地上最強のブログ

しばいてくぞ

私の読書歴⑥~『吾輩は描である』『吾輩は吾輩(no3b)』『<吾輩>のメタフィジックス 』『坊主ちゃん』『好色夜叉』『意織に直接与えられた試論』『存在と自慢』『スラム・ダスク・ティル・ドーン』『瞬・瞬獄殺・殺』『ティファニーが朝食よ』『俺たちに向かって撃て』『明日に明日はない』『マサルの女』~

世界の人へ(Type-B)(DVD付)(特典なし)

世界の人へ(Type-B)(DVD付)(特典なし)

  • NGT48
  • 発売日: 2018/10/03
  • メディア: CD

 

前回の記事から

  • こういった、単なる物体に対する人類普遍のフェティシズムは根強いもので、例えば、宝石(ただの)の商売が成り立つのも、人類が普遍的にバカだからだ。これらは幸福の数珠や壺や財布がいかがわしいのと同じぐr … ではなくてそれ以上にいかがわしい。
    これが、審美なら、まだいい。それはそれ自体が目的で終着地点だ。どうのこうの言いようがない。花はまったく綺麗に見えないがそれがそう見えるのなら、仕方ない。愛でとけ。しかし、花を添えたいのは普通はそこに心や礼を籠めているからだろう。花を手段としてそういった内在の本質を表現できると思っているのだろう。それも方便でそうしているのなら勿論べつにいいが、大方は本当に花に自分の望む本質を見ているのである。花が病気の快復と本当に関係するのだとマジで妄想できてしまっているのである。方便になってない。
    そうして、葬礼に花の出番となる。死ぬ以上は、花がもたらす(ことになっている)如何なる何も一切享受できなくなるのだが、それでも構わず、死んだら必ず花を添えてほしいのだろう、有象無象のガラクタ、思い出の品という名のゴミやその他と一緒に埋めてほしいのだろう。マイナスイオン埋めようぜ!
  • これほどバカなことが有るだろうか。ヒトというサルは、バカが昂じるあまり、何と、死んだ後にまで何かをしてもらいたがり心を示してもらいたがるのである。一体に、副葬品などというものほどリクツの上でおかしいものは他にない。何を一緒に埋めてもらおうが、宇宙から完全に消えているお前にはそれは一切全く何の関係もない。ゼロに何を足し算してもゼロはゼロのままだ。死ぬ奴は算数の初歩もできないのだろうか。
    従って当然、「死」「後」にまつわり関わる一切合切がぜんぶ何もかも、ゼロの中のゼロであり、無駄の中の無駄であり、ただただひたすら、無でしかない。「」なぞ、なんっっっの意味も無い。それがウレシいのは、最初から最後まで、迷妄でしかない。「死後」なんて無い。そんな「後」なんて無い。論理の初歩だ。「後」の文法も知らんのか。死ぬんならちゃんと体養分を土に返却してください。棺桶に閉じ込めたり 焼いて空中散布したりするなバカ。
    ただまあ、ここまで無駄でバカげたものなら、さすがに疑問視している人もいる(そしてその疑問に価値観をアップデートできないバカどもがえんえんと自分納得説得を糞垂れ続ける阿呆風景。このページの回答者ども、こいつらは、ただひたすら自分に向かってベラベラベラベラ大丈夫だよ大丈夫だよと言い聞かせているだけの自分慰撫サルのヒトモドキにすぎない。一聴だに値しない)。
  • 当たり前すぎることだが、死にまつわる全文化行為が、意味がなく、せいぜい、葬儀社などの雇用創出の意味、つまりカネの発生、これしか意味が無い。完全に決定している。死体は脂肪やタンパクの集塊でしかないからその洗浄も時給のための意味しか無い。
    そもそも人類はカラダを大事にしすぎる。不健康になりたがっているだけの運動しない奴や排煙人などは論外で話に含めないが、そも身体を異常に尊ぶのは、刑法成立以前の事柄であろう。カラダが神聖なのだろう。過保護文化はこのサルの社会発生時点からのことだろう。国民の身体だの王の身体だの言うはるか以前に、集団を形成し出した時点から、「他者の身体」は、お花畑満開の現代思想のタームではなくて、本能的に神聖ニシテ侵スヘカラサル尊厳物だったのだろう。
    が、パフォーマンスの世界に居る人なら誰でも知っている事だ(し、居なくても誰にでもワカルことだ)が、おからだを大事大事してかわいいかわいいと過保護していたら、人生には何も咲かない。何も成し遂げれない。社会や文化にもたらすもの少なくなる。人体を後生大事にしていたら、人類に貢献しなくなる。《国民の身体》にしたって、GDPや国防に徴用されているだけだしな。
    こんな時、他生物の視点が啓発的である。他生物からしたら、人体なんぞ、大したものではない。捕食者からしたら、そんなもんは、無数に替えが効くエサだ。細菌(という地球の真の主人公)などからしたら、生体組織にすぎない。ウイルスからしたら、単なる情報コードにすぎない。その神聖さなど 人バカのオツムにしか無いことを、他生物ならみんな知っている。
    サヨナラのカナシバリ

    サヨナラのカナシバリ

    AKB48

    • 発売日: 2013/12/11
    • メディア: MP3 ダウンロード
  • 情報は情報にすぎない。それで思い出すが、どこの誰であっても、情報自体に目を向けることが出来ない。それができている人に会ったことがないし1人も知らないし、自分にも出来ない。どこのどいつも、情報をが発したかにしか目を向けられない。人類一丸となって、知に関しては、」病なのであり「」病なのである。言った人が歴史人物だろうが無名のツイートだろうがカンケーねえよと理解できるヒト個体が存在しない;そちらしか正しくなく、知は知でしかないのに。どうしても、知を「誰」や「人」で汚染してしまうのである、この知能のある(らしい)サルは。
  • そこまで「人」神聖視の病気に侵されているのだが、それどころか、情報が記されてある物体にも病的神聖視を示す。とかいう紙ゴミがありがたくも貴いのである。何に書いてあっても情報は情報にすぎず、それの媒体は媒体にすぎないのに、やはり、いちいちフェチに汚染されるのである。フェ〇とまぎらわしいねん!!!!フェマ〇チオ!!!こうして、羊皮紙だの木簡だの稀覯本だの古文献だの等々が保護される。そんなん 画像データにしてあとは焼却してまえばいいようなきったねえ物なのに。

次回の記事に続く