地上最強のブログ

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その ムダ議論をやめろ

音を消したテレビ

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  • 発売日: 2015/03/31
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この記事で試みている似ているモノ指摘だが←の記事で述べたモノたちはどうだかわからんにしても、この記事収斂進化の観点から述べたように世の似ているモノ指摘の大半が無駄なのかもしれない。また、収斂進化的観点で見る以外にも次のようにも言わなければならない:ヒト種という、極めて限られていて偏っている知覚様式と生産様式と創作様式を有し、且つまた、ついつい既存のモノや他人のモノに類似したかその枠内にあるモノを作ってしまう安易安直に走りがち、そんな生き物が作る文化文物など、是、似ることが多くて当たり前であろう。

実は類似議論や・材源研究や・パクリ指摘等々なども、この記事とその前の記事での考え方で解けるものが多いのかも知れない。それは数字や分布を見直そうというものだ。

人は他人と違うのだから違うことをすると勝手に思い込んでいるが、いや人は他人とアホみたいに似ているのであり、バカみたいに同じようなことを思い付き、呆れるほど同じようなことをするのである。コトは広く文明史から言い出してもいいかもしれない。偶然の一致だがシンクロニシティだかシムシティだかゴッサム清算するだか言う不思議も実は不思議でも何でもない筈である。同じゲノムを有した生体たちだと、その置かれている環境が大体でも似てくると、大体同じようなことをし出す・ほぼ同じような労働様式や社会様式や行動様式を生み出す、のが当然であって、むしろ各地域各時代で人類が全く異なったことをし出すことのほうがあり得ないことである。

同じことをしたら不思議なのではなくて違うことをしたら不思議なのである

上で数字や分布を見直そうといいながら具体的な数値など別に一切上げないしそんなんなーも知らんのだが、とにかく、人類の生産や創作に与えられている所与の条件等やそれらに取り組むこの種の「神経(学)的基盤〔neur(ologic)al bases〕」等の組み合わせパターンなり、さらに社会行動上の入出力パターン、といったものの変数をあれこれ捏ね捏ねくり回し分析を出しでもすれば、大多数の人間が同じようなことをするという傾向の非常に有意な分布が得られるはずである。

人は他人と違うのだから違うことをするはずだと勝手に思い込んでいるせいで、作品もまた他人と同じようなものを作るはずがないと無意識の奥底で勝手に仮定してしまっていて、そのせいで、作品が似てくることなどありえずもし似てきたらそれはパクリだ剽窃だ盗作だ2番煎じだと思い込んでしまう。しかし、ここでも、産物が似たり寄ったりしてくるほうが自然なのであろう。

類人猿の1種よりも遺伝的多様性が狭い人類(このページこのページなど参照)、例えばちょっと離れた所に生息しているチンパンジー個体間の遺伝的距離が例えば極東人個体Tと北欧人個体Rと南米人個体Xの遺伝的距離よりもデカいという、そんなことが言えるのであろうほどに地上全体で個体差が均一な人類という種、我々がこれであるということをまずは自覚し自認し自知しよう。おそらくだが、平均的な生物からしたら、よく似た犬猿猫雉熊鰐2個体の顔の区別が付かんよりももっと「日本人顔」と金髪碧眼白皙北欧人の区別が付かないのであろう。紡錘状回顔領域ナメんな。(そうすると、列島人と半島人との顔の比較(ができていると信じ込んで)に必死になっているヒトモドキ、こいつらがいかにアホでマヌケかよくよく理解できるものである。)あともう1コ言っておくと、この記事最下段あたりにも書いて参照ページのリンクも貼ったことだが、遺伝子多様性はアフリカという1大陸上の人々>>>それ以外の全人類である。

こうなってくると、例えば20世紀の日本人作〇家Xと19世紀の欧米人作〇家Yなりであっても、その生体としての差異など、もう無いにも等しいぐらい無いに近い。ヒト的にはほぼ同一人物だ。似たようなことしたとしても、当たり前だとしか言えない。脳からしてが似すぎとんねん!!

といったことに加えてさらに文化コード等を共有している2個体などとなってくると、もうどれだけ似たり寄ってくることか、想像に固くないだろう。半世紀程間に一国内で作られた特定分野作品に類似や相似やパクリ疑惑がわんさか出てきても、何もおかしくない。そんなん、なって当たり前のことなのである。とんでもなく①均質で均等で一辺倒な個体たちにとって/②美的体験上という文脈で/③心地よく快をもたらすところの/④特定の色や音や字の配列を/⑤(言語や作曲技法や文体や語法や準拠枠などの)共有同一コードに則って/⑥特定の文化的時代的傾向という制約の下で/⑦特定の仮想受容層に向けて作る、などというほどまでに限られた条件下ともなってくると、似たようなものを数々作り出すことになるのがこれもう必竟どうしようもなく当たり前なのである。

人類とはトテツもなく似たり寄ったりで同じような連中なのである。示し合わしもせずに異地域・異時代・異社会間で似たような形式や物品や記号が生じたとしてもそれは当たり前すぎるぐらい当たり前のことなのであり、その上さらに生息環境や言語や文化を共有するとなってくると、同じようなことやそっくりなことや似たことや既視感あることをしないほうが無理なのである。

アホは「パクリ」と言い「似」てると言って喜ぶ。冷静になれバカ。冷静に傾向や分布というものを見直してみろ。他人の作品とカブるほうがむしろ当たり前で非常に起きがちでprobableなのではないのか。お前は特殊例を指摘しているのでなくて一般例を確認しているだけではないのか。それは本当にパクリなのか。

と言うか、同人活動やコピーもの等に顧慮して言えばパクリたるパクリとは民事的になんか法的に係争になるような何かの〇〇〇権侵害だか云々だかの行為のことだけこれだけを専ら指すのでないとおかしいのだが、そんなことはどうでもいいとして、以上の人類の傾向事実から、似てるものとして問題になりうるのは、ワザと同じことをしたもの、パクる意図と意志を明確に持って剽窃し盗作し流用したもの、これらの意図や意志が(何重にも)立証できるものだけに限られる、としか言えなくなる。それ以外のすべての似ているものは当然なるべくしてなった似てしまったものにすぎないことになり、「偶然にも」似ているのではなくて必然にも近いのであろう確率・妥当性・頻度傾向で似ているのである。

そうなってくると、他人と同じようなものを創ってしまう心配とか、他の作品と同じだという問題意識などが(ほぼ)何もかもすべてナンセンスで間違っていたことになるとすら言えてくることにもなる。そんな話はしてもしょうがないししなくていいのである。創作者たち表現者たちは、似てしまう心配などせずに創り続ければいいのである。

ロマンス、イラネ

ロマンス、イラネ

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ちなみに言っておくと、亜流や門弟であること、独創者の祖述者であることや転用者であること、等といったことも、別に悪いことでも何でもない。勘違いが多いが、先行していた者や・創始者である者や・引用元であるものや・枠組みを作った者や・時代を拓いた者や・誰とも違っていたものが常に最高最上の価値があり一番面白いのでは、ぜんっぜん全くない。この記事も読んどいてもらいたいが、イイものはイイのだからその「上」や「先」ならもっとイイはずだと思ってしまうものだが、素朴で初歩的なカン違いである。

事実は概してまるで逆である。そのオリジナリティやオーソリティに皆人が平伏させられる者、ときに自分の先行権や著作権を主張し起訴までする者、こういう者の当該作品って、だいたいクソおもろないクズであること多いよな。誰のことかは心当たりあるはずだ。

ここに来てまた1つの【逆だよバカ】問題を提起することになる。表現者として発信し生きている人々は他人と同じモノを出してしまっても別に気にしなくていい。他人と違う生き方をしている時点ですでに十分「違」っているのだから、その産物作品文体パフォーマンスまで差異化に狂奔しなくていい。他人と似てしまっても、それはそいつと生物的同一種たる者の宿命にすぎない。いやそれどころか、意図的に似さしても転用してもいいだろう。なんぼでも引用してパロディーして尻馬に乗っかってしたらいいのである。面白けりゃそれでよく、法的に抵触することでないならそれでええのである(それが、表現の自由の保障された治国家の意味だ)。亜流だろうと変種だろうと何番煎じだろうとカバーだろうと、要するにおもしろいほうが勝ちなのである。(もちろん倫理面道義面クリアしてのことは勿論だいちいち言わすなボケ)。表現の世界で一番乗りや私有地や独占権を主張するほどのアホは無い。むしろ徹底的なオープンソースと共有性と公共性と既存性の中でどれだけ抜きんじてオモシロイか、それが表現の世界での本来の勝負だ。「創造」とか「独創」とかいったものはそれこそ単なる確率的偶然の産物にすぎず特に値打ちもなく、アホが虚妄する「天才」の「業績」に過ぎないのであって、しかも天才とは独創的な者という意味では別にない。アホはすべてを間違え、すべてを逆にする。

そう、似てしまったり同じであってしまったりすることに警戒する必要があり批判も必要であるのは、特別な生き方をしていない大衆大量衆の側、我々の側である。我々はただでさえ他人とおなじような奴という有害極まりない生き物であり、この上行動も生活も活動も投票も受容も他人と同じであってしまったら、大量衆のものすごい力で世界をどんどん均一のっぺらぼうにしてしまう。そして今やなっている。

(世界と人間における事柄や事象が均一でのっぺらぼうで平板になってしまったことなど、もうありすぎてありすぎて枚挙にイトマがない(といってその反対もようさん有るぞ)ものだが、頑張って何とか1個だけに絞って例を挙げると、例えば人類はこれまでに誰の想像をも遥かに絶する数の言語を失ってきた。と言うか元々人類は現代からは想像も空想もできないほど多様な言語に囲まれた中で暮らしてきているのである。バイリンガルとは今でもそれだけでは値打ちのない連中だが人類史ではさらにそこらじゅうにありふれた奴だったようだ。こんな状況が現在では広域単一言語国家が何個もできてしまうほどにどんどん均一のっぺらぼうになっている。世界の大言語トップランクを見るとほぼ誰にとっても自分の言語と何の大差も変哲もないしょうもない言語たちである。こんなんが数億人に話され、もっと多種多様で新奇異質な言語たちが年間何十というペースで消失して行っている。

消滅する言語―人類の知的遺産をいかに守るか (中公新書)

消滅する言語―人類の知的遺産をいかに守るか (中公新書)

の256~255ページからの孫引きでこれまでに推定「最大60万」の言語が存在していたのなら、人口が爆発した現代にそれがたった6000前後とはこれ如何というものである。こういった話題に無知な一般の日本土人は、珍しい言語となると、やれ人工言語だとかのクソくだらん話題にウレシそうに沸き立ち興奮する。しかし、我々日本土人が失礼にも「現地民」だとか「原住民」だとか「土着民」だとか呼んでいるあの映像の中の人々が、我々が知っている言語とはかけ離れた規則や特性や構造を有した言語(何千もあるぞ)を話しているのであり、こっちのほうが、アホが胸ときめかせ心はつらつするオカルトまがいのクソ人工言語よりもはるかに面白いし含蓄があるし価値が有るし貴重だし真正である。

ここでも書いたことだが、言論の世界では、言論そのものとは無関係でこれを受容するだけの一般人というのは、常に、罪なき無辜の物言わぬ多数者にしてすべての思想の宛て先であり答えであり究極の善と正義のヨスガで砦であると決めつけられてきてノータッチであってきたが、こんなんは完全に間違っている。こっちの側にも世界と人間と言論と知識に対して存分に責任があるし、文化や芸術や文物や言語や慣習や行政や文明に関することについて別に何も免除されえない。【する事が他人と違ったものであるように気を付けなければならない】という心構えは、何か心構えをして暮らしていないといけないワケではないと思い込まれている人々、ぼっっけー!と暮らしてりゃいいと思われている人々なら考えなくていいことなのではない。そしてそういう心構えは、他人と差別化して差異化してなんぼと思い込まれている人々が留意しなければいけないことなのではない。

事態がまるで逆に理解されているのである。他人との一致や同調や同化や類似に気を付けて生きなければいけないのは、創作者表現者サイドの人々なのではなくて、平々凡々の大多数人のほうなのである。【多様性への責任】は、物言わぬ多数者、一般市民、特性のない男女、表現者や特別な人々を支持と不支持で殺す受容層、ファシズムを成り立たせる層、民主主義を成り立たせる層、ピラミッドの底辺、膨大なフツーの人々、どこにでも居るパンピー、等々々の側にこそある。

フツーに暮らす我々こそ、他人と同じようであってしまってはいけないのである。今までの間違っていた考えを逆にして元に戻そうな。