、ツーフェイスのハービーデントに過ぎない。そして学者の《整合的》体系(及び《バランスの取れた》議論という偏向中の偏向)は、愛というこの世の最大の奇形物と同じ構造・同じ意志・同じ欲情・同じメカニズムから生まれるものである。お前は合併吸収しようとしているに過ぎない。お前がもたらしたつもりの「統一」的理解とはお前の確証バイアスが見てる夢、いやシャブ中妄念にすぎない。愛せるという妄念と同様。統合すな。全部取ろうとすんな。世界の中のてめえに合う部分とだけ付きおうとけ。
斯くして、「物語」を求める。すぐ「成長」とホザきたがる。「成長」しているものなど、無い。人間関係や人生や「成功」やキャリアのどの段階どんな場面どんな絵も、その時々の現われにすぎない。それ以上それ以外のことは、何も言えない。その現れている現象しているそのそれがすべてである。だからそこで終わっとけや!!ところが、「成長」だ。すぐ「成長」させたがる。いつ時点で何が起きようが・何をやっていようがそれはそれというだけのモノでしかないのに、そうであるのに、以「前」・「あの」時にしていたこんな事あんな事、以「前」・「あの」時にそうであった自分や〇〇が、時間順序上その「後」に来ている自分や〇〇のためのものであるしそうであったのだ、と考えてしまう。こういうスリ替えをする。それ自体はそれ自体でしかない事柄Aを、時間上・順序の上で後に来る事柄B《につながる》《へと克服される》《へと発展する》《へと「改善」される》《という成長を見せる》ところの踏み台・成長のダシ・ダメだった時の自分等々々々と見てしまう。こうして、事実上バラバラであるしそれ以上は何も言えない所のAとBがつながってしまう、どころか、AからBへの成長というストーリーが出来てしまう。それ自体は「まだ」「未熟」でもないし、そもそも「まだ」と言われなあかんようなものでもないし、「不満もある」ものでもないし、「これから()」というものでもないし、「未来へ向けて」いるものでも何でもないAが、その後に位置しているというだけのBに統合されてしまう。併合されてしまう。従属させられてしまう。Bとの「連関」に「発展」「的に解消」されてしまう。BからAが、「10年後の(失笑)」自分から今の私が、攘夷倒幕から黒船来航が、《成長した》Bから《まだまだ欠点の多かった》Aが、説明されてしまう。説明という暴力によって、それもまた1人のお前であるところの過去のお前が、殺されてしまう。お前は、いや人間が、いや表現者が、いや生命が、「成長ww」していることになり、「進化」させられ、「発展」「深化」「進展」を証明され、「前進()」「改善(失笑)」「進歩(爆)」を認められてしまう。こうしてお前らは、「歴史」を作る。いいだろうか、いかなるものであっても「歴史」とは、そういう名前の創作・お話・フィクション・でっち上げ・辻褄合わせに過ぎない。これが「後知恵バイアス」だ!!!(ニーチェが問題にしつづけたもの。)そう考えると学術と物語が企図していることが同じにも見える。同じ下心で動いている。或る「整合」取れた一定の枠組みの中に、世界と事象という純然完全不可解な他者にして他物を押し込めたいのである。対象を手籠めにしたいのである。学術も愛も、手籠めなのである。自分の家に監禁しときたいのである。自分ワールドに、ある説明の体系に、一連のお話に、成長ストーリーに、「成功まで」の「道」に、正当化し統合したいのである。勝手に「道」を造りたいのである。何かがあれば、それを何か「のため」、何かとの関わりで在らしたいのである。何もかもを関わらせるバカが手のひら返した中傷に走ると上に書いたのを思い出せ。文脈と歴史、連関と全体が欲しいのは、「あれもこれも」という幼稚で原始的な下心だ。すべてが思い通りで在ってほしがってる。
ところで、こういった因果関係の創作という知的原始段階が最も盲目的暴力的な専横形態を取っているものが、司法である。裁判であり。陪審であり、判決であり、刑執行である。捜査や刑事民事、およそ「事件」というものがすべて、「原因」と「動機」、「背景」と脈絡、役割とキャラクターを(物語)創作するものである。しかも、創作の主力を成すのが「証言」である。記憶の研究が進んでいて、想起というのが貯蔵庫から取り出してくる如く過去の写像を再現することでは全くないことが周知されて久しい。文献など山ほどあるが、特に最新想起研究に特化しているものではないがただ読んでべらぼうに面白かったという理由で
を挙げておく。その時のことを思い出して喋るというのは、そういった形の創作でありフィクションである。「証言」がある。だから何だと言うのだ。人間は保存媒体ではない。むしろ記憶など歪め倒し発言の都度造り変える。「記憶の変容」に「偽りの記憶」、「過誤記憶」に「虚偽記憶」!!!「目撃者」がいる、だからどうした。人間はカメラではない。大脳が調整しつくした視覚風景と機械的映写とがどれだけ違うかも分らんのか。「目撃者」とはジェニファー・トンプソンであるに過ぎない。やはり典拠文献など山ほどありすぎるから、たまたま手近にあったこれ
- 作者: ディーンブオノマーノ,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2012/12/19
でも挙げておこう。さて、こういった、事実の写しではまったくない「証言」「目撃」などに基づきつつ、しかもさらに一定のスジと期待を仮設した上で臨む、そんな捜査というもの、また、無限に多様な世界というものに因果関係を設定してその台本に忠実な進行をするだけの裁判というものは、こう見てくれば、もはや、共同フィクション製作以外の何物でもないことが判る。
脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ
- 作者: ゲアリーマーカス,鍛原多惠子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/01/01
などを読めばこういったことは専門家でもハッキリ言っているということが分かる。
(ここで『ダークナイト』のジョーカーが言う「bad joke」を思い出してもいい。)
であるから、歴史とはどこまで行っても単なるおはなしなのであって((hi)story)、史実や歴史的事実というもの一般がナンセンスなのである。それは想起される記憶に過ぎない。物語られるものに過ぎない。よって「歴史」(などというお話レベルの代物)においては「真実」と「事実」の区別もない、どーでもいい。真実とはマコトなものであり求められるものであり何なら情緒的なものであるのに対して事実とは即物的で1個しかありようがないものだと考えたところで、どちらも想起構成している今現時点の産物であることに変わりはない。それは今現時点の都合が作るものなのだ。それはもう、言葉というものがバカなのだから、言葉でしかない歴史も一蓮托生でバカでおます。「事実」。響きだけはカッケーな。「真実」よりもガツンと響いて非情緒的で真実味が有るな。ただ、ただそれだけのことなんかも知れん。「真実」は政治家が口にする下心の塊だが、「事実」も求められ構成される言葉の塊なのである、そういうのを政治と言う。
あれもこれも全部支配して自分の気を済ませたいという性根が、ありとあらゆる未来予測行為の根源であると言っていい。経済アナリストからネット書き込みまで将来未来をくっちゃべって当たる例など金輪際無かったし無いのだが、何がなんでも何がどうしても人は未来を《予測》したがる。将来こうなるの駄弁が心から大好きだ。何故かというと、今どれだけ支配できているものでもこの先にはどう変化するのかまでは把握・支配し切れないから、変化というものが有る以上結局支配が全面保証されないから、不安だから、そうだから、必死全力で未来を想像し描き報告するのである。また、させるのである。(たとえそれが、よくあるように、相手が変化してしまうのが本当はイヤだからわざと悲観的不愉快な未来像をしゃべっといて、内心では、悪い想像をしておけばそこまで気持ち的に裏切られる事にはならないだろうと期待している、というだけの、アホの中のアホであったとしても、同じ話。離れていきそうな者のことをわざと悪く言うというただの愛憎裏返し。)
- 乃木坂46
- 発売日: 2015/07/22
- メディア: MP3 ダウンロード
時間軸で人間が行住坐臥最も頻繁最も痛烈に気にしているのが、今日よりも昔日よりも、未来である。過去のことなら、対象のどんな逸脱も・許せなさそうなことも・「首尾一貫しない」ことも・不可解なことも・「説明がつかない」ことも・期待を裏切ることも、正当化の説明シナリオに併合統合させることが出来る。だが未来にだけはチカラが及ばない。お前たちが必至コイて守ってる自分ワールドの王国、もとい全体主義マイホームの外には、未来という侵犯者が虎視眈々と構えてるという訳だ。不安だのー支配者ども。