地上最強のブログ

しばいてくぞ

やらされてるだけです

Es gäbe kein Leiden, gäbe es nichts Organisches d.h. ohne den Glauben an Gleiches d.h. ohne diesen Irrthum gäbe es keinen Schmerz in der Welt!

(Nietzsche, 1881,11[254])

 

(なぜ苦痛や不幸が有るのかというと、自分と異なるものを異ならせまいとするモノ、すなわち生き物というのが存在しているからである。こいつらは同化ということをしようとするのだが、何かが何かと「同」じなどというのは誤りでしかないのだから、当然うまくいかないことがなんぼでも有り、この世の諸々の苦痛が生じることになる。

ニーチェ

 

前回のシリーズでも主に論じたことが【他人と同じことはするな・他人と同じような奴であるな、そんな人間のクズになるな】という命題だったのだが、この長年の問題意識がもう1個の問題意識と不可分であったし別に「もう1個」と別物でもないのだが、そのもう1個というのを言うと:フツーでセイジョーで罪を犯していない人はそうでない逸脱者らより望ましく好ましく社会に健全な存在で一点の疑いもなく善良で市民及第合格で心がキレイで誠実で美しい〇〇人であるということなど別に全然なくて、どんな「世間」「様」に《胸張って》顔向けできるつもりの「立派な」自他称模範的市民村民公民公僕であっても《一皮むければ》(正確な言い方で言うと【状況さえ与えられれば】)どんな悪逆の暴虐に走るか知れたもんでないしなんぼでも走ってきたし、むしろ犯罪史的なんやジェノサイドの歴史的なんやを見ると健常側大勢側大衆側普通側こそがどんな狂人よりも狂ったキチ〇イに化ける実例が見つかるばかりであるが、是如何というものである。オカシイほうよりも、オカシイと非難しているキレイでクリーンで善良で《罪もない》「無辜」らしい連中のほうが悪質なことがなんぼでもあるし、なくてもいくらでもそうなりうるし、世の巨悪や成功者や金持ちに義憤立腹し自分と自分が属している何かだけは完全正義だと信じているヒステリックな生き物のほうがよっぽどか異常者に見えるし危険人物に見える。

こういった話は、勿論、自分が気に食わない人間がいたらすぐこれを浮き立たせてて「特別」側に仕立て上げて「へんなひと」「変わった」人と烙印を押してするという広範普遍的な本能行動なり、侵略者汚職者失政者に精神疾患的なもの等々をすぐ見たがろうと必死になる言動のアホさ愚かさ無意味さ無内容さに関する話でもあって、己の我とそれにそぐわない《あの人たち》を設定するアホ(無)思考全般に関する話であるから、臨床的な話や特定の人物の事細かな分析なり特定の病状や病的何かの話に特に関心が有るのではない。が、それにしても、

一流の狂気 : 心の病がリーダーを強くする

一流の狂気 : 心の病がリーダーを強くする

  • 作者: ナシア・ガミー,山岸洋,村井俊哉
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2016/02/29

    題名と中身が違いすぎているぐらい違っている。このクソしょうもなそうなタイトルは、途轍もなく面白い中身をまったく表していない。

という本が、特に斯様な問題意識を扱っているものではないものの強力な支持を与えてくれるものである。この本は、そもそもからして、この記事でも書いたように世の言説や研究に無視されているなと常々思っていた「」をちゃんと査定して位置付けていてしかもこの無視の内実事情も説いてくれている点で稀に見る啓発的なものである。その時点ですでに超良書ではあるのだが、ただ、扱っている人物たちが0.0000000ナノマイクロミクロンも興味ない連中だから手放しで買い得と言いたいほどには評価もできないもので、しかしそうは言うものの、以下のような言い方などはしていないとはいえ以下のような話を強力に支持してくれるような内容である:この世の何事に於いても正常でフツーの精神の人間が好ましいのでは全くなくてこいつらこそがバイアスだらけの一種の病的状態であるということ、精神疾患者はむしろ実はそういった病状(本書との関係で言うなら、現実を正確に認識できない楽観視のバイアス)が取れている部分がある者なのであって(特に危機的時代の)為政者にふさわしい者であるということ、健常側平均側普通側こそが創造性にも現実認知にも共感力にも心の強さにも劣った欠落した問題者側であるということ(そしてこの4つが双極性障害疾患の人だと好成績を示す傾向にある)、そしてこいつらがこの欠陥ゆえの失策や暴走を犯し且つそれを認めようとせずしかも他人と同じように犯し他人も同じように犯すものであるということ・こいつらの悪弊として他人とまったく同じようにふるまうというのがあるということ、こういった話を強力に支持してくれるものである。

さて「一流」も「狂気」「リーダー」もこの本の中の歴史人物たちもクソどうでもいいからこの本の話はもういいのだが、この本が扱っている疾患の人らと例えばがっつり付き合いたいかというとそうでもなかろう(この本もまた述べていること)し実際シンドいそうだ。かと言って健常人もその凡庸さと凡庸な認知欠陥の数々のゆえに付き合うに大変シンドい連中である。

然るにそんな疾患の人々も、軍指揮官や国家元首や運動指導者やといった然るべき居場所にいれば、賞賛されてきたような業績を成し遂げる、ということであるようである。そうでなくてフツーの暮らししてたのなら、おそらく生活に支障をきたす可能性多く、おそらく外来などに掛かっている可能性もあり、おそらく社会人として十全に機能していると言い難いようになっているかも知れない(とはいえ、全然機能していず生活どころか世界全体に支障をきたらしている奴が膨大な数にのぼる一般人・フツー人・健常人の奴らよりはずっとマシだろうが)。そんな、友人ならおそらくダルいのだろう者が偉人として輝くのはそういう位置・状況・立場に就いたからである、そう考えるのも大事であろう。これは、友人ならゲロくそダルい奴らである健常側の凡庸人である「ホモクリット(homoclites)」をなにかしら機能させるにはそういう機能をこいつらが発揮する場所や立場や地位や境遇に放り込んだること、こいつらの機能発揮に関しては実はそういう観点が重要であること、むしろそれしか無いとすら言いたくなるものであること、といった話を思い出させる。

思い出せてよかった

思い出せてよかった

  • STU48
  • 発売日: 2017/11/22
  • メディア: MP3 ダウンロード

例えばこの記事に書い(て参照ページのリンク貼っ)た【A国とB国の臓器提供同意者数がなぜ異なるのかという問題】だが、自分が死んだ後に臓器あげますという人が多いのはそういう「善意」ある人が多いからなのでもなければそもそもこれが「善意」行動だからなのでもなくて提供するように制度上決まっているからであり提供が社会的デフォルトだからである。その反対は酷薄者の国なのではなくてただ国が提供デフォルトを決めていないだけである。善意や好意のゆえとされる行動を取るのはその行動xを取るようにという決まりXがあるだけだからということが往々にしてある。もっと言うと、善意や好意が有ったとすらしても、それはその善意好意yを持つようにという雰囲気Yがあるだけだからかも知れない。

我々はやらされてるだけであることが多く、思っているよりも多いのかも知れない。それは自分の意志(なんてものがあるならな)なのか?そこに居るから・それをやらないとコワいから・そうする立場だから・それしかできないから・ソウスルコトニナッテイルからやっているだけで、そこにその人の人格の責任なんて実は問いようがない(立法司法のフィクション体系物語体系の都合を別にすれば)のかもしれない。

といった問題の中でもアホがすぐウレシがって注目する歴史的社会的大仰な大大大大問題に関しては上のほうでリンク貼った過去記事の中に貼ったリンク先参照ページなど参照したらいいのだが、他愛のないクソ事例なども見てみよう。

A国には、特に勘定時レジなどで、【釣銭を手渡しする】という非常に迷惑で気持ちの悪い風習が有る。やるほうもやられるほうも気持ち悪がっているだけで、百害しかなく一利もない、無意味でひたすら有害な奇習である。考え広めた奴らと従事している奴らの性根と(無)感性、「お」客様には「お」金などは手で手に渡すのが礼儀なのよこれこそが「接」「客」なのよというゲロ気持ちの悪い根性、が見え透き渡った、催反吐性のぬるま湯行動である。釣りなどそこらへんに置いたらいいハナシなのだがそういう訳にもいかず「手と手」(ゲロ!!!)を触れさそうとする。(これに似た心性が作った風習で【エレベーターに乗ったらボタンのそばの者が他の者に行き先階を尋ねて押してあげる】という気持ち悪いにもほどがあるゲロ奇習がある。この記事この記事でも書いたがエレベーター利用時にA国民はその国民性の気持ち悪いところを最も目一杯発揮してくれるものである。「なんかいですか?」←ころ〇ぞ。)

例えば、万引きを防止するために、万引きするなと客に対して伝えるのでなくて、そうやって客にもっていくのでなくて、買った証明にシールテープ貼るという風にして店側自分たち側に負担をもっていくというやり方が有る。あくまでシール貼ってるだけですよ♡お客様に万引きなんて疑っていませんよ^^ということなのだが、気持ちが悪いにもほどがある。そう、ここは、波風を死んでも立てないように死力を尽くしつつ且つトラブルのトの字で起きたら死ぬという異常生物が住まう国である。ご賞味あれ。

そんな行動を取るこんな生物となると記号操作にも斯かる死力使命が傾注されており、例えば、「訴えたる」と言うと物騒だから「内容証明」などと意味不明をホザき、「怒る」と言うと物騒だから「キレる」などとボカしホザき、「こ〇したい奴」と言うと物騒だから「こまった人」などとトボけホザき、「殺傷」と言うと物騒だから(どれだけ「乱」れていなくても)「射」などと間違えホザき、「大声」と言うと物騒だから(どれだけ「奇」でなくても)「声」などと間違えホザき、「睡眠薬」というと自殺にまつわってしまうから「睡眠導入剤」(「導入」!きんも!!)などとカマ臭くナヨ臭くホザく。その他おまえが思い付いた・思い付かなければならないA国の数々のクソ言語使用、どれもこれも、第三帝国言語・LTIよりも遥かに悪質で全体主義的で社会腐蝕浸潤的で人心荒廃的で、何よりも、気持ちが悪い。

とはいえ、そんな風に言語を使用するようにという強制力が有るから気持ち悪いことをホザくのであって、中立化無性化無調化無難化が大好きな言語だからその話者は無難語で喋るのである。どだい、させられているだけです。シールを貼るのも、相手を気持ち悪がらせようという意図があって貼っているのではなくて、また業務への忠誠心が有るからそうしているのでもなくて、ソウスルコトニナッテイルから貼っているだけなのであり、やがて意地でも貼らないといけなく思い込み出すのであり、元々は無かった業務義務感を勝手に発生させ勝手に内化するのであり、そうして結局客とケンカになるのである。また、釣りを手渡されているほうも気持ち悪ければ手渡しているほうも気持ち悪いからレシートブロックなどともっともっと気持ち悪くなっていくゲロ循環を誰も止めれないのも、そういう慣習があるからであり慣習の力に逆らうことなど誰にも出来ないのである。

A国人は悪意があって気持ち悪いわけではない。実際、近隣のB国では、釣り銭は、正しくも、レジ台に置いてくれるものであり、投げて置いてくれさえするものであり、すがすがしくて真実に「気持ちのいい」接客であり、手に置かれるとよく見えない額面もはっきり見えて確認できるし、手のひら上やレシート上に置かれると財布に入れづらいという迷惑も免れた、そんな完全に正しい行動であるのだが、やってる人が正しい人だからやっているのではなくて、こういう渡し方をする慣習だからそうしているだけなのである多分。しかし慣習等による元強制行動は心も作るもので、A国人にはぬるま湯が正しいものになりそういう規範が内化され感情化すらされるもので、こいつらがB国で釣りを渡されると横柄で接客態度悪いと感じことになる。職務や立場、慣習や風習によって、人は、どんな気持ちの悪いものでも気持ちよく感じるようになり、どんなに正しい清潔な行動でも不愉快に感じるようになる。

例えば、「あやまる」や「謝罪」という、宇宙史上最高最糞に気持ちの悪い価値と慣習が定着すると、これが心の底から大好きにすらなれる。ただ自分があやまるだけなら別にこんな原始人信仰の言霊風習など付き合ってやりもするのだが、問題はあやまられる時で、これは流石に忍耐の限度を越えてキモチが悪い。人間は対立し齟齬し摩擦し合うものなのであってそれは仕方がないのであって人間関係が潤滑しないと地球が砕け散るワケでもないのだから、こちらが気に入らんのならいつまでも怒っていてもらっても全く構わないしずっと悪意なり憎悪なり敵意なりを持っていてもらったらいいのであるが、A国の社会慣習と言語行為デフォルトにより、あやまってこようとする。とかく、すいませんごめんの花見を開きたがる。ああ気持ちが悪い。とはいえこれも必竟こちらを気持ち悪がらせようとしてそうして来るのではなくて、自分が居る社会の強制によってそうしているのである。仕方がない。

気持ち悪い人だから気持ち悪いことをするのではない。後ろの人のために戸が閉まらないように押さえておくという世にも気持ちの悪い是非やめてもらいたい嫌がらせのぬるま湯行動も、やってる者がアホだからやっているのではなくて、ソウスルコトニナッテイルからそうするのである。そんなことをする気持ちの悪いを奴を正当にも打擲するという国に住んでいたら、そんなこと誰もしないのであり、ってゆうか元々誰もしたくはないのである。しかし、慣習は内化される。それは「やさしい」のではなくて気持ちが悪いのであること、それは「レディーファースト」ではなくて双方に迷惑な欺瞞行動の名残なのであること、「お酌」などはア~ンよりももっと気持ちの悪い悪習であること、などを正しく知覚できなくなり、気持ちの悪いほうを選好するようになり信奉するようになる。

そしてそれが「やさし」くて「配慮」「気配り」のある行動だからそうするのではなく、してる者にやさしさや配慮があるわけではなく、こいつらは気など配れない。だから、同じこのこいつらが、歩道で自転車に乗るという、歩行者への過失致傷未遂を24時間はたらくのであり、自転車置き場やレーンを断固無視して歩道や通路に長時間駐輪して歩行者の通行を妨害するのであり、ヒト型人糞の歩く公害どもが呼出煙を吐き散らすのである。ゴミ置き場が掃除されてれば分別する気になり、スラムマンションでは全ゴミがごっちゃになる。誰も、気を配って生きてなどはいない。

慣習や雰囲気や規則が行動を決め、状況や場面が行動を作り、人も作る。道譲る譲らんやぶつかる云々やその他の通行上のいざこざが起きるのは、ほぼ常に、両者が接触せざるを得ないところを通っている時である。横幅5~6人分のガラガラの歩道上で肩が触れることは無いし互いに気を付ける気分にもならない。悪意や意地は隘路が作るという部分がある。そこが狭くなっているから、だから、そのぶつかりかけたそいつが配慮の足りない悪人になる(そして自分もなっている)のであり、触れようがないほど離れて通行できたらいざこざの起きようがなく意地悪の存在しようがなく悪意の有りようがない。

こういう話は、貧困があるから犯罪等々といった、何億番煎じの、誰もが飛び付くみんなが論じる他人とおんなじテーマでなら、いやというほど認知され議論されている事柄である。しかしこういうところの論者も、特に外的設定が行動の内因をも決めるという原則を自覚している上でハナシに取り組んでいるのでもなくて、貧困ガー犯罪ガーという定型思考もとい言語習慣に従って言論しているだけなようである。結局やらされてるだけ。だからなのか、さんざん繰り返された決まりきったありふれた定型の話題に即した話なら無数にあっても、さんざん繰り返された決まりきったありふれた定型の話題ではない話題なり、生活の身近な事柄などの自分自身の現実上のあるある、などに即して考えることができない。結局、おまえはやらされてるだけなのである。てめえのオツムなど無いのである。