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韻について ~青い空の涯はどこ?~

前回の記事から

 

鳥は青い空の涯を知らない(紅組)

鳥は青い空の涯を知らない(紅組)

  • SKE48
  • 発売日: 2012/09/19
  • メディア: MP3 ダウンロード

さて、神曲について述べていたのだったが、今回は知られざる神曲について

 

と述べている90頁では、曲が音節の元々の長さを変えるという音楽の普通の処置をも難じているのだが、それはともかく、コラール検討した次に、それ以外の歌詞作品でもメロディーと韻律が分裂しているとこの頁の下段で述べつつ、次の91頁から、「韻律というものが有る〔wirklich nach dem Metrum komponirt〕」クロプシュトックのオーデを検討し出す。クロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock, 1724–1803)ならさすがに知名度が有るだろうが、それでも全然低い今の知名度に落としめられる人物ではない。この人こそ、今見ている『試論』1冊単発で終わったモーリッツと違って生涯ドイツ語詩言語創出に取り組んでいた人物であり、詩学的に言えば、ゲーテも含めて18~19世紀ドイツ語叙事詩の担い手たちがこの大洋の中の各海であり、ヘルダーリンが水たまりである。モーリッツが例外視しているのがこのクロプシュトックであり、93頁までその作品を2点挙げて検討している。どちらもクロプシュトック独自のStrophe(具体的にOdeがどんなものかというのは前々回記事に貼ってるリンク先のWikipediaにいくらでも例が載っている)。93頁下段で、クロプシュトックのOdeが音楽が湧き出してくる韻律にしてあるものだと述べ、次の94頁、そのように楽音を知覚するにはクロプシュトックOdeを漫然と読んでたらいかんと注記しつつ、次の事を書く:

で、詩(=韻文=詩行)の中には、Periode、同一形式で周期回帰してくるリズム群があって、ぼっけーと読んでるだけでは知覚しきれるものでもない。が、ぼっけーと読みたがり出しよったものだから、周期の区切りに脚韻というのを置くようになった。こんなものが置いてあったら、周期というものが、曲なし・ぼっけー読みでもアホほど知覚できてしまう。こうして、Odeみたいな形式がっつりのリズム周期群を作れなくてもよくなった。パチモンが簡単に作れるようになった。
(Weil es nun aber doch bei Versen auf dieß immer in gleicher Ordnung Wiederkehrende, welches durch das bloße Lesen nicht hinlänglich fühlbar gemacht werden kann, am meisten ankömmt; so ist, da man nun einmal Verse bloß lesen wollte, an die Stelle der zusammengesetzten Silbenmaße, mit Recht der Reim getreten, der das immer Wiederkehrende, auch ohne Gesang, dem Ohre hinlänglich fühkbar macht, und also doch etwas dem ordentlich abgemeßnen Verse Aehnliches hervorbringt.)

このように、„immer in gleicher Ordnung Wiederkehrendes“が韻文の主要特徴である。これが絶対の命とまでモーリッツは言っていない(„am meisten“)のだが、これ以外に韻文の特徴など要らんと言える絶対の命だろう。でこれが周期し続けるのが韻文、PeriodeまたPeriodeが韻文、その区切り目、書面上で言えば詩行末に、はい1周したよ!!といちいち言ってくれる目印が脚韻である。わかりやすくしてくれるええものなのでなくて、周期が感知できんバ感性に合わせた代物なのである。「わかりやすい」と「ただのアホ」が  紙一重   同一物いう問題。脚韻(der Reim)とは、

詩を知らん者にも聴こえるぐらいのうるさいものであり、こいつと引きかえに、音節長短による音響交響美の世界が失われたのである。
(Der Reim ist ein so hart auffallender Schlußfall, daß er auch dem ungeübtesten Ohre unmöglich entschlüpfen kann, für welches alle die feinern Schönheiten des Silbenmaßes verlohren gehen würden.)
(95頁)

そして近代に古典韻律で詩作し出した人たちも脚韻に蝕まれてしまっていることに言及、とはいえ、ラームラ(Karl Wilhelm Ramler, 1725–1798)ウツ(Johann Peter Uz, 1720–1796)グライム(Johann Wilhelm Ludwig Gleim, 1719–1803)ハーゲドアン(Friedrich von Hagedorn, 1708–1754)ヘルティ(Ludwig Christoph Heinrich Hölty, 1748–1776)フォス(Johann Heinrich Voß, 1751–1826)ビュルガー(Gottfried August Bürger, 1747–1794)という人々だと脚韻も悪くないものになっていると言う。ここで今挙がった諸人、すべて、古典韻律で詩作していた詩人たちであるが、古典韻律詩人たちのごく一部である(と言ってビュルガーの『ミュンヒハウゼン』ぐらいしか知らんのだろお前たちは)。その他にも、脚韻を完全無価値と決めてはいず(完全無価値としか思えないのだが)、そうして97~98頁にかけて脚韻にかんして述べ、98頁で脚韻の話を打ち切る。

上で飛ばしたクロプシュトック作品の検討を見てみよう。まずThuiskonの第1詩節を挙げている:

Wenn die Strahlen vor der Dämrung nun entfliehn und der Abendstern
 Die sanfteren, entwölkten, die erfrischenden Schimmer nun
  Nieder zu dem Haine der Barden senkt,
   Und melodisch in dem Hain die Quell' ihm ertönt;

図式が

∪∪-∪ | ∪∪-∪ | ∪∪-∪ | ∪-∪-
 ∪-∪∪ | ∪-∪ | ∪∪-∪ | ∪-∪-
   - ∪ | ∪∪-∪ | ∪-∪-
    ∪∪-∪ | ∪∪-∪ | -∪∪-

というものであり、このOde、クロプシュトックのオリジナルの詩節(Strophe)である(クロプシュトックは勿論だが他にプラーテンとフォスに数々のオリジナルStropheがある。他の詩人たちはこの3人ほどOdeに取り組んでない。)。「∪∪-∪」等の各脚だが、ここでも述べてるKolaというものと重なっているし、このリンク先で見ている文法上の「句」分節なんか考えながらだと理解しやすいだろう。この図式はモーリッツが掲げているもので、「nun entfliehn und der Abendstern(∪∪- | ∪∪-∪-)」の所、「die erfrischenden Schimmer nun(∪∪-∪∪ | -∪-)」の所、「in dem Hain die Quell' ihm ertönt; (∪∪- | ∪-∪∪-)」の所で図式と違っているが、違っている箇所が第2~4詩節で合ってたりするのだから、悪魔で便宜的図式。全部で詩節4つあるのだが、詩節ごとに微妙にリズムを変えるのである(92頁で詳述している)。それによって図式図式しない妙なる調べになる。

この韻律自体がメロディーを含んでいて、読んだだけで、否応なく歌になる。
(Das vorgeschriebne Metrum in dieser Ode bildet schon von selbst eine Melodie, die sich einem beim Lesen fast unwillkürlich aufdringt, und die Rede zum Gesange hinüberzieht.)
(91頁)

そして型が毎Stropheごとに微妙に揺らぐことで音楽感が一層如実に出るのであろう。こういった揺らぎを混入させない厳格なOdeを作っていたことで知られている人物にプラーテン伯(August Graf von Platen-Hallermünde, 1796–1835)がいるが、見ての通り早逝でテキスト量が少ないのが惜しむらくも惜しい。次に、 Die Sommernachtの第1詩節を挙げている。この作品も韻律(„Versmaß“)が旋律・歌謡そのものであり、特に高低をやや多めに付けるとそう聴こえやすいと言う。

 

自由の彼方

自由の彼方

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2015/01/07
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