地上最強のブログ

しばいてくぞ

原始人の現代 (1)

 

潜在的自己中心性というのが有って、潜在的にはみんなエゴイストなんだという意味ではなくて、implicit egotismの訳語であり、自分の身辺や自分の事柄に関係あったり似てたりするものを無意識選好しまうことである。人を選ぶときにも・物を欲しがるときにも・服を見るときにも・好きな色を決めるときにも・制作物に感銘受けるときにも・特定の人々に惚れるときにも・オカズを物色するときにも・カレーを運ぶときにも・全裸で麻婆豆腐を作るときにも・お見合いをするときにも・乗用物を選ぶときにも・道具類を漁るときにも・電柱に縄張りを小便するときにも、どんな選好選択購入決定判断の場面でも、自分の記憶に上って来るモノや自分の名前や自分の体格や自分の出自や自分の職業や自分の性別や自分の預金や自分の心象風景などを基に判断決定してしまっているという心理機構のことである。(なお、実際に実験されているのは「自分の名前」とかが有名で、他のは、いま付け足しただけ。何度も繰り返し言うが、心理学の用語や概念を拡張して応用して使っている。学術とはそうしてなんぼである。覚えとけ。)

ようするに、人生に於いて世界を(おそらくは)受容しながら自分の外/自分ならざるもの/つまり非-我というものに出会っていっているような時にでも、結局自分を探しているのであり、自分の外と内が有るつもりでいながら実は誰もかれも自分ワールドの中で駆けずり回っているだけなのである。自分の頭蓋の中で七転八倒しているだけなのであり、自分ランドの中で自分ランドの検地をして自分ランドの行政をして自分ランドの立法をひたすら自分王が自己確証しているだけなのであり、人生などといってそれは自分の  大脳  神経系の中だけでもんどりうってのたうち回っているだけであり、なんやかんやゆーても自分の体からは一生一歩も出られないのであり、自分でフエラオチが出来ればノーベル賞なのである。

ちなみに言っておくが、以上を読んで、また以下を読んで、《知ってるよ》と思うなら、言っておくが、お前は知ってはいない。お前は、ハナシから自分を除外し・人の愚かさから自分を除外するというバイアスによって、この上なくハナシに付いて来ていないし、知識を身にしていない。

そう、結局自分自分自分自分自分自分自分の自分病の中で動いているのであり、這いずり回っているのであり、《外に出かける》とはそういう意味で自分の中に出かけることに過ぎない。

ということが明らかになっている──認知科学の研究を粗雑にまとめて言えばな。

例えば、いつかこのブログでゆうたろ思とったけど他のそのような話題と同様結局ついで的に述べることになるのだが、次のような人生の観察上真理が有るだろ:どこのどいつも、結局は、ひたすら

自分のやってることをいいように言う

(↑ ハイ下線引っぱってぐるぐる巻きにしてチン皮剥いておこう)。自分の居住所の都道府県市町村区をイイようにしゃべる。自分がついている職業がどういったイイものなのかを年中考え喋る。自分が属している性別のイイところを挙げようとする。自分が〇〇学をやっているなら〇〇学がどうイイかという話をもっぱらする。自分の弾ける楽器のイイところを話す。自分の年齢世代こそが最も正しい世代で価値のある世代だと思ってしまう。自分のハマっている趣味がどれだけハマり甲斐があって他の趣味よりも上等であるかをこそ喋る。自分の所属組織の成員をもっぱら擁護する、たとえ大巨悪の汚職者(←うわ偽善くっさい言葉)であっても。そしてマコスミと世間を立腹させたあの組織であっても、自分がそこの成員なら、その組織のことは悪く言わないししかも悪く感じもしない自分がそこで暮らしているところの収入階級での人生こそが人生の答えなのだと思い込み述べ立てブログ立てる。自分ちの家族数が人類の本来あるべき家族数なのだと思えてくる。自分の使っている道具や装置が「結局は」最上なのだと思い込んでしまう。経路が何通りも有るのは知っているしどの経路も知っているのだが、特にいま通っている道が《やっぱり一番いい》となぜか確認してしまう。ヒトのあるべき基本食を論じるときに参考にするのはただひたすら自分が食べている物である。ところがそれは、お前がたまたま食べているだけなのである。その道はその日にたまたま通っただけなのである:しかも信号の都合や工事避けたり車に邪魔されたりなんかして偶然と外的要因にその道を通らされているだけ。その道具や装置は、お前がさまざまな事の成り行きの結果として使うようになっているだけなのである。お前の家族の人数構成はお前が主体的意図と企図で以ってして能動的意志的に左右したものなのではない。それは、お前が熟考の末世界最良のライフスタイルだとして選び取った状態なのではない。そこは、お前が熟考の末世界最良の組織だとして選び取った就職先だったのではない。お前がそれにハマっているのは、お前以外の諸々・お前の外の諸々、偶然偶発事の紆余曲折によってそうなったことなのであって、それがイイからだからそれがお前の趣味や嗜好になったのではない。原因と結果が逆なんだよボケ!!!!この人が一生言い続けていたようにお前たちは因・果をつねに引っくり返す!!自分の弾いている楽器・描いている絵・教えている科目・評価されている〇〇等々々々々も、それが、お前の思っているようなXであるからだからお前に/が関係したのではなくて、ただ単に人生の偶然でいつしかそれに関係してしまっていただけなのであり、顛末を後から振り返ってあたかもそれがコトの本性上本質的に選ばれるに価するものだったのだと思ってしまっているだけなのである(後知恵バイアス!!!)それは、お前が知と意に基づいて選び取ったものなのではない、性別や生年や居住地や職業や専攻とまったく同様に。

それだけのことに過ぎないもの、たまたま自分の足が入ってしまっただけのものに、お前は、火急の一大事にして一大責務であるかのように、いいねいいねいいねして、それに内在し本質上備わっている(とお前が思いたい)価値を見出し続ける。が、それはてめえの脳内探索をしているだけなのであって、事物自体については別に何も言えていないのである。

こんなんはまだ素朴なほうで思いつきやすいほうだ。ただの自分病なんだと気付きもせず自覚症状もないままに、事柄それ自体に属する客観的なことを感じ喋っていると錯覚する中でも、特にマジに悪質なのが有る。お前は、お前らは、人類は、自分がその国籍または出身である国民や国土や国家を、ひたすらイイように言うだろ!!!そこにはな、議論や公論など0.0000ミリも成り立っていないんだよ!!

勘違いすんな!!それが世界の中で客観的にもまたイイものなのだとお前らが思い込み信じ込んでいてしかもその思念信仰に気付きもしないところのその物事はな、お前にとって自分のことだからイイように捉えているだけなんだよ!!これを、

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単純所有効果

mere ownership effect)と言う。我々が論じ立て・弁護し・擁護し・ことほぎ・あがめたてまつり・認可し・愛撫しているその品も親も河も街も群も色も味も里も幸も瓦も胡瓜もヘチマも、なにもかも全部、自分が所有しているものだったり・自分が関与しているものだったり・自分が従属しているものだったりしているから、だから、そうであるから、それだけの理由で(もはや「理由」でもない。「理」など無い)、いいねされてんだんよボケ!!!知っとけ!!!

どうやら、現代の心理科学が、あげてこぞって、人間が徹底的完全完璧に自己本位動物・自己中心動物・自己大好き動物・自己以外どーでもええ動物であるという、知ってはいたけれど言っては欲しくなかった真理(そしてアホが《知っていたよ》《今さら》と平然ヅラし出す真理)を、世界中で数千研究数千(万?)人参加者規模で、実証しているようなのである。ここでは、何が合っていて反証されて論駁されて事実を語っていて等々しても、この1点だけは確かである。或る研究が客観的妥当性を欠いているなら、それによって今度はやはり研究者の自己中心バイアスが証明されるばかりではないか。そしてその研究者がやっていた実験もまた結局は何らかの自己中心バイアスを明かすものだったのだろう。そんな風にして、人間が自分という牢屋からどこれほど絶望的に脱出できないかという一大物語にして一世一代の究極命題を実証光線で照射し続けているのが、現代の認知の研究である。そうとしか言えない。

ぼちぼち見てこ。

よく言うように恐怖というものにはまず根拠がない。暗い所や人里離れた所や廃墟内や闇夜や山奥などで怖さを感じて「ここは出そう」と感じるのなど、アホも甚だしい錯覚であり、典型的な原始人暮らし時代に出来た原始的反応の名残りである。「出そう」なのはお前の脳内ナントカだよボケ。カウパー出しとけ。こういうのは、「スパイ」や「大量ナントカカントカ」や「テロ」や「拉致」や「人食い〇〇」や「宇宙人」に本気で怯える呆れ果てたアホ(←人間ですか?)と同様、反省力も熟考も現実の要因の定量計量も無く・せず・考えず・ただイタズラに扁桃体に振り回されてるだけの現代原始人の過情動反応にすぎない。こんなみっともない錯覚恐怖に本気で憑かれているような体だけ大きい乳幼児を相手にしていても仕方がないが、他方で、恐怖するのももっともだと言っておかしくなさそうな対象も、本当はなんもコワない。つまり他人、それも、全身揃ってて健常(←きっしょい語やな)な人。なるほど何をして来るか「何をしでかすか」わからんわな。確かにコワいかもな。しかし、この法治社会で、人間が人間に何をして来るか分からんという不安ほど根拠薄弱なものも無い。他人に何かを仕掛けるほうが被害者側よりも遥かに生存上生活上のリスクが高いのであり、しかもそれを誰もが知っている。「何をして来るか分からん」「物騒な世の中」というのが事実であるよりはずっとはるかに印象確認であるのと対照的に、そんなことが起きないようにしている抑止力のほうは絶大に確かである。また、確率的には身辺に起きる公算が極度に低いその暴力とかそんな何かが仮に起こるとしても、ここに書いたことだが、実はお前の防衛力もまたすんごく高いのである。お前も立派な人なのである。正しく見積もれば、人体同士の力量比などは誤差未満のものに過ぎない。どんな凶漢が向かってきても、所詮ヒト身体にすぎない。相手もお前も手足は4本しか無いし一切何もさせないほどの体重差も筋力差も無い。コトは護身術以前の問題だ。有り体に言えば、「護身」なり「サバイバル」なりが主張している「もしものとき」云々というのは、リスク計算上・実際公算上は、ナンセンスである。そして誰もがナンセンスを虚妄する。外に出れば軍事格闘技を修めたギガントピテクスが自動小銃と巨根を構えて襲ってくる、お前はそんな気がしているのであり、そんな風に勝手に恐怖を膨らませているのである。アホ!!ほとんどの人間は、取りに足らない。相手に力が有るようにまたお前の身体にもヒト科として十分な力が有り、しかもそれを相手がまたしっかり意識しているのであり、相手にもお前が五体揃った次にどう動くかは読めない生体として目の前に立っているのであり、相手もまたお前が怖いのである。

なお、無用な恐怖心や膨らんだイメージが集団リンチに走らせる事がよく知られているが(つまり被害者予備軍こそ容易に本物加害者軍に転じる)、そういった問題を差し引いても、コトは悪質である。報復がコワいからと通報もせず立ち去るなどというようにさえなっている始末だ。

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まったく興味のない話での余談だが、これとは異なる感情でも同じようなハナシになる。多数の人が自分の好感度を低く見積もりすぎる、ということだ。これは、ここに書いたように評価側から間違った評言が出て来てしまうからという問題も絡んでいるが、そうでなくても、こうなる。結局人の顔は感情をまったく明かさない。嘘など実は見抜けないのと似たことだが、顔を見て感情が判ることなど、アホどもの妄信を別にすれば、まったく無いのである。つまり顔(も含め体全体)とはその《表情》がニュートラルに過ぎるのであり、表情とは無表情に過ぎるのであり、そこに好悪を勝手に読み取ってしまいやすすぎるのであり、虚妄させ過ぎるのである。そうして、勝手に「嫌われ」る。ドウセ自分ナンテ。しかしだ。まず、圧倒的大多数の人間が圧倒的大多数の人間に対して嫌いでも好きでもない。関心が無いのである。次に、好悪の感情などは誰にとってもひたすらモヤモヤな曖昧物でありどっちにも転ぶものであり過剰多義的である。そして、好感を持った場合の反応というのが好感表明の真逆であるこ 

次回の記事に続く