地上最強のブログ

しばいてくぞ

2億倍の世界・魔

 

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言葉のファシズムというものを見たところで、その宿業を確認して行く。

漫画『寄生獣』が子供に特に難しいところとして、田宮田村三木後藤など「名前に無頓着」という主題がある。なぜ異星生物に名前がどうでもいいのかというと、人間にはどうでもよくないからである。異星生物は、人間と同じ姿形をしていながら、人間と逐一異なり、その姿形外見に期待される特性を裏切ってくる。生殖も出来ながら近親愛が湧かないし、「コロニー」をはじめ社会を形成しながら個体の存続のみしかなくて種や遺伝という側面がないし、そして、名前が個人の《大切な表札》にならないように、言語を用いながらその中身・意味・内容といった心的側面を考慮しない。人間は記号に感情と愛着を籠めるが、人間そっくりのあれらの生物は籠めない。つまり、地球の歴史上生物というものがヒトの形態を採ることはありうるだろうがそうだからといってヒトのような特性を有するとは限らないという別種の可能性を描いて、そうして、この上なく、ヒトの特殊さを浮き彫りにしているのである。マンアフターマンよりずっと巧みだ。

しかもそれにとどまらない。そもそもヒトの用いる言語記号に意味や中身といったメンタルなものが有るのかどうかがはっきりしていず議論の的である。作中「子殺し」が明示的に主題になるが、これは人間のことでもあり、いや人間こそ地上最大の子殺し同族殺し種である。人間が社会存在でありながらそれが何故そうなのかが謎であってきたぐらい人間はむしろ個最優先のエゴイストである。「社会契約」。名前も、他人のものならむしろどうでもよく他人の名前とは覚えるのが難儀のあるある代表であり、さらに、他人をモノとして扱う状況下では人格名称ではなくて「ベトコン」「丸太」「シラミ」と呼ぶ。

アメリカ・インディアン悲史 (朝日選書 21)

アメリカ・インディアン悲史 (朝日選書 21)

動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか

動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか

  • 作者: ニック・タース,布施由紀子
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2015/10/02

異星生物の解剖的特徴が「考える筋肉」だと強調されるが、これはそもそも人間のことである。人間を水袋と見るか霊の器と見るか制服を着たマネキンと見るか種々あれど、要するに筋フィラメントとニューロンが協働する従属栄養生物である。人間とどこまでも異質に見える生物は、その実とことん人間なのである。なお、この漫画の主人公は広川でもある。広川という結節点ですべてがつながる。広川という両面鏡にヒト-非ヒトの両面が写り、広川の生き方(=政治)にヒト含めた生態全体の共存という主題が映写される。主人公とするということになっているから主人公と見られているだけの定型主人公とは異なって、作品を影で全部担っている言わば真主人公。あたかも『指環』のヴォータンである。(ちなみにこのヴォータン主人公論だが『ニーベルンゲンの歌』の主人公がクリームヒルトであると明らかになっている話のような話とはまた別の問題である。)

このように、漫画『寄生獣』とは徹頭徹尾ホモサピエンスという生物を(合わせ)鏡に写して描いているのである。こういう描き方は、「異化」という言語芸術系の手法に似ている。名前無頓着というのは中世スコラ以来の記号理論を想わせる。異星生物の生存様式は、「意識の弊」を断った生体という、古今東西の武術・兵法(・人生論)や(時に西洋思想も)が理想としてきた境地を描いたものと見える。映画「エイリアン」の異星生物と同じだ。1作目でアッシュに「perfect organism」と呼ばれるギーガー産モンスターこそ、『寄生獣』異星生物のモデルだ。造型のほうが「遊星からの物体X」を参考にしているのが有名だが、別にそれだけじゃなくてヒトが乗っ取られるというテーマも参考にしているだろうし、その主題絡みでは他の映画やSFともつながっていく(他作もそうで、『星を継ぐもの』や「未知との遭遇」を織り交ぜた『七夕の国』など見られよ)。キリがないが、つまり『寄生獣』はこれだけの深度と射程を有している作品である。

ということを、『寄生獣』論もいかなる漫画論も1文字も読んだことがない者が想像と即興で書いてみたが、それにしても、漫画とは確固とした作品でありながら子供が受容するものだから、体の大きい子供にも受容されてその真意が伝わり難くなる。敢えて、「程度」が「高い」「と言い難い」バトルものを見よう。例えば、そこで「強さ」が本主題になることは滅多にない(原作カスで映画最高の「クローズ」が思い当たるぐらいだが、これとてテーマが「強さ」だけではない、他に、反社会的社会集団予備軍の構成員力学描写、など)。某大雑誌はじめ不良漫画のテーマはだいたい《ともだち》である。「CUFFS」なら(アクション)映画のコミック化。「疾風伝説」なら刹那の生。「餓狼伝」含め板垣漫画のテーマは《自我》(+漫画の表現可能性の限界追求)。『北斗の拳』も誰が誰より強いという話ではなく、作中何人ものキャラがしかも決定的場面で口にしているように、テーマは「愛」である。で、愛の主な機能が自己否定であるから、自己でなく他者存在に寄って行かすことであるから、だから最強の奥義が無想転生なのである。ストーリーテラーとしては右に出るもの無き川原の作品、特に「修羅」シリーズだが、これも見かけ上は「強さ」がテーマだが、やはり作中みんなが口を揃えて言っているように、テーマは「馬鹿」である。一定の生き方しか出来ない一途一徹ぶりを「馬鹿」と呼んで主題にしている。(なお『修羅の』最高傑作有力候補の第4巻(の章)が、上にアフィ貼ってる藤永『悲史』を参考文献にしている点、流石である。)徳弘正也ならテーマは大体《環境問題》《権力支配》である。これは分かるか。ちなみに管見の限りでは人体を写実的に描いている漫画が徳弘以外にない。(あと猿渡哲也ぐらい。ところで猿渡の作風の何よりも一目でわかる何よりも明白な何よりも言わないといけない特徴として怖気を震う陰惨で生々しいリアルな暴力の描写というのが有ってこれに関して比肩する漫画を見たことが無い。)アメコミなど論外だが海外でも写実的なんは無いだろう。と言うかビルダー写実的に描いてる画風など絵画史にも類例ないだろう。カイ・グリーンのは「写実」ではない。そんな徳弘の真価を誰が言ってる。

さて異星生物には名前がどうでもいい。名前が表示する自分など持たず昨日の自分と今日の自分が別物でいい。一方人間は名前を、神棚にまつる勢いでこよなく愛し、全人生一貫して同じであり続けるという悪夢のような自己を仮構し溺愛する。同一性病だ。病気は、同一性が見つからないことではない。同一性に執心執着することが病気なのである。そんなこと数千年前から分かってたのが宗教だが、名詞「宗教」には例のあの意味が貼り付いているから、負のイメージしか流布しない。問題なのは宗教ではなくて宗教団体。そのぐらい区別しろ

Tantra: The Supreme Understanding

Tantra: The Supreme Understanding

  • 作者: Osho
  • 出版社/メーカー: Watkins Publishing
  • 発売日: 2009/09/01
ラジニーシ・堕ちた神

ラジニーシ・堕ちた神

  • 作者: ヒュー・ミルン,鴫沢立也
  • 出版社/メーカー: 電子本ピコ第三書館販売
  • 発売日: 1991/12/01
    内容の真偽は知らんが、和尚にぞっこん惚れてから読むと、冷や汗モノに面白い。つくづく、
    批判者ほど面白いものが書ける(←中傷者ではないぞ 中傷者ども)
    Amaレビュー書いてるカスどもにはこういうことは理解できん。

何か語が有ると、それはそれに対応した何かを表示すると思えてしまう。言葉は使うたび発するたびに少しずつ意味定義が再創造されるという事がイメージしにくく、何よりも、容認し難い。そんなん「許せない」わな。これを大げさにやると脱構築だか何だか呼ばれるのだが、そもそも発話1個1個がどうしても小規模な脱構築なのである。これは、「存在」「歴史」「意味」「幸福」等のいかにも揺れ動いてそうな語に限った話ではぜんぜんなくて、例えば「パンツ」のつもりで「パンツ」と言っても相手は「パンツ」のことかと思うかもしれないというような事からも判るように、日常的即物的な語であってもそうである話である。それに留まらず、たとえ語と対象の対応が本当に堅実だと思えてしまう語群であっても、そうである。たとえ数学であっても。

  • 7 + 5000
  • 7 × 5000

の2つの「5000」は意味が別物であるが見た目は「同じ」「語」であってしまっている。数学記号ほど形態や意味内容に定義や中身の相違がありようがないはずの記号であっても、どこで使うかの文脈に応じてその「同じ」「語」の中身意味が変わる。この2つのは、かたや「5000個を足す」と言っており、かたや「5000倍にする」と言っている。事物は同じに見えるが違うということぐらい認識したい。

Hegel seems to me to be always wanting to say that things which look different are really the same. Whereas my interest is in showing that things which look the same are really different.
ヘーゲル哲学が要するに「異なって見えるものも実は同じ」と言いたいのだとしたら、自分は「同じに見えるものも実は異なっている」のだと教えてやる。

と言うように。なおヘーゲルはむしろ区別の哲学者であるが、ウィトゲンシュタインヘーゲルをロクに理解してないのはコイツならではであり致し方ない。

ところで、言っておくが、乗法はどっちがどっちに掛けるのかと話題になることが有るが、その話や議論をする者がすぐ見落とす点が有る。こういうことだ:

  • 日本語とかでは、「7 × 5000」は、「7が5000個ある」というである
  • 欧米言語とかでは、「7 × 5000」は、「7の5000が有る」というである

日本語は、数詞を、その数詞が係る語句の後のほうで副詞的に出してくるタイプの言語である。(日本人にとっての)「欧米言語」は、数詞を、その数詞が係る語句の前に付加するタイプの言語である(ラテン語なんかがまた違う)。よって、日本語では、左項が乗数ではありえない。数学の記号もまた読まれうる文章なのであり、そこにはいつもそれを読んでいる言語の文法が有る。乗数・被乗数に関する(お前の)思想以前の問題だ。自分の口が記号をどう読むのかぐらい分かるだろ。ただ、ここでも言っているが、現在では日本語(話者)が壊滅していて、「7個のりんご」(数学ではやたらとリンゴだが林檎も日本ではそこまで身近な果物じゃないだろ)などという日本語ではないゲロきも表現に誰もおかしいと思わないようになっている。とはいえ、日常会話という言語の真実の場面ではこんな表現をまずしないのだししたら不自然さを0.1ミリだけでも知覚はするのだから、おかしいことが理解できない訳ではない。やはり、みんながやってるからおかしいと思わない+感じないのである。つまりどっちが掛けるの掛けられるの問題は、数学というより言語学、むしろ文体論の問題なのである。この観点、ここまでの問題意識が無い程度なら触れてるページもあるにはある

Another Ghost

Another Ghost

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2017/03/15
  • メディア: MP3 ダウンロード

名前の話をしていたが、名前が自分ちゃんにだけ貼り付くとは言ってない。万物に貼り付く名類すべてのことを言ってる。名付けることは事物の創造かも知れないが、そうすることでそれ以外のものを見えなくする何かの誕生は他の可能性の死と抹殺を内包含意する(思想が大好きなテーマ)。これは記号というものの宿命である。記号は伝達の道具でしかないのだが(これこれ参照)、使ってる人間の側で勝手に暴走してしまう。その記号が見せるものしか見えなくなる。その記号が分節する通りにしか世界を経験できなくなる。

そういう記号病の1種としてメトニミー病がある。

  • どんなペンでも剣とたたかったら折れるのだからあの格言はアホ発言なのだが、ペンが文筆のメトニミーだから仕方ないのである。こいつらに紙と机と出版社は不要だ。
  • アルコールドーパミン、テストステロンやアドレナリン、「タンパク質」やGDF-8(抑制)、などは、それ自体はただの1物質にすぎず、それが何かから得た効果と何かの最終的効果との橋渡しをして初めて意味があるものであり、鎖の輪の1つにすぎない。こんな語彙にバカみたいにしがみつくな。もっと雅な言葉を使え。だがアホは、「酒(類)」と簡潔に一言いえばいいのに、必死になって「アルコール」を連呼する。お前もうエタノール飲「酒」しとけや。
  • 「床」に就くというが、布団は敷かないのだろうか。床から数10センチの高さにあるベッド上も「床」と言ってしまう。
  • こんなんはいいほうで、欧米言語には、ヤることをすぐ「ベッド」とホザくゲロくそキモい語用がある。《それはベッドの上のテーマだ》。くそキモ!!
  • 「耳」で味わうとか「目」が肥えているとか言ったりするが、耳目が飲食する比喩表現は実はどうでもよくて(アホはこっちに注目するだろうが)、視聴覚体験を言いたい所でいちいちお前の汚い耳や糞付きのおめめを想起させるなボケというのが問題である。なまなましい表現をするな気持ち悪いんだよバカ。耳介には聴覚機能はない。ドリアンなめんな。明日から、「側頭回」で味わうとか「外線条皮質」が肥えているとか言え。
  • タイヤの本体はタイヤよりもチューブである。「タイヤ」は実はメトニミー。そう考えたらあれもこれも、と無数に思い付くよ。
  • 総金属制のステージであったとしても、「檜」舞台と言わなければならない。
  • 思想系の文章では人類はパンという1種類の炭水化物しか食べない。「人はパンのみ…」お前は自分がコメ食国民ということも分からないのか。どこまでバカなんだ。
  • メトニミー本場だと日本語よりもっとサブいクソ表現に溢れかえってて、「富」と言えばいいのにバカみたいに「Gold」を連呼するが、金のような、醜い色の発光しかノウがないボンクラ金属をクローズアップするのを止めろ。人間は金銀ダイヤが大好きだが、こんなもの、高級というしょーもないもの以外にはなんの取り柄もないカス鉱物だぞ。鉄鋼が正義だ。きんもいシルクやウールじゃなくてポリエステルが正義だ。

飽くまでpars pro totoがキモいのであってtotum pro parteは問題にならない。つまり呼びやすい物・ブツ・物品に視点が固着して全体や全体連関を逸しているのがメトニミーのアホさキモさなのである。なお、くりかえしくりかえしくりかえし言うが、ぱっと思い付いた一例を書いてるだけだから、普段から不快だったメトニミーを、後生だから、自分のほうで思い付いてくれよ。そうして、いつの日か、クソさぶい「悪魔の辞典」に替わって「糞メトニミーの辞典」が出来たらいい。また、すべてをカン違いしたくそサブいアンサイクソペディア(アホが嬉しがるアホによるアホのためのサイト)に替わって「糞メタファーペディア」が出来たらいい。

しかしどんだけキモくても、なーも意識せんとキモ表現をしている。糞メトニミーで溢れ返り、定型文句で溢れかえり、自動機械のように会話する。「おつかれさま」と勝手に疲れさせよる。勝手に老いさすなボケ。老人だらけの社会にする気か。Age is just a number!「雨が降る」はずはないのに、そう言う。降るのは水で、降水現象全体がさらに降ることは出来ない。ただこれは【水が降る】と【それを雨と言う】が「バチッと短絡」(笑福亭存男)した移轍の一種だから、別にキモくはない。とにかく、問題は意識。本シリーズ冒頭の意識の問題に還るが、意識というのはいわく言い難くムズいもので、してる時にもしてないものであり、体運動に関しては山ほど話があるから発話に関して見ると、意識してしゃべっているようで、その言語の習慣にしゃべらされてることがほとんどである。発話までは意識があるとしても、その文句が口をついて出てからの一連のアクションは自動的である。入れ子文1項目ごとに意識してたら舌が回らん(←糞メタファー)。例えば無内容な定型句「人それぞれ」とか「その人によって」とかを言っているときには、【人間というのはその人になってその人の状況になってみないと分からないことがあって(と言っても考えたらいつなんどきでもそうなのであって「ことがあって」とかいう次元でもないのであるが)自分とあなたの現在のプロパティではそれを理解することができないから我々は沈黙するしかないですすいませんしばいて下さい】というようなことを言いたいのであるが、上記「」内しか言えないのである。それしか出てこないのである。同じく、「自己責任」という不潔で腐りきった言葉をホザく時に実際に言いたいことは、【私のせいにしないでください、私は責任というものを負うのを病的にコワガっている臆病キ〇ガイです】なのだが、決まり文句しか発音できず入力できないのである。こうやって、口をついて出る定型句、指をついて出てくる言い回しだけでものを言っているのであり、そうするしかないのである。

そう言うことになっているからそう言っているだけなのである

だから言葉をめぐる一喜一憂がどれも錯覚に基付く滑稽な茶番なのである。冷たい言い方をされて突き放されたり、納得のいかない理不尽なことを言われたり、デリカシー(死語)や思いやりのない言葉を放たれたりして、それをグジグジ悩んで積年の怨恨を募らせて、ネットに「質問」するという迂遠な仕方で怨念のゲロを吐いてたり、機会があれば派遣バイト君に八つ当たりしたり、GoProかぶってビルから飛び降りてみたり、モックンチャレンジしてたり、出家したり、出馬したり、出奔したりしてるのだろうが、ここで悪いのは、言っていることを額面通りに受け取ったお前のほうであることも往々にしてある。よく考えろ、言いよったそのそいつは、大して考えもなしに言っているのである、なんぼ自分では考えてる=意識してるつもりでも。人間は物を言う時にいつもいつもそないそないに考え抜いては言わないし、考え抜いて言ってても、この時にはこう言うというパラダイムの有限数の規定

脳内パラダイス(チームK Ver.)

脳内パラダイス(チームK Ver.)

  • AKB48
  • 発売日: 2014/04/01
  • メディア: MP3 ダウンロード

通りにしか文が出て来ないのだし、さなきだに、自分の言語の時代上社会上文化上の慣習制約を超えた言葉を出せないのである。お前に言葉かけてきてる相手は、対話プログラムが埋め込まれてある自動機械として有限個の中から選択された《定型句》を出力しているのである。ガチャガチャに傷付けられてどうする。言葉とは豊かなのだろうか?いや、備わっている発話用言葉セットはたいっがいショボいのである。人は同じことしか喋らん、呆れるほど。

もっと卑近な例を出しておこう。よく会話の場面で、特定の人物名が出ると異様にウレシがることがある。ああ〇〇さんね、ウヘヘヘヘヘ。ああウレシい。あの人の名前出たらなんか安心するわー。やっぱ〇〇さんだよねー。人物名以外に専門用語が出ても、こんなんである。その会話してる奴らの業界用語が出ると、一気に顔がほころびる。空気がゆるみに緩む。「なごむ」。こんなシーンあるよな。知的程度が低い層ほど会話がこればっかりになるが、それなりの水準同士が喋ってても5分に1回はこれになる。おい、無自覚無意識すぎて考えたこともなかっただろう。これも、定型語句のチカラ、定型語句の快である、イイように言えばな。ようするに、共有してる同じ語=同じ共有心象に安心安堵しているのである。いつものおなじみが登場してホッとしてるのである。旧知のパイセン・懐旧のオールディーズ・うちらの御旗・おれらのトレードマーク・ぼくらの合言葉が、ウレシくてタマラないのである。ここでも書いたが会話状況では言語能力が狭窄しており、情報交換にふさわしい場とは言い難い。そんな状況下で、認知のスタミナが疲弊しているところで、よく知ってて考えなくてもワカる例のアレが出ると、思考停止させてもらえて心地良(よ)いのである。こんなことばっかしとるから、会話とは、どんなものであれ、その本性から、知的さとは縁遠い、おさるのグルーミングなのである。廃止しようぜ。

以上は、もちろん、語彙が貧困化しているらしい問題とは、違う。昔はもっと多彩な語彙を当てていた事柄に一辺倒の語彙しか当てなくなっている、語彙が貧しくなっていってるとついつい懸念してしまうが、一方で昔は存在してなかった語彙が大量に入ってきており出来ており、また、「炭水化物」云々→「糖質」云々のように表現が正しくなっている例も有るように、日本語全体として見たらコトは悪くなっているのか良くなっているのかは早計できない。貧しくなっているように見えても、それは特定の片隅(例えば形容語句や情緒表現や敬語のような語彙項目?)でそうなのであって、語彙総体で見たらどんどん精細に表現できるようになっていっているのかも知れない。いややはり数百年の傾向で見たら語彙が少なくなっているのかも知れない(という可能性はありえないのだが)。しかしすべてを合算した算定などあろうはずもなく、どっちなのかの判断はまずできないだろう。「広辞苑」はぜんぜん包括的ではないし現今のと比較できる「広辞苑」が各時代に有ったワケではない。こんな当たり前なこと書かすな。(それに、個人の語彙「力」とかいうクソどうでもいい話を嬉々としてホザき倒すばかりで言語の保有語彙庫という話は考えもしないのが低能論者どもだから、なおさら進展のなさそうな話だ)。文学に限って言っておくと、旧時代の文豪連に比べて如実に貧弱になっている表現も数多くあるだろうが、他方で物品の名称が異常に増えており、まだ誰もやってないだろうがAmazonから商品名や型番等をコピペして小説書いてたら、明治大正昭和の古典作品たちとは比較を絶して複雑豊富な物品呼称で溢れかえることが出来る。昔は「縮緬」「紺絣」「友禅」「長襦袢」しか無かった。

これと関連して言っておくが日本語が欧米言語に比べて語彙が少ないと言って例えば形容詞などを例示するのは完全に偏向である。すべての品詞と分野を総当たりしたら彼我の相違は果たしてどう見えるだろうか。さらに次の事など、もうなんなら全人類が見過ごしているかに見えるほど、誰も言わない気付かない:翻訳において、原語が多くの含みを持っているため訳語のほうで色々と言い換えなければならない、だから訳語のほうが値打ちが低い、と言う。いや、逆だろう。原語のほうが、いろんな意味をその1つの語でしか言えないほど語彙貧寒なのである(「Wesen」)。一方訳してやっているほうは意味の差異に応じて語彙も千変万化させられる豊かな側なのである(「奴」「ブツ」「モノ」「物」「本質」「在り方」「生き物」「コト」「大事」)。とはいえ、原語が名詞だから訳も名詞というのがそもそもアホの低レベル翻訳であるから、この話は、考えたこともない奴は熟考してさらせというものだが、翻訳論としては低レベルの話である。

 

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