地上最強のブログ

しばいてくぞ

連鎖する #05

 

前回の記事から

この記事の中盤に書いているような事柄をはじめとして、現代日本語は文章が完全にぶっ壊れている。そのことをツイデ以外で指摘している人間が存在しない。日本語論が腐るほどある中で、やれ「わかりやす」い書き方だのやれ「伝わる」工夫だのいったクソどうでもいいことを延々々延ダベりくさった不様な手取り足取り講座なら腐りに腐り臭うほど大量生産(だけ)されているが、こういった本のどれにあっても、【いまふっつーに書かれ出版され公表されている日本語の文章は基本的に(←キモ)どれもすべて気持ちが悪い不自然な日本語である】ということ、【こういった読んでて気持ちが悪いクソ文章をやめていこうじゃないか】ということ、こういった、ごく簡単で誰にもはっきりそれと分かり完全明瞭に見えているはずの問題中の問題、これが意識され言及され論じられていることは、絶えてまったく全然ない。

近現代の日本語の文章には、読んでて気持ちが悪いといった特徴をはじめとして様々なクソ特徴を搭載したクソ文章の大家たちが居て、ごくわずかな数例だけを挙げても、石川淳唐十郎柄谷行人平井呈一田中克彦森見登美彦吉田秀和清水義範梅棹忠夫、あと2千人ほど、それはもうウジャのウジャウジャという有様で、これら底辺たちの上(かみ)座部に、すべてを痴れる者にしてキングオブクソーズ・神部武宣が君臨しつつ、かような土壌において、近年には、無内容・無示唆・無目的の絶頂を示す糞文海皇・小谷野敦が一連の糞洪水を垂れ流す始末、その文章のクソばかばかしさ+クソキモさたるや、例えばサブいウザいキモいの三位一体を開陳せる有栖川有栖が些末に見えるほど、体の大きな小学生・小林秀雄もなんのその、かかるがごとき日本糞文史の伝統には、夢野久作はじめ池沼テイスト溢れかえる大正文章の綺羅   星   グソたちが鎮座ましまし、ついには、およそ人類が書きうる文章の中で最も気持ちの悪い文章を爆糞していた稲垣足穂というクソ文始皇帝が便座ましまし、こういった大軍勢を率いるのが我らがクソ文界永遠のレジェンド・村上春樹という糞文プリンス、すべてのゲロクソ日本語の元凶にして統帥、並行宇宙の果てまで届く電波を放散してきた、意味不明人知絶倒の観念泥炭層が脳も能も糜爛させてしまったお花畑の中のお花畑、こいつであるのだが、以上挙げた人   間   糞たちはどれも名であって、その下位にさらにクソ文家のがひしめき、その下位には億を超す個体無数がぶりめくのであるが、このような希望に満ちた絶望的状況の中では、例えば橘玲百田尚樹等といった有象無象幾京幾垓の売文業者が物凄く頭の悪い文章を絨毯爆撃して日本の知的水準を原始時代以前に戻そうとしているということなど、もう戻っている今となってはどうでもいいことであり、この爆撃機があと90000000恒河沙匹は有ってそのすべてが日本人民から基本的にはあがめたてまつられているのだから、ここで何を言ってももはや手遅れである。

絶望状況に悦ばしい知らせとして、詳しくはこの記事の後半に書いているが、現代日本語のあらゆる映画・ドラマ・演劇・アニメ・漫画・コント・童話・宣伝映像・ドキュメンタリー・再現映像・アナウンス・解説・ナレーション、のすべての「セリフ」が、日本語ではない。日本語らしさというものが完全に欠如した、何語なのかの原形すらとどめていない純キモ言語が、これを人間が喋るのだと言わんばかりに「」に入れられて《台詞》ヅラさせれらているのだが、これを喋って平常でいられる人種を見ていると、日本語の感覚すらが現在どこまでぶっ壊れているかが看取できる。

といった状況下では、この記事でさんざんバカにしておいた翻訳文章の気持ち悪さなど知覚すらできる人間が見渡す限り1人も居ないということになる。アイ・アム・レジェンド

もちろんアタマのマトモな文章を書く人もそれなりに居ることは居て、翻訳界にも、例えば

1493――世界を変えた大陸間の「交換」

1493――世界を変えた大陸間の「交換」

  • 作者: チャールズ・C.マン,布施由紀子
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2016/02/25

    ジャレッドダイヤモンドのさらに10倍はおもしろい、稀代の名作。

という本を訳している人、

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

という、重要な文学理論概説書(はこれ1冊しか読んだことないがな)の訳者といった、気持ち悪くはならないで済んでいる文章を作れるレア種もいるにはいるのだが、いかんせんレアすぎる。

例えば、ここでも触れたことなのだが、客観的命題文では「you」が独語の「man」と同じ形式主語であって一切「訳」さなくていいという底辺知識すら持ち合わせていず日本語の文を「あなた」だらけにするというド邸能ぶりが日本語訳者たちの現状なのだが(↑ の訳者もそうだったかは覚えていないが)、そもそも知識以前に日本語の文が「あなた」だらけになってるとフツーに気持ちが悪いという感性レベル原初レベルでの疑問をこの世の誰も持たない現状のほうが憂慮に値し、もうどうしょうもないのである。

さて実際まったく気持ち悪くがない(もはや奇跡のような)文章を書く人々がわずかながら居るにはいて、その最も目立つ特徴として、上記クソ日本語騎手たちの最も目立つ特徴である、鼻に付く飾った言い回し・意味不明・キザ・ムダ衒学・語彙キモすぎ・ウソ臭い・背景匂わしてて臭い、といった、コード化しすぎというクソ特徴を免れているという特徴がある。特徴特徴うるせーよ。つまり、気持ち悪くない文章の特徴とは、アホみたいに文体ばらないことだ。愚直にもすれすれの、もって回らない・遠回りをしない・とにかく回らない、何が言いたいのかをはっきりさらせボケと怒鳴らせない、頭の下がるようなどストレート文章。これを、「馬鹿正直文体」と呼んでいる。呼んだのはこの記事が初めてだが。典型的には、岸田秀平林直哉。また、この記事でジョージ・レイコフの訳書を挙げているが、訳文から伝わるところでは、この人も「馬鹿正直文体」の人である。現代の哲学者たちという糞文家たち、トマスネーゲ〇あたりの、何が言いたいのかをはっきりさらせボケと怒鳴るしかないうんこたち、とはダンチである。

遠回りの愛情

遠回りの愛情

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2014/10/08
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

さて、上で見てきた高名な生先方もまたシロートと同じくペダンチックが大好きなもので、シロートとは違って浅薄定型ではない事柄に関して・浅薄定型ではないスタイルで・浅薄定型ではないらしい場所で・浅薄定型ではないちんこをペダペダするのだが、これがシロートと来たら、舌なめずりして無茶ぶるいして目をらんらんと勃起して、自分は賢いんだと証明したがる。そう、わたしはばかでございと開き直っていることになってしまっているパンピー、こやつらは、1分も話せば分かるが、1行も読めばわかるが、知ってる知ってないに関してどれほど自分が大したひとかどのモンかを証明したくて拍手してもらいたくて、それはそれは地獄のように必死千万な奴らなのである。

ここには、どんなバカでも居る。まあ7000億種類ほどいるのだが、1例もとい1うんこを挙げておくと、例えば、マジックの種や仕掛けを知ろうとしたり書きこんだりするというバカ中のバカ、アホの神とバカの神が交わって生んでしまった痴呆邸能池沼の権化のようなアホバカが居る。マジックはもちろん裏がある。それは、マジックを観て楽しいのとは全く別のことだ。お前は遊園地でアトラクションに乗るときにその建築設計図を入手しないと乗れないのか。バカは区別ということができない。

区別ができないとい言えば6兆回ぐらい述べてきた話だが、ここなどで述べたようにいかなるジャンルであれ《表現》内容と表現してる実在の人間とはまったく物なのだがトーシローはこれが理解できず鼻をクソほじりながら「作者」を必死に求める。サイン()をもらったり自宅を突き止める。それをやったところで何になるんだ。お前がその作品・出し物・番組・ライブ・パフォーマンスから受けた感銘はそれそのだけその場限りそれだけのそのそれでしかない。それをやった「人」に当たったらところでお前の感想には何味も付け加わらんぞ。ということが、トーシローは、ついぞ分からない。むしろそれを作った「人」を知れば知るほど何かを得た気になり、やがて、【他人よりも自分のほうが知っている】という、知のドシロートを一番ウレシがらせる劣情を満足(だけ)させる。

なぜこんなイジくそ汚い欲情があるのかと言うと、そのことはこの記事で周到十全に述べた。バカは、すべてが自分の思い通りであってほしいのである。自分の納得システムからはみ出すものを認めず許さないのである。こうして、日夜、逸脱するものに目を光らせ、殺そうと身構えている。おっさんが路上でチャンネーに目を光らせるのとはワケが違う。現代人バカは魔女狩りを嗤い呆れるが、自分もまったく同じことをやっている。魔女を探そうとする「カルト」的狂気とまったく同等同質の狂気で、あいつが「在日」ではないかどうか、「整形」ではないかどうか、「ステ」ではないかどうか、「創価学会」ではないかどうか、「生活保護」ではないかどうか、死に物狂いで気にして、血眼になって探り当てて、何ならデッチあげて、半狂乱、いや全狂乱になって書きこむ。狂っていないアタマで1ミクロン秒考えたら、次のことが分かる。メディアに出ているその人がどんな来歴で出自で、どんなに己の納得体系に合わない人でも、それでお前にカンケーはないのだし、お前がその「人」の何かが気に入ってる・好きであることが「裏切られる」(この世で2番目に不潔な被害者妄想)のでも何でもないのである。しかしこれだけのことを、トーシローは、意地でも、考えてもみない。そうして、自分が信じている価値体系を毀損しないでくれと被害者妄想に絶叫する。守りに入れば人間はすなわちクズなのは異論を俟たないが、この爆狂乱バカのクズっぷりは突き抜けている(こういうのを「クズ」って言うんだよ、クズども)。なにせ、中傷や書きこみによって、のみならず、もっとはるかに悪質なことに、中傷や非難を漠然と歓迎し賛成し時には支持することによって表現者を虐殺するのだから。ヒトモドキは集団リンチをするしかノウが無い。一体何人の表現者が客の信念体系の犠牲になって殺されてきたことか。実際、表現の世界では主客が反対で、【観させていただく】【魅せてやるが本来の関係なのだが、バカはすぐ逆にする

さて尾籠な話が続いたので、クソはクソでも吸って吐くクソ・たばこについてだが、タバコほど悪質なものだとさすがに認識が逆になったままではいず、喫煙者本人の事などどうでもいいのであって煙を出された周囲の被る迷惑がもっぱらひたすら問題だという正置構図が理解されてはいるようだが、それでも、趨勢の大勢を見るには、「喫煙」ではなくて「排煙」が問題でありこの向きの議論しか意味がないということが通念にまではなっていないようである。ここでも、数々の逆置すなわち犯罪がまかり通っている。いうまでもなく喫煙者というのはテロリストなのだから、監視され規制され取り締まられる側のほうなのだが、これがなぜか反対になっていること、周知のごとし。関連して「たばこ吸わない人」などと平気平然でホザきよるが、それは「快楽大量殺人しない人」と言っているのと同じである。それは何のカテゴリーでもない、吸う側がテロリストカテゴリーに入るのとは違って。こういう認識逆転は喫煙人の陰謀かも知れず、吐煙をしておきながら自分たちのほうが不憫だと思わせたいのだろう。法治国家・平和社会とは被害者になったもん勝ち国家だからな。

次回の記事に続く