地上最強のブログ

しばいてくぞ

2億倍の世界・地

 

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差別や暴力の問題、人類の愚行史、すなわち人間はなぜ愚かなのかという問題は、人間はなぜ周りとおんなじことしか出来ないのかという問題と重なる。一の価値観への化志向が共同-排除体形成の原動力であることや、1つの=同イデオロギーへの併合・からの締め出しがあの大虐殺この大弾圧の因であることが周知である。↓ もそう述べてる。

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

米人ではない=とじではないから、日本に原爆が落とせたのである。(ところで、「ピカドン」が空から降ってきたのではない。国家・合州国が国家・日本に核兵器を投下したのである。「死者」が出たのではなくて、アメ公に大量「殺戮」されたのである。どこからともなく天の使いのように「空襲」がやって来たのではなくて、「空爆」によって焼かれ殺されたのである。「戦争」「の悲惨」ではなくて、「侵略」の「暴虐」。あの戦争時日本人はアメリカから明白に「虐殺」されていたのである。何故日本人は何十年経っても罪ヲ憎ンデ式のものの言い方しか出来ずそんな意識しか持てないのか。なぜ、太平洋戦争時に北米合州国にやられたことを天災か何かのように言い思うことを続けるのか。最悪の意味でのノンポリではないか。それは、原爆→朝鮮半島ベトナム→中東等の流れの前に北米先住民ジェノサイド→フィリピン等があるといったこと、こういったアメリカ合州国の侵略史にいまのいまだに大多数の日本人が無知だということと関係ありそうだ。この記事参照。

と言っても、こんな大げさな話は営業トークとしてやってるに過ぎず、主関心は身近なものにばっか有る。例えば、とにかくどいつもこいつもまわりと同じことしゃべりよる問題。例えば、日本の声援文化を評価したくて先行研究ならぬ先行発言を探しても、貶める文言しか見つからない。ボディビルの大会での声援は、ほとんどの出場者に相当な励みになる有難いものであるし、鑑賞側も気分が盛り上がるし、「ガヤ」と同じで空間全体を盛り上げる。つらつらよく見たら、世界に誇る文化である。であるのに、ボディビルの大会での声援は、茶化されてバカにされているだけである。誰もかれもと同じことしか書けず述べれず、評価し促進すべきものの足をただ引っ張る。せっかくイイものを持っていながら、それこそ「自虐」するアホ国民。残念ながら今は冗談を書いていない。評価と言うなら、バラエティ(ー)番組でのスタッフ側・AD側・裏側からの笑い声も、有難い文化である。素直につらつらよく聞いたら、なんも不愉快なものではない。これが無かったら、多数の箇所で視聴者は笑えてないだろう。気分がトクしてないだろう。であるのに、これを評価する声でなくこれに苦情を付ける声しか、見つからない。「評価してみることももしかしたら…」「よくよく考えてみたら本当は…」という風にして大勢がやっていることに距離を取ってみる、ということが出来ないのである。一方で、海外の番組の「録音笑い(laugh track)」には、誰も文句を付けない。しかしこっちは、機械が出してる音である。日本のバラエティ(ー)のほうでは毎回毎回人間が笑い声を出していて、そういう労力を毎度毎度費やしているのであるのに対して、録音笑いは、ボタン1つスイッチ1つだぞ。バカにされてるのがわからんのか?わからんか。どうせ、アメリカが発祥でアメリカの番組で盛んなものだから、文句付ける気になれんのだろう。日本人にとっては、「アメリカ」人のすることはすべて尊いことであり神のなさることなのであり、毛唐タレントがおしなべて「セレブ」という半神族であり、列島家畜人どものHerrenvolkなのである。そう感じるのに誰もおかしいと思わない言わない。なお、「北米合州国」と「アメリカ」の区別が付いていない模様。後者は大陸名だバカ。We're all living in Amerika。(あのな、もうアメリカは入ってこんでええぞ、日本の中に十分あるから。用は済んだ。消えろ大国。例えば

摩天楼の距離

摩天楼の距離

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  • 発売日: 2013/12/11
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とは言うが、この曲で言う「ブロードウェイ」等はすべて日本のこと・日本でのことである。かつて憧れられていたアメリカの何やかやに仮託してもっぱら日本のことだけを歌っている曲である。遠い異国のアメリカはいまや憧れる対象ではない、うちら日本にすべてある、日本で十分充足しとるわい、と高らかに宣言している曲である。)しかし勿論、他の数々のアメリカ文化WASP文化と同様、「録音笑い」も、ゲロ反吐に気持ちが悪いだけでしかないクズごみ文化であり、いや別に文化でもない。つらつら聞けば、ラフトラックは、ただただ、クソ気持ち悪い。素直に自分の感性に耳をすませば「海外ドラマ」「海外バラエティ(ー)」でお前たちが聴く「録音笑い」は、この世のどんな醜いシーンよりも比較を絶して邸能で低級で下賤で下劣なクズの中のクズである。しかし、ところが、どこのどいつも、こっちには何の不満も覚えず、自国の立派で愉しい文化はこれを毀誉褒貶しているのである。これが、周りとおんなじことしか出来ないバカ問題の一サンプル。もちろん、テキトーに思いついた一例にすぎない。

特に無学の素人ほどまわりと同じことしか出来ず喋れず知らずのファシズム予備軍であるから、本ブログの主な関心のジャンルから例を挙げとくと、例えば有象無象のアフィもといアホブログなりアホー知恵遅れなりを見ると、ちょっと知ってる程度のアホーの頭の中には、ロニー・コールマンとマッスル北村しか存在しない。これは専門筋によく見られる《やっぱりシュワルツェネッガー》病とは違うっちゃ違う。後者もオツムが停滞しておるがゆうたらオメデタいだけで、ニワカという性根からのアホとは区別されるかも知れない。こうして、バカの1つ覚えならぬバカの「ベンチ」覚えに今日も明け暮れる。カールの話題はひしめいていても、上腕の本体たる三頭はほったらかし、おかげでトライセプス種目がろくに無い。

他のやつと同じことしか喋れない・考えれない・感じれない・書けれない病。キリがない。8時間睡眠常識に短時間睡眠ブームが取って替わった(取って替わっただけ)ら、睡眠の話のときには、睡眠7時間未満になる時間配分しか言わなくなる。9時間以上が本調子だなどと書くと《恥ずかしい》のだろどうせ。何が正しいか合ってるかいう話はぜんぜん全くしてない。ようするにお前はただ単に周りと・他人と・大多数と同じことを喋ってる・書きこんでる・質問してる・回答してるだけで、その中身を考えてみたこともないのである。虐待が当たり前だった前近代から保護論愛護行動が珍しくない時代になり、肉食大好き畜産屠殺の現実なーも考えませんってのが大っぴらに公言できないようになると、公言控える。ブームが交替して、大っぴらに公言するのが流行になると、大っぴらに公言する。食肉に疑問を口にする者がいたらこれを全力でリンチする、みんながやってるから安心して。どこのどいつも、何の考えにもなっていない小理屈・自分願望・聞きかじりを並べ立てて、「じゃああなたは肉を食べなければガー」「動物がかわいそうなんていうならガーガー」と発狂するだけ。食でも社会問題でも国際関係でもエンタメ関係でも作品評価等々々々なんっっでも全部これ。周りが或るものを非難し出したら、ひたすらそれに便乗してリンチに加わるというニホンヒトモドキ。こうして、ニホンヒトモドキは、周りがみんなやってるから安心して韓国朝鮮を中傷(だけ)する。反戦が出来ないなら黙る。平和憲法を顕彰することになったら、する。9条に文句つける風潮になったら、文句つける。

もちろん、ニホンヒトモドキは、自分の頭で考えて意見を言っていると錯覚できる。結果として他と同じ意見になっていると錯覚できる。そう、バカはつねに原因と結果をまちがえる。バカはすべてを逆にする。本ブログのような論者が元に戻してやらないといかん破目になる。

こちらが、「日本」という動物園です。あちらが、火病リザルの檻になります。ご覧ください。この劣等種は、「みんながやるから」病が問題ダーと書きこみはするが、問題にしなければならないほうの「みんながやるから」行動は一切まったく触れず感じず考えず、みんなが問題にしている「みんながやるから」行動のことしか言えない書けない。ひたすらクソどうでもいいほうの同調行動しか話題にしない。これほどまでの邸能人種が、地球上には、いるのである。

さて、名前の付いてるものしか見えない問題だが、世間が分節した通りにしか受け取れないということでもある。決まりきった年中行事に従い、「朝」に「1日」を始めたがり、「日曜」に休みたがる。「年末年始」には、このような過ごし方をすると通念になっている過ごし方をしなければ、死ぬのである。四季を感じるというより社会通念に感じさせられる。「衣替え」だから、そういう服装にする。マーケティング大成功。熱帯化する日本。ちなみに排ガスの問題は有害物質散布であって「温室効果ガス」ではない。温暖化に関してはぜんぜん足りてないほうが問題である。「朝食」と言うのだから、そうだから、それは食べないといけないものなのだろうと信じこみ、苦しかろうと腹こわそうと、意地でも食べる。1日3食食べれないと悲劇の主人公。暦が「春」と呼んだら4月の紫外線照射量が8月と同じだということが知覚できない。言語が「太陽」と呼ぶから暑さで日焼けと錯覚できる。よって、2~3月から焼き始めたらいいのである。習慣が「油」と呼ぶから脂を摂食したらイコール脂肪になると信じ込んでしまう。もちろん、バ慣習を疑えと言ってるだけで、何でもありでいこうぜとは言ってない。車で歩道を走れとは言ってない。そうでなく、お前が信じてしまっているもの、お前が社会=言語から信じ込まされているものが本当にすべてなのか、他の可能性というものを考えれんのじゃないのかと言っている。車と言えば、「自転車」など、今普及してるあの形状のものだけでは全くない。関西サイクルスポーツセンター。衣服は上と下の2つにしか区別できない。3つに区別したり、右と左の2つに区別したりはできない。成程それで不便がなくて人体に合わせた必然の産物なのはそうかも知れない(本当に?ゼッタイ?)。一方傘は確実に不便であり不便でしかないし、非必然的で歴史的偶然の産物である。傘さしても水が防げるのは頭の上部ぐらいであとは濡れるし、干し場所問題があったりで、発明ではなくクズでしかないのだが、普及してしまい市場を席捲してしまえば誰も不平を言わない。首から下がぼとぼとになりながら、こんなクズで我慢し、不満を知覚しなくなる。「雨」と言えばバカの脊髄反射覚えで「傘」。史上最もアホでマヌケな観念連合。もし、このクズに名前が付いていなかったら?いや、今よりもっと多種類の雨具があって「傘」がその下位分類名にすぎなかったとしたら、ここまで不当な高位に鎮座して有難がられていただろうか。「自転車」という、タイヤ弱い問題・風で進めない問題・置き場所問題・電車乗れない問題・ 

阪急電車/Team N

阪急電車/Team N

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  • 発売日: 2018/04/04
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歩行者からしたらひたすら邪魔または走る凶器なってる問題など多数の欠陥にまみれた乗用物に自動車ほどバリエーションが・オルタナティブが・改善案が無いのは、この語があの形状のイメージとしか結び付かないことも原因かも知れない。販売戦略の歴史を見れば分かるように商品がいかにヒットするかはどんな名前を付けるかに掛かっているが、物品の名前というのは他愛のないものではおさおさない。今の物品に我慢しているのは、それにそういう名前が付いているから、そうしてそれしか見えないからなのかも知れない。身体が蓄積するほうも食品として食べるほうも「あぶら」と呼ぶのをやめて分類を増やしたら、食のアホ誤解を1つ減らせれるかも知れない。なぜ人間はアホなことをするのだろう。なぜ甘い物食べた分はジムのコンベア(ハムスターの回し車)上で走ったら済むというバカすぎる錯覚ができるのだろう。なぜ自分の体や運動に関して無知蒙昧でいられるのだろう。なぜお前はお前の汚いケツに財布を突っ込むのだろう。突っ込んだろか。そもそもなぜ尻ポケットのような使い物にならない無用物が使われるのだろうか。「ポケット」と呼ばれるからじゃないのか。ぽけっとハ物ヲ入レル所ダという固定言語観念に従っているのではないのか(それ未満のアホかな?)。縄文人がスーツ着て歩いてるのが現代人だが、なんとも言霊信仰がお盛んで、言葉とはもはや人生である。〇〇人という単なる言葉が自分に貼り付いているとそれに無我夢中になり、村根性から国粋までイデオロギーに狂奔し、アイデンティティ()だとか何だとかに陶酔恍惚する。お前は、〇〇人でしかないのか?いっそ〇〇人なぞ辞めたらどうだ。お前がナショナリズムに発奮してもトクするのは国家様だけだぞ。何なら「宇宙人」もヤメてまえ。しらじらしいぞ。

どうーーーしても、世間が・社会が・言語がお仕着せてくださる図式通りにしか世界を認識できず、何十年間もハミ出さずに生きることが出来てしまう。何かがおかしい、これでは不満だ、どうにも足りていない、そうと限ったことじゃない、あいつはホンマに偉いのか、最初の仮説や設定からずっとおんなじコース進んでないか、なぜ研究タイトルはどれも同じなのだ、人生にもっと色んなことがあってもいいのじゃないのかよかったのじゃないのか、ということを考えない(いや、考えるから、数々の作品のネタになってるんだがな)。もちろん、不満が変化を起こし、不平が改革を求め、不足が進歩を呼ぶ。自分のPC操作に不満を感じない奴はショートカットも覚えようとしない。不満を感じないから向上しない。解決を求めないから知識が増えない。必要を覚えないから触手を伸ばさない。「必要ない」というのはお前が言っているだけ。「満足している」のはただのお前のスローガン。落着充足した時点でお前の変化と多様化は止まる。不足を感じていない時点で予備や保険を作っておこうとしなくなり、水面下でリスクが進行する。不満や不足が無い(・有る)はただの言葉ゲームであって、「無い」と決めて停滞するか、ムリにでも作って感じてアンテナ張り続けるか、どっちがトクかは自明だな。スルスルと考えが進んでいる(かのようである)時には、考えていない。導線に抵抗があるから加熱するように、停滞して苦悩するから思考という熱カロリーが生じる。流れがよどむ所にのみ哲学が生じる。とはいえ、こんなこと、考えただけで寒気するよな、今と違う可能性なんてな。権威が実はハリボテだなんてな。信じてる価値がチンカスだなんてな。


まわりと違うこと、大勢と異なること、ひねくれてみることを病的にコワガるが、何の実害もないことに、まだ気付かない。成程ありもしないモノを過剰に怖がるのがヒトの本然自然だ。もう何なら、盲腸や皮下脂肪よりも、扁桃体を除去したほうがいいんじゃないのか? なんてことまで言いたくなるほど、他と違うことが常に何よりも大事であって、是非ぜっぴ、ちがえ。斜めから見る根性を持て。偏るな。あのな、中央集権・首都一極集中・絶対王政は批判するのに、地方が存分に特色を持って国内が多種多様であるほうがイイことは分かるのに、個々人もまたそうであるということが、何故わからないのか。「人それぞれ」「ちがってたっていい」?口先をやめろ。お前はそうは思ってない。生物の個々体がそうであることが大事なこと、遺伝子多様性が大事なことは、よく聞く話だ。国家や組織のファシズムは、知ってる。ところが、文化や日常生活、知性や思想の全体主義は、感じないわからないのである。

生存上有利という点で多様性がモノを言ったことの例を1つ。

Das Archiv der Buehne: Eine Archaeologie des Theaters und seiner Wissenschaft

Das Archiv der Buehne: Eine Archaeologie des Theaters und seiner Wissenschaft

  • 作者: Hans Ch von Herrmann
  • 出版社/メーカー: Fink Wilhelm GmbH + Co.KG
  • 発売日: 2005/09/01

の148~149頁が、クラウゼヴィッツ戦争論』を引用しながら、17~18世紀西洋の軍隊が画一化と硬直化を極めていたところに対してナポレオン軍が「ゲリラ」同然の雑多な構成員と戦術により有利に立ち勝利を収めていたと述べており、こういった傾向が、アメリカ独立戦争でやはり多種多様な構成員による軍が勝利を収めていた事と軌を一にすると論じている。詳しくはここの7頁。といった観点が日本で周知されている気配がまったく無い。

まったく無いと言えば、或る好きこのまれがちなテーマに関して次のような単純な事実にどこのどいつも気付いていないことを指摘しておこう:歴史上何て国や何て民族がどんな広さの版図を有していたかを池沼たちがウレシそうにべちゃくちゃ喋りたおし書きこむが、それらの版図は中身意味内容が著しく異なっている。上記ナポレオン軍の猛威は単純面積上はこの通り世界征服史上下位の征服面積に及んでいたにすぎない。しかし、相手にしていたのが、当時の地球上では最強の火力を有していた諸軍隊であり好戦種族の西洋人である。そんなような地域の上に築かれた帝国と、銃病原菌鉄格差の著しい他の地域に築かれた帝国と、築かれるまでに費やされる労力にどれだけの差があるか、容易に理解できる。リンク先の表の上位を見ろ。大英モンゴルロシアスペインから降りて行って、無人地帯占領帝国・植民地帝国ばかりが上位を占めているが、これらの「国」は、軍事力格差のありすぎる先住民の土地を領土化しただけの版図であったり、誰も住んでいない土地に自慢げに広がったただ広いだけの版図であったり、何なら、(本家以上のホロコーストがあった)ベルギー領コンゴのように所有者が所有を勝手に決めただけの版図であったりする。古代帝国など、版図の端っこのほうはもうどうなっとるかよう分からんわってなもんだっただろう。おい、頭を振り絞って聞け、その国ができるまでに費やされた労力熱量から考えたら、ヨリ多数強力の火器銃砲を有しているヨリ「戦争」の能力に長けた国民による軍隊がヨリ稠密に密集している地域、ここにおいて得られている「帝国」ほど、広いデカいスゴいと見る値打ちがあることになる(もっかい表見ろ)。おまえ、かけ算できるよな?いわば「面積」じゃなくて体積で考えろ。版図にいたるまでの過程労力という変数が足りとらんぞ。このような「体積」で考えたら、「史上最大の帝国」は、第三帝国でしかありえないことになる。というようなことを書いて、人類の侵略史を肯定的に見る積りではないし、流されてきた血を一顧だに想像だにせず戦争や軍事の歴史や知識に恍惚狂喜していられる人間のクズどものバカ談議に付き合ったりするつもりでは、全くない。そもそもこれはクソうんこカケラも興味がない話題なのである。それでも、そんなにも全然入れ込んでない話題でも、入れ込んでる無量大数の人間がまったく気付いていないしかし気付けよバカってな事実を指摘してやることが出来るのである。これが、てめえのオツムつこて考えるってことだ。もちろんこの話も、一例にすぎない。「国力」という話以外でも、物事を評価査定するときに、ほとんどの人間が軽率で、かならず変数を何個か忘れる。映画のヒットを見積もるのに、「入場者数」。アホ。昔と今じゃ人口が違うわ。入場券買える購買力が違うわ。ゆってること分かるな?あと6兆個ぐらい例を思い付け。体の話に関してどれだけ変数を見失っているかこの記事参照

実体のないものをヒトは異常に怖がるのだが、物理的な事柄でもそうであり、ここでも錯覚を起こす。例えば、他人の体というのは、実は怖いものでは全くない。そういう悩みはすべて心の問題にすぎない。かよわくても、心が追い付きさえすれば、2倍3倍の体重の男を倒せる。アゴに当たればどんなバケモンでも脳震盪。四肢にできる動きは限られている。自分が怖がってるその分相手も怖がってる。そう、生身ならヒト個々体の戦闘力は、おそらくどんだけ計算し尽くしても、大差ないとしか言えない。そしてむしろここに暴力の淵源が有る。イメージされがちなのと違って、突き詰めて言えばヒトは個々体のチカラに大した差が無いから、そうだからこそ、各種暴力・各種悲劇が起きてきたのである。思考実験、ヒト個々体がいちいちどれもこれも竜脚類と微生物と惑星ほどの差があったとしたら?そのすべてが「個人」だったとして、そこに有る「力の差」は「暴力」だったと思うか?さらに、人は、同程度の者と悲喜こもごもするのであって、ケンカで勝てないからと言ってクジラや大型車両には腹を立てないし、仮に勇次郎が「共産主義的」だったり青色超巨星が「反革命」的だったりしたとしても、国家は特に何も感じ(ようが)ない。

あまのじゃくを怖がり騒擾のようなものを錯覚するアホ(おるんやぞ!)というのは、いわば車道を逆走してみよと主張されているかのように錯覚しているオメデタい阿呆なのだが、もう錯覚の奴隷になっていて、例えば、何が簡単で何がムズいかのちがいも錯誤している。「対」立する「2」傾向があって二「極」化している時、「」内のような語感に騙される。しかるに対立とはなんでも不均衡である。壊すのは作るのよりも常に簡単簡易である。何なら道具も人員もいらない。光と陰などというが、陰は手をかざせば作れる一方手のひら1枚分の光を作るにも発電所から要る。

風は吹いている

風は吹いている

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誉めるよりも貶すほうが簡単瞬時に言葉思いつく。どんな言語も罵倒語句が豊富である一方美辞麗句の固有語が少ない。経験は増やすほうが常に難しく、思考は多いほうが、分類は細かいほうが、可能性は広げるほうが常に難しい。世界は狭めるのは簡単で誰でもやる一方、広げるのは難事であり誰もやりたがらず天邪鬼が率先しても誰も真似ない。オッカムは原理数に刺刀を振るうのであって考察量に振るうとは言ってない。少なくていいものなど無い。が、そっちに傾くのが自然の性向である。だから抗がうことになる。朝寝してしまうのが自然の性向なのだから抗がわんといかんだろ。フツーにしとったら、慣習に隷従してたら、自然の性向に任せてたら、どんどん困ることになるのである。隷従をそうと気付かないぐらい内化してしもて権威の番犬になってる阿呆がおるが、こやつら、いかに現状を変えないことが大事かを口先でなんぼでも弁明しよる。喋るだけならアホにも出来る。脊髄反射で反論する奴、反論を用意している奴、お前は弁を弄するうんこ製造機だ。便を労しとけ。

 

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