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恒吉良隆『ニーチェの妹エリーザベト―その実像』(1)

ニーチェの妹エリーザベト―その実像

ニーチェの妹エリーザベト―その実像

  • 作者: 恒吉良隆
  • 出版社/メーカー: 同学社
  • 発売日: 2009/09/01
  • メディア: 単行本

 

本商品は、マッキンタイアー『ニーチェをナチに売り渡した女』白水社)と並んで、日本語で読めるエリザベト・ニーチェ(Therese Elisabeth Alexandra Nietzsche (Elisabeth Förster-Nietzsche), 1846–1935)の単行本規模の伝記であり、後者が英語原典からの翻訳である一方、この商品は、著者が2箇所で宣伝している(8・337頁)ように、最初から日本語で書いたエリザベト評伝としてはただ1つのものである。装丁・紙質が単行本によくあるタイプで問題なし、しかし印刷が行間も余白もダダっ広く、全約350頁の中身がスカスカしている、という体裁。袋パンパンしかし58gのポテチ(2018年だと55gだ参ったか)同然。これで定価税別2600円だからボッタクリ。

著者自身が書いている(337頁)通り確かに定年退職後の手すさびであって、エリザベトの生涯をぼちぼち辿っている気軽な読本程度のものであると言える。ただ日本語で単行本程度の量にまとまったエリザベトの記述は上述のマッキンタイアーのものと本書と現在2つしか列島には無く、マッキンタイアーのものの内容と補い合う形になっている。がとにかく内容が薄い。マッキンタイアーのものがエリザベトの記述には約160ページしか使っていないというのに、これよりもまだ記述が薄いという印象を受ける。「新ゲルマニア」部分の記述はもちろん、他の部分での記述もそうである。

全8章の構成で各章を2~5節に分けていて、節ごとに話題がまとまっている(のを小見出しでさらに分断している)が、面白くなって来たらもうその節は終わりという風に、エリザベトの生涯の1つ1つの事項を通り一遍にかすめていくだけ。これを執筆・出版する労力で、巻末の文献目録で挙げているエリザベト伝、例えば

Nietzsche's Sister and the Will to Power: A Biography of Elisabeth Forster-Nietzsche (International Nietzsche Studies)

Nietzsche's Sister and the Will to Power: A Biography of Elisabeth Forster-Nietzsche (International Nietzsche Studies)

  • 作者: Carol Diethe
  • 出版社/メーカー: Univ of Illinois Pr
  • 発売日: 2007/05/29

  • Louise Marelle: Die Schwester. Elisabeth Foerster-Nietzsche, 1934 (Gießen: Brunnen Verlag)
  • Dirk Schaefer: Im Namen Nietzsches: Elisabeth Förster-Nietzsche und Lou Andreas-Salomé, 2001 (FISCHER Taschenbuch)

を翻訳してもよかったかもしれないとすら言いたくなる。

なお参考文献だが、上述のマッキンタイアーのものを巻末参考文献欄に挙げている(v頁)が、この書の邦題を或る箇所では原題直訳(「忘れ去られた祖国―〔後略〕」)で記しておきながら(6・202・303頁)、別の箇所では市販の邦題(「ニーチェをナチに売り渡した女」)で記したりしている(158頁)。ところでマッキンタイアーの本がエリザベトという人物を糾弾してやろうというイデオロギーに凝り固まったウザいエリザベト伝(で半分はあり、もう半分は著者本人が新ゲルマニアを訪れたというただの深訪記、今時なら「nueva germania nietzsche」あたりでググったら動画で見れるわ!)であるのに対して、恒吉のほうはエリザベトを一定程度に評価している。ところで、204頁と303頁で、エリザベトが一助を成した「ニーチェ伝説」(Nietzsche-Legende)というのに言及しているが、これに関してPodachが、ニーチェ思想歪曲の責がエリザベトただ1人に在りというSchlechtaの言説こそ(新)伝説だろうと応酬しているという状況があったりなどするのだが、こんなことから考えてみると、エリザベトへの一方的非難を反省するという姿勢は、研究の本場ではべつに取り立てて新しいものでもない(が日本では知られている気配が無い、少なくとも邦訳ニーチェ読者層のドシロートどもには)。とはいえ、その一定程度の評価であるが、次のような評言を本伝記の基調としている:

エリーザベトの人物像を見極めようとする場合、われわれはもうひとつの観点が存在することに気が付く。それは、本書のまえがきにも書いたように、十九世紀末から二十世紀の三〇年代にかけて、まだ女性の社会進出がごくまれであった時代に、これほど世間を動かし波瀾万丈の生涯を送った女性も少ない、という事実である。エリーザベトは、若い頃はひたすら兄の助力者として献身し、結婚後は夫とともに遥か南米の地で開拓団を取り仕切り、夫と死別したあと帰国するやいなや、兄の精神的遺産の普及活動に全精力を傾けた。彼女の後半生の四〇年あまりは、いちずにこの「ニーチェ運動」に捧げられたが、その間さまざまの人間関係の渦の中で、つねに自律的な生き方を貫いて、女性解放思想にはむしろ批判的であった彼女が、期せずして自ら「女性解放」の道を切り開いた。その意味でわれわれは、エリーザベトの多難で充実した生涯のうちに、「女傑」と呼ぶにふさわしい人物像を見届けることができるのではないだろうか。(恒吉良隆ニーチェの妹エリーザベト―その実像』同学社(2009)304頁)

つまり、イデオロギーに囚われずにエリザベトの生涯を通り一遍程度にでも知れば誰でもすぐに気が付くはずの並外れた行動人生を克明に描く気で本書を執筆しているということである。悪評高い『力への意志』がこの人が主体となって造ったものであることを今日誰でも知っている。その際、ナチ利用しか見ず口角泡を飛ばす。が普通に考えれば、まだその文献学的・一般的読みが定まるより遥かに前であった時期に晦渋哲学者の断片テキスト数1000を編集して、そもそも本人がある程度予定していた哲学的主著の体裁を造り上げてしまう作業、これは、この哲学者の親族であったとしても真似すらできる人間がいるものかというほどの知的水準に有る作業だろう(エリザベトの仕事のごく一部に過ぎないが)。なお、『力への意志』等のニーチェテキストのナチ利用に口吻を尖らせている人間は、関係者である欧州人ならともかく、それが日本人であるなら、滑稽千万の図を演じている。自分らの戦争犯罪を棚に上げてナチ糾弾に精を出す連中は放っとていも(この記事参照)。また、テキストの文言にいちいちその政治利用を嗅ぎ付けないと気が済まないという、ここで詳論しておいた腐った性根だが、一から十まで完全に誤りである。なおそのナチのトップがニーチェのテキストに別に本腰で取り組んでいるわけではないこと周知の事実。

次回の記事に続く

 

意志

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  • HKT48
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: MP3 ダウンロード