地上最強のブログ

しばいてくぞ

めんどくさい自分病患者たちへ (2)

 

前回の記事から

くのをめんどくさがっているからだ。しかし本の内容というのは自分で中身を読まんと結局は死んでも汲んでも揉んでも分からんものである。書評は中身を結局写さない。(ちなみによく体験することだが本Kで引用された文章を当の本Gに実際に当たって自分自身で出会ってみると本K内で読んだのと全然ちがった印象を受けるものだがこれは当たり前のことである。引用までしたくなるその文章そのくだりそのパッセージその名言は、そこまでに読んだ全文章が関わっている。そこから受けている印象は、そこまでに読んできた前の部分と前の前の部分と前の前の前の部分と前の前の前の前の部分…とによって作られたものである。それは特定個人がその特定体験内で受けた特定一定の1回こっきりの感銘なのである。よって、いきなりその部分だけを取り出してその本に無縁の他人にいきなりその部分だけを提示しても、自分が得たものを得てもらえれるわけではない。引用というのは斯様に愚かな行為なのであり、すべからく、間違った・してはいけない行為なのである。)だから結局その本は自分で読むしかないのである。しかし、めんどくさいから読まないだろう。うむ、紹介されたほうもめんどくさがる

Everyday、カチューシャ

Everyday、カチューシャ

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
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伝えるというのは概してこういうものである。伝えはしたいのだがその労を省きもしたく、結局省いてしまうのだが、しかしとにかく是非とも読ませはしたい共有体験はさせたい。詳しく言うのはダルいの!とにかく見て!見たらわかる!とにかく全部に全体に当たってみて!!そしたら私のこの感興も分かってもらえるから!!!… 誰しもこう言いたいし、言っているようなものである。そして伝えられたほうは、相手の言っていることを歪める。こちらもめんどくさがりだから、相手の言っていることそのことだけを聞きそれだけをとらまえてしまいそれでくだんの事柄の全体を見た気になってしまう。紹介された1章の話を聞きましたのそれで満腹になってしまいそこから進まないのである。伝えたほうとしてはこれは憎ったらしい糞サボりであり情報歪曲と事実誤認につながるものなのだが、いかんせん自分もサボっている。そう、アホをサボらせないためには誠意を絞り言葉を尽くすしかないっちゃないのだが、それでもどうしてもめんどくさいのである。(以上は、本で済んだらいいのだが(よくもないが)、あろうことか人間に対してこれをやるのである。人の世評や噂とは是事実歪曲と誤認でしかありえない。)

笑える道化芝居か?しかしこれがまさにお前なのであり人類全員の日々の会話であり伝達行為でありコミュニケーションなのである。自分と共有してもらいたい・自分を分かってもらいたい・自分の側につけたいのだが、そうするための手間労力はめんどくさいのである。事柄が魅力を放つまでクリアに描くという紹介の労を取るのが億劫なのである。両人の間で事柄が客体的にアリアリと現前してこず、伝えたい側が、自分には分かってるが相手はそうではない理解と自分には見えているが相手はそうではないイメージの密室から一歩も出ていないから、ただ喋ってるだけのブラーブラーになってしまう。冷静に見る限り、ほとんどいかなるコミュニケーションも(、特に直接的なものであるほど)、こうなっている。

ところで上に引用のことについて述べているが、この際だから、誰もが違和感を感じながらはっきりとは言っていないこと、多分人類が一度も改まって明言する形で論じたことがないことを、述べておこう(述べたいことはこの記事で書いたハンドルネームそのまんま転載の問題とも重なる)。引用というのは引用なのだから相手の文言字句文面を一点の変更もなくそのままその通りに転載するのはもちろんそうなのだが、それ、本当にそれでいいのか?もちろん、例えば「北魏の司馬如が編纂した『資冶通鑑』には…」であるだとか、「西上哲学のいわゆる「逆対接」においては…」であるだとかいった文面なら特に違和感もないのだろうだが、では、例えば「北ヌチョの「チンマンコー」が編纂した『ちょめちょめ記』には、「顔射哲学」のいわゆる「乳輪くりくり」が…」などという文面なら、どうだろうか。… 言いたいことは、分かるだろう(分かるはずだ、特にこの記事の冒頭に書いた問題が理解できるのなら)。そして前2者のような普通のまじめ向きな引用に並んで後1者のような「引用」が現在かなり増えて来ているのも、分かるだろう。それを放ったらかしにしてきてしまったことも、よーく承知しているだろう。で、それで、いいのか?…… と言うと、どうも、いいらしいのである!!上の例は戯画化した冗談だが、要するには、引用にかこつけて、低俗な語彙や語句や、邸能そうなカタカナ語彙や、俗向け子供向けの屋号や名称や、違和感プンプンの俗語や方言を混ぜこんでいる文章のことだ。それのみならず、相手の述べたことをそのまま「カッコに入れて」展示して中立的判断を加える積りでいる文章のどれもこれもが、「 」内から野卑で下卑た調子がぷんぷん臭ってくる余り、もう「 」内を超えて文面全体がみっともない体裁に堕しているのだが、このことを誰も気にも留めずおかしいと言わない。どんな低級で幼稚でアホ丸出しの語句でも「 」に入れてさえしまえばそれで済むと勘違いし錯覚すらしている。そしてこやつら、場合によっては、自分(と他人)の文面つまり文章の顔と風采どれだけみっともなくキンモくなっても別にいいらしい、どころか、むしろそれでカッコいいと思っているようである。なるほどそんな奴も居るよな。マジメな固い著述界にティーンとポップとダウンタウンニューアカと赤線の調子を持ち込んで、カッコ付いてるつもりの道化。こんな、自分の文章をポピュラーでシャレオツでライ麦な文面で飾って嬉しがってるバカというのは、論述が俗語臭くドラッグ臭く若者に媚びていて色街やスラムを闊歩していればいるほどカッコよくてキマってると思っているのだろう。飛躍ついでにゆうとくと、こいつらは、いわば、「セックス」と書いたら勝ちなのである。こいつらには思想とはファッションであり著作とはオシャレでありアカデミーとはナンパ術なのである。飛躍終わり。ともかく、著作物というのは色んな形式や体裁や調子があって、特に上で言った「現在」すなわち20世紀からは(もっと前からだとか1兆年前からだとかいうハナシは措く)どんな俗語口語で書いてもよくなり、それが一定のスタイルにもなってしまった。この記事で見た著作とかがそうだ。然るに、それらを扱い論じる段になると、特に直接引用する段になると、「論文」から喘ぎ声が漏れ出し、「研究」でアッパーなビートが刻まれてしまひ、「調査」から男女のお花畑が語り出し、「学術」にサブカルチャー幼児語がこだまし、「文学」にみつともない方言がはびこる、ということになつてしまうだ。なめたらあかんまへんおまへんでっせんがな。
おいコラ、文章を書く全員よ、本当にこれでいいのか?
お前は、自分の字面を見直したのか?

 

さて人間というものがこのようにめんどくさがるものであるから、本ブログ訪問者も、更新部分だけ一瞥して過去記事を読まない開きもしない迷惑なボンクラだったり、ググってヒットしたそのページだけを一瞥して前後の記事など注意もしない「通りすがり」という一番迷惑な奴だったりするのだが、それはそれとしていやはや何事もめんどくさいものである

バケット(松井珠理奈、宮脇咲良、渡辺麻友)

バケット(松井珠理奈、宮脇咲良、渡辺麻友)

  • AKB48
  • 発売日: 2017/01/25
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例えばロールアップシャツとか何とかいう服があってシャツだけでなく短パン化ズボンにもこんなのがあるのだが(まあググれ)、スソやソデを捲くって紐とボタンで留めるものであり、つまり裾や袖をぐいぐい無造作にまくってそれがずり落ちないように紐穴とボタンで固定する服で、つまるところはズボラな奴向けの邸能商品である。あのな、袖なんてな、いちいちめんどくさがってんとな、綺麗に折りたためやボケ。ロールアップ(などと言っているがしかし実はぐちゃぐちゃに巻き上げる事)などすると、まず生地がしわっしわになるし、何よりもとんでもなくダサい。グイとまくってアホ丸出しである。頭悪そうだ。いいか、ソデなりスソなりというものは、折り畳めばいいものなのである。このぐらいの作業すらめんどくさがるアホには呆れるしかないだろうが、しかしこれが人類の標準である。

そういえば、かつて、手で持ちにくくなるチビチビまで赤鉛筆を削り使っている居酒屋店主が居たものでとっとと新品のそれもペンなどを買ったら持ちにくさと削りに費やす時間が何千円分浮くか知れんということが理解できていないらしく、居酒屋と言えば薄める水を入れてるペットボトルの蓋が擦り減って閉まらんようになっても当ペットボトルを交換しない女将が居たものだが、自分に苦労をかけてでも物事をちょっと改善しよう交換しよう整理しようということを意

次回の記事に続く