StörtebekerからSchwinburgまでつながるのかなという糸は、グリムから板垣までつながるのかなという糸と同じく、皆目見つからない。ただただググって調査して分かっているのは、グリムまでのSchwinburgの諸形態ぐらいなもの。
1689年のEberhard Werner Happel(1647–1690)のGrösste Denkwürdigkeiten der Welt所収「生きてる屍〔Der wandelnde Todte〕」(425頁)だと「Dietz von Schauenburg」である。
4行目に「1337」年の事とある。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世が、ラント平和令を破ったとしてSchauenburgと4人の部下を捕縛してミュンヘンに移送、処刑に際してSchauenburgが例のことを持ち掛けて4人の前を走る。4人実際に助けてもらい顛末の報告が皇帝に行く。つまりグリムの「Diez Schwinburg」と(が)同内容。
次に、Johann Peter von Ludewig(1668–1743)のGeschicht-Schreiber von dem Bischoffthum Wirtzburg(1713)中で、「Dietz von Schaumberg」になっている(622頁1337(1338)記事)。
後に出る同内容の記事がJohann Heinrichs von FalkensteinのAntiquitates Nordgavienses(1733)の175頁。
次に見つかる文献がグリム。
その後1835年にJoseph Hormayr, Baron zu Hortenburg(1782–1848)のTaschenbuch für die vaterländische Geschichteの「恩人首無し〔Der Retter ohne Kopf〕」(442~443頁)が「Dietz von Schweinburg」として当人物の前史から記述して、やはり事を1337年と記している。
この「Dietz von Schweinburg」を今度はKarl Gottfried von Leitner(1837–1854)が「1307年」の事と記しつつバラードにする(1843年出版のAlbum aus Oesterreich ob der Enns199~203頁)。
そして同内容の話を「Diez Swinburg」と書いたり「Diez Schwinburg」と書いたりしてAlexander Schöppner(1820–1860)が『Sagenbuch der bayerischen Lande第1巻で伝えている(75~76頁)。
次に見つかる資料が1880年の文献で、473~474頁に今までのと同内容の話を収録している(全文収録Google Books無し、著者も委細不明)。