地上最強のブログ

しばいてくぞ

連鎖する #04

 

前回の記事から

こうして、ここまでに貼ってきたリンク先諸記事でさんざん述べてきたことだが、誰も自分の感性で受け取らず、てめえのオツムで考えないようになる。人間は天性からファシズムに向いた生き物なのである。現在よしとされている政体は人間の性向に反する反自然的なものなのであり、それは、民主制が成立している国家でも始終プチファシズムが湧いているのを見ても明らかである。ここでは、例えば、まさしく中身ゼロの言葉モドキをえんえん繰り返し刷り込むという、無思考・反知性・非民主的・反人道的な横暴が合法的にまかり通っており、しかも刷り込まれた有権者がそれに反応して投票するというファシズム及第の姿勢を示すばかりである。選挙カーという暴走族がウグイス嬢という改造マフラーを使って人間の尊厳を冒涜しているということが国民の誰にも分からない。泣き寝入りしてるなら分かってないのと同じ

 

こういったことに関して警鐘を鳴らしたの、反宗教改革(とおかん)が生んだ、古代最大のスコラ詩人といわれるルネ・デ刀ルト(1234~5678)である。彼は『方法序文』、『警察』、『晢学原理』、『情人論』、『怨念論』、『入知原理論』、『入間知性論』、『入間本性論』、『会社契約論』、『ハイラスと吉村の三つの対話』、『ハイラスとハイラスのハイラス』、『リヴァイアさんIII』、『デカいメロン』、『セ・ルバンテス』、『神喜劇』、『パンタグラフ物語』、『純粋理性悲惨』、『自我の北越』、『鷗吐』、『存在と蕉』、『黒邦人』、『吾輩は吾輩である』、『坊主ちゃん』、『某ちゃん』、『三十四郎』、『畜生門』、『藪の中で』、『薮下楓』、『知人の愛』、『痴人と愛』、『ちぢんだ愛』、『山本亜依』、『ある女』、『ない女』、『マサルの女』、『それかな』、『高瀬舟』、『高瀬愛奈』、『明暗』、『高柳明音』、『舞姫』、『舞木香純』、『渕上舞』、『深川舞子』、『山椒太夫』、『太野彩香』、『大塩平八郎』、『大西桃香』、『山椒魚』、『小坂菜緒』、『伊沢蘭軒』、『井上梨名』、『北条霞亭』、『駒田京伽』、『阿部一族』、『阿部芽唯』、『伊沢蘭軒』、『伊藤万理華』、『谷真理佳』、『伊沢蘭軒』、『伊藤理々杏』、『伊沢蘭軒』、『伊藤純奈』、『高野聖』、『高野祐衣』、『ヰタ・セックスアリス』、『山下エミリー』、『ノルウェイの森本』、『森下舞羽』、『人型の家』、『後藤を待ちながら』、『後藤萌咲』、『斉藤優里』、『ブリキの代紋』、『プリキュアの太鼓』、『エチか』、『Bだ』、スピノザウルス、『ペニスの商人』、『共産党宣告』、『俺主席語録』、『田園公共学』、『千円交響楽』、『延々交響楽』、『田楽』、『東宝見聞録』、『日活ロマンボノボ』、『赤と黒と金』、『青・白・青』

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というような「明らかに生理的にキモい」文章のキモさも感知しなくなるもので、例えば、「警鐘を鳴ら」すといった手垢にまみれた文句や、日本語には無い代名詞をバカ真似した「彼」(ア翻訳文体も、繰り返し刷り込まれたら何もおかしいと思わなくなる)や、数列の例として安易人間がすぐ挙げたがる「123456…」や、「が」にするところを「」にする病気、他にも、体言止めなどとちがって即刻廃すべきクソゲロきもい「では」止め、等も見られ、見るからになってない文章である。

 

さて、今までのところ、一般的通念がいちいち理解が逆になってることを問題にしていたのだったが、本ブログが最も関心を寄せる日常的観察から言うと、動物と人間の状態も、世間では逆に理解されている。

人間なら興味を示さない地面のあっちこっちをわんちゃんが嗅いでるのをよく見るが、本当に、犬の精神生活では、人間が見向きもしない色んな事が注目に値するのだろう。と言うか、それらが注目に値するだけだ。大人なら興味を示さない地面のあちこちに子供が手を伸ばすのとはワケが違う。手あたり次第嗅ぎまわっているように見えて、自分に意味のある限りでの「色んな」対象にだけ関心を絞っている。特に有機物に絞って興味を示すし、他の犬には顕著に興味を示すし、人間にはもういちいち興味を示してもしゃーないと見切ってる。よく考えたら、自然界には存在しない形状の加工食品でもそれが食物だとペットはなぜ即座に認識するのだろうか。一度見たことがあるからか、匂いで分かるからか、いずれにせよ、動物からしたら非自然で珍奇で異質なものだらけの人間界で動物は自分に意味のあるものをハッキリ明確に迷いなく認識する。一見なんも考えてないように見えて、実は動物はものすごく選別している。意味のあるものにだけ専ら向かい、自分にとって意味を成さないものはきっぱりと放っておいてる。動物は意味と無意味が厳然と差別された世界に住んでいる。動物は意味にこそ生きる

逆に人間は「意味」というものから脱出できる。いま「意味」を生存や社会経営や種経営に必要なもの、生と意識が対象に向ける志向一般だとすると、ここから逸脱したことを人間はいくらでもするし、むしろ人間だけがする。確かに移動という意味のあることを主にするが、一方で、車内をなんぼでも装飾する。ありとあらゆる衣食住の様式が、必要・意味・需要・必然の観点だけからは説明できない。「必要」で経済行動をするほうが稀で、ほぼ常に、購入欲という謎の欲求で買うのである。胸像とか事象とかいかにも「意味」のある物を描くかと思えば、芸術は一方で脱意味をも志向してきた。人間生体の認知システムが意味を見出しようがない物体・些事・周縁・異物を取り入れようとする。それが例外的営為だとかは聞いてない。そんなんするの人間だけだという話をしている。人間は無意味に生きることができる(常にそうしてるとは一言も言ってない)。

したがって、意味のあることをするのが賢さで意味のないことをするのが非賢さなら、人間は動物より賢くないことになる。実際そうだろう。それこそ日常的観察から分かるように、例えば動物は同じ失敗をしない。そんな猫見たことない。失敗を繰り返すという愚かなことをしない。こう言って言い過ぎなら、少なくとも、それが失敗だと認識したらそれに二度と手を出さないように厳然と慎んでしまう。人間はというと、これが、愚行を繰り返すことで有名な生き物だ。歴史から学ばないとホザける奴が居る。いや、人間は学びこそしないのである(こう言って言い過ぎなら、少なくとも、動物ほど完璧には)。どんな生物にも認知エラーがありゴキブリにも他者意識が有るらしい(リンク切れ用予備①予備②予備③)し、動物がここまでほとんど人間なのだが、とは言え、人間の確証バイアス、人間が同じ愚を繰り返す仕儀が一等目立つのである。

よく、動物を引き合いに出すアホがいて、こいつらの中には、動物がウエイトトレーニングをしないから自分もしないとホザける程のアホすら居る。そして自分はいかなる動物も決してしない動きに満ち々々たスポーツや野球に励むのである。こういう自然愛好家のバカどもがすぐ「使えない〇〇」云々とホザくのには、注意が必要だ。こいつらは自然状態ならどうのこうのとホザきながら、文明を捨てて洞穴や荒野に暮らすことはしない。こいつらの自然愛好は方便やポーズであって実際には「自然」のことなど露も考えていない。似たようなので「先住民食()」だか「ミニマリスト」(生成文法)だかいった金持ち道楽を思い出すが、総じてこいつらは、カン違いバカなのである。特に「先住民食ww」や糖質制限というのは、自分が肉大好き・動物の苦痛考えませんというクズ(または、弁明の小理屈だけは用意してて幾らでも書きこみよる)であることのエクスキューズにすぎない。いずれにせよ、金がかかる。「自然」志向でも何でもなくて市場経済にどっぷり浸かった道楽だ、「サバイバル」同様。(ところで満腹単位あたりでなら、野菜は安い。食糧生産の問題(という糖質制限類バカが黙殺する問題)から言えば、野菜や穀物が比較を絶して効率いい。貧乏食は野菜に限る。何故かカップラーメンが貧乏食の象徴とされているが、満腹単位あたりから言うとカップラーメンはクソ高いぞボケ

カップ麺は貧乏食ではない。

袋メン・インスタント麺・乾麺と何と言ってもいいが、貧乏な家庭や人が食べるものこそこれだと勝手に決められ描かれイメージされてきたあのあれは、ぜんぜん安い食事ではない。その他にも、金がないならばこれを食べるものだとされてきた様々なものが、別に《財布に優しい》(←気持ち悪すぎる比喩)ものでもなんでもない。アホとは簡単な算数もできず値段も読めないのである。

真の貧乏節約食は野菜をローフードで食うことだよバカやろう。なぜこのことを地球上の誰一人言わないんだ?なぜ人類は間違ったものを間違ったままほったらかしておけるんだ?… ほら、上で言った通り、人間てバカだろ?)

そう、人間がやってるいかなる運動行為も「自然」なものでは断じてないし、自然界に存在する何かを使ったところの、自然界に存在する運動ではない。動物を見習ってるスポーツマンは動物が普段何をしてるのかを全く知っていない。人間の「強さ」と猛獣の「強さ」は意味も質も様態も内容も目的も原因も味噌も唐辛子もぜんぜんぜんぜん全く違う別物である。「ライオンは」とホザくならお前はまず地面で寝ろ、シマウマの内臓を生で食え。それも全部合わせて「ライオン」だ。それがお前たちの呪術の世界だろうが。もちろん「未開」社会のことではない。足が速くなりたくて馬肉食うてるアホが居る「先進国」の呪術、血液型」性格がいまのいまだに信じられている呪術列島、アポフェニアが作っただけの恒星配列(星座()」)なぞが人生に何か関係すると発狂している野蛮人がウヨウヨしている列島、そもそも「占い」などと言う原猿類も騙せないクズが平気で信じられているアホ人列島、「霊視」だ「霊能」だ「事故物件」だとか大の大人が本気でホザき本気にして本気で金まで払うというモノホンまじもん未開人たちが服着て歩いてる未開列島の話だ。人間は動物と違う。足が速い()ことに意味が有ることなど永久にないが、そのアホ無意味を人間は求めるのである。人間は動物と違う。アホはまずこれが分からない。次に、分かってても、その違いをあべこべに考えてしまう。交差させて元に戻せ。バカは人間のほうで、動物は無限に賢い。人間という「霊長」類が自慢できるのはペニスの大きさぐらいだ。それも自慢でもないみたいだがな。

次回の記事に続く

 

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連鎖する #03_2

 

前回の記事から

この表現力というものが表象作品内での力関係を表示する唯一のものであるということが、漫画受容層の大半を成すところの(体の大きな)子供のおつむにはどうしても分からない。本ブログがどこまで程度の高い話にでも対応しているかというのは、ほうぼうで示してきたものである(過去記事読め)が、今回、反対にどこまで庶民の話題にも対応できるものであるか、どこまで子供に付き合って口を利くこともできるものであるか、どれほど清濁併せ呑む器量があって、どれほど、古今東西・老若男女・天上天下・米ソ冷戦・生活保護創価学会安田講堂教行信証京阪人身天外基盤の話題を扱えるかということを、この記事を以って例証しておく。

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いま、へのへのもへじのヘチマが、私は地球を破壊できますと言って、おにぎり三角形が私は銀河系を…と言って、さあどっちが強いか、と言い出したらどうか。作中キャラの誰が誰に勝った負けたの言葉だけを見てたら、どうか。しかるに、これがド〇〇〇〇〇〇ルキャラ/某不良漫画/某アメコミ等のキャラ強さ議論^q^である。ググれば何十というこの手の話のアホー知恵遅れからスレからが見つかる。子供たちは、(スカ〇タ〇の)数字しか見ない。何のキャラが何が出来る壊せる云々と作中で言いましたのその言っただけのことしか見ない。それならただの言ったもん勝ちで終わりだ。つまり漫画受容層の(体の大きな)子供たちは、ただの言葉をあーでもこーでもとダベっているのである。

しかるに、漫画とはまずはである。がどこまでも主であって、台詞が主に近付くかこれに代わってしまったら漫画失格だし、そんな漫画は無いとしても、そんな風に読んでたら読者失格ではある。どこまでいっても、で見せてなんぼなのが、漫画。に篭もる力がイコール其処でのチカラである。

もちろん、いやいやそんなことはない、実際に絵として当キャラが当破壊行為に従事し当勝利行為を収めているところ、そういうコマ、そういう絵、そういう描画、を見て物を言っているのだ、と言い返したいだろう。そうだ、もちろんそのが問題である。そのの、絵としての迫力や説得力

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板垣恵介(画)・夢枕獏(原作)『餓狼伝』第20巻、講談社(2007)、18~19頁)

がどの程度のものなのかが、問題である。上記の絵を見てみよ。何が言いたいのかが一目瞭然であろう。

漫画に於いて、子供たちにそれしか見えていないところの「強」さ類は、作品とキャラの魅力の些細な一要素・一エピソードに過ぎないのだが、もう敢えてそこだけを特に見るとするなら、まずはこう言うしかない:漫画とはまず絵であるという公準から、漫画において強さとは絵ヅラの強さ以外の何でもないという定理が導かれる。ここでは「強」さや「力」は、絵がどれだけデカデカと主張し、ド派手に叩き壊し、生々しく迫り、ぐいぐいと読み手を引っぱり、ズカズカと印象に残り、華麗に乱舞し、果敢に挑戦し、思い切りデフォルメされ、《ありえる》《ありえない》の揚げ足取りを破砕するリアルなフィクション力(りょく)を有しているか、どれほど飛びぬけててぶっ壊してるか、によってのみ、計測される。勿論すべて人体(状出力体)に関してのことであり、着眼するのは人体の表現である。それ以外に何があるというのか。

このような前提の下に見るならば、Z戦士たちは松尾象山1人よりも弱い(表現力が)。園児お絵描き画力の某有名漫画の不良たちは、口では何と言っても、字面ではどんな「強」さが申告されてても、所十三や東條仁の不良たちのどれよりも弱い。そうして、ハルクは花山薫より弱く(表現力が)、オンスロートもTOAAも渋川剛気より弱い(表現力が)(実写映画で言うなら、やたらと大人気のハルクはドゥームズデイの足元足の裏にも及ばない)。ゴーストライダーもギャラクタスも地下闘技場トーナメントの予選落ち。実際に、下に引用している絵を見てみよ。「絵としての迫力や説得力」がこれほどまでである類例が思いつくか?他に、さらに後段に引用している絵を見てみよ。何が言いたいかが一目可視的であろう。

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板垣恵介グラップラー刃牙』第39巻、秋田書店(1999)、41頁)

あと1億ぐらいは例を思いついて、各自補完せよ。ハナシが粗雑にすぎると見えるだろうが、安心しろ、漫画受容層の 体の大きな子供たちのやり取りなどは、もっと粗雑である。ところで、もちろん、以上のような話は、実際の漫画作品の良し悪しや魅力を考えるうえで、9999億兆分の1も参考にならない。アメコミなら、歴史や社会や科学の文脈に置いて(置いて描いてあるからな)読んでこそ、初めて読んだことになる。

ちなみにこれは表現界の一片隅の話だからかように単純に述べてて済んでいるのだが、これが現実上の生体間の「強」さとなると、身動き取れないぐらい複雑なことになる…というよりもう「強」い弱い云々が何の意味も持たない。(と言って以下に述べることは、本記事冒頭に書いたように、どこまで行ってもあくまで、非常に幼稚な言説(だとして)に関して述べていることであり、つまり言葉に対して言葉を述べるというただそれだけのことをするだけ、ただただそれに尽きるものである。従って、実際に行われている格闘技や武道等々々々やこれらの従事者の方たちといった生身現実の事柄には一切まったく関係がないし、本ブログが生身現実の世界に関して触れることは永久にない。これは言論のための言論のブログ、単なる学術ブログである。

現実生身のこの世界では、実際に何が・どれだけ「強い」云々の話は、意味や中身が無いに近い。もし、アタマが極端に弱くて、例えば本質「強さ」があってそれが出来事「勝ち」を結果としてもたらすといったようなイメージを描いているのなら、自分の知性以前に知能を疑ったほうがいい。事実出来事「勝ち」等々の個々の偶発事・偶然的成り行き顛末は、ただ起きた事に過ぎず、その裏にその〈実体〉となっている「強」さなど、存在しないししたためしがない。

まず、誰が・何が・何動物が・何獣が・何怪獣・何昆虫が「勝」つか「負」けるかは、個々体の組成・生育環境・教育・訓練・学習内容・コンディション・モチベーション、それから周囲の物品・地面の性状・日射角度・交通量・往来・外気温・風力・時間帯、等等等等等(が何百何千通りあるか見当もつかないしそれらが組み合わさって複雑極まりないよりもなお複雑極まりないことになる)、そもそもの「勝」「負」の判定基準…等等等等のあまた無数のファクターに依り、それらそれらそれらそれらに依存し連関し左右され支配され……つまるところ無限無際限に多種多様であり、そこに何があるのか・如何な「強」さがあるのか、というのは算出不可能だし、そんなことはもはやなんの意味も無いとしか言えなくなってくる。

たしかに、試合等の状況設定、つまりリングや土俵やルール、総じて「」というものがあるのはもちろんだ。とはいえ、そこでも、上記無数の「勝」ち「負」け要因のいくつかが免除されるだけであり、そう考えると、やはりそこでの出来事(「勝」ち「負」け等)も、複雑極まりない諸原因から結果した、もはや偶発的偶然としか言えないような、特に何をも意味し難い単なる1個の結果であると言える。ところで人間は強さとか何とか言って元々は何を考えていたのだろうか。明らかに、人生でのそれだろう。日常でのそれだろう。生きていくうえでの、生きている今刻一刻においてのそれだろう。そうであるのに、丸腰丸裸の個体1対個体1の状況という、傾向的歴史的現実的に絶望的に存在しえない架空抽象の状況を設定して、そこで勝ち負けの判定を出して、それで、「強」さを測量したことに、果たしてなるのか?そう大まじめにお前は信じてるのか?設定された特定の一定空間で一定規則上の一定パフォーマンスにおいて一定の成果を上げたというだけのことで、「強」さの何が計測されるというのだ?

バカバカしくなって来ないだろうか。強い弱いとか勝つ負けるとか言うのは特段にだらしない言葉遊びにしかなっていないのだから、一事が万事こうなのである。蠅が象に「勝つ」ことは無いだろうが、細菌が巨大動物を「倒す」「滅ぼす」とは言う。最も沢山の人間を「倒した」のは蚊だろう。さてどちらが「強い」ですか?(くだらね!)そこで行われた「勝負」「争い」「闘争」「競争」が何であるのかを、お前自身が理解しているか?それを考えたことがありますか?言語ゲーム「強さ」はそもそも成り立っているのか?

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板垣恵介範馬刃牙』第1巻、秋田書店(2006)、40~41頁)

なるほど、ウイルスより「強い」ものは無く、サメとライオンが何に負けてもシャチもアフリカゾウもミサイルより弱い。大統領最強。書いてて心からバカバカしくなるが、それは「強」さの話が心底からバカだからだ。

それでは結局人間が「強」さ云々をするときには何を理解しているのだろうか。まず、「実際」の生体的(?)強さや「実際」の(筋?)力だけを言っていても、得られる意味がほとんど無い。いや意味と言うなら、無意味と言ったほうが早い。おそらく日常何気に思ってる「強」さというのは、強そうさだろう。いかにそう見えるか、いかにそんな雰囲気を出しているか、いかにそんな印象を与えているか、いかにその印象で自分を通すことが出来てしまっているか、その印象でいかに可能最大限の結果を可能最多数導き出せているか、といった卑近で示威的なもの、であろう。少なくとも状況を設定して考えるよりはよほどか自然な答えである。つまり、いかに見えるか、ということがコトの大部分かも知れない。表象の世界で「強」さだったものが現実でもそうだと言ったらもうそれでええのかも知れない。

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板垣恵介グラップラー刃牙』第40巻、秋田書店(1999)、141頁)

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板垣恵介(画)・夢枕獏(原作)『餓狼伝』第25巻、講談社(2010)、120頁)

 

 

さて、今までのところ、放映上の日本語吹き替えがゲロクソきもいという話をしていたのだったが、これが蔓延している原因のほうは検討がつきやすい。上述の「わかりやすさ」キ〇ガイの現代には「やさしさ」キ〇ガイも当然併発するからだ。視聴者に「やさしい」放送をと考えたら、アホでマヌケでみっともない吹き替えという反知性的・反人間的・反人道的な措置を取らざるを得ないくなるのである。ここまでは大方の者に見当が付く。ただ、ここからさらに、「アホでマヌケでみっともない」ものも繰り返し刷り込まれたら気に入られてしまうのであるという話には、なかなか誰も進めない。

例えば合州国映画で現地のテレビ画面が映ることがよくあり、十中八九、落書き未満のひっでえ絵柄のクソ品質のアニメを現地人がさも当然のように悦に入って 見ている。日本の止め絵アニメも相当にヒドいが、この、アメ公現地人が噛り付くように観ているアニメも、輪をかけてヒドいものである。しかしそれに、日本原住民の誰も疑問を持たない。むしろ日本で放映する。ただただ歓迎される。この記事で書いたが日本人は米国属州民で「バナナ」なのだがそういった話は措くとして、人間は、明らかに生理的にキモいものでも、繰り返し刷り込まれたら好意を抱くようになってしまい(単純接触効果)、周囲の「みんな」がそれを気に入ってると自分の感性も捻じ曲げるのである(同調バイアス)。

次回の記事に続く

 

連鎖する #03_1

 

前回の記事から

それがどんななのかというとこの記事で引用しているが、ここでも必要最小限だけ例示しよう(とにかく無心でコミック開けばその怪異が即座に知解できる代物だ)。例えばネット上子供が一時ネタにしてた金太郎飴のページだが、同調バイアスで感性を歪めないで素直に無心に見たら、度胸のカタマリにしか出来ないような大胆きわまる表現である。それは『刃牙道』第9巻(秋田書店、2016)136頁~に見れる(から自分で確かめたらええ)のだが、その直後の139頁:

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ただキャラが立ち上がってるだけなのだが、恐るべき雄弁さである。他に比べて躍動も大仰もぜんぜん無いコマなのだが、あまりにも多くを語っている。顔さえ見えないこのキャラが目の前に人物に対していだく抑えこんだ黒い憤怒、それをどうしてくれようかという暴君の裁量が、抜刀直前の暴虐を予兆する絶大な立ち姿に封入されている。炸裂寸前の嵐が静謐の中から滲出していて、不可避の危険と暴力の獣臭が禍々しく発散している。

これが表現力というものだ。

こんな例は挙げだしたら何千何万画像上げてもキリがないのだが、敢えてこの9巻から離れないでこの巻だけを探しても、とんでもない表現力の目白押しである。例えば同巻84~86頁を引用する(ついでに同巻59頁から引用しておいたページ(右側)に見るように、上記金太郎飴などはそもそも板垣の実験的手法の1つにすぎないのであって取り立てて注目するようなものではない)と、こうである:

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↑ 左側3ページだが、これほどに絵に語らせている並外れた表現を、漫画界のどこをどう見渡したらみつけれるだろうか。仕合う前の両雄の関係・覚悟・内心・意味・役割が、それを小説でやろうとしたら何頁もかかる叙述になるであろう言葉での説明一切抜きに、描かれた絵だけから、伝わりすぎるぐらいヒシヒシと伝わってくる。それでいて、絵と正反対の内容である両者の会話が、ものの見事なアイロニーになっている。格闘技や喧嘩には言葉での丁々発止が付き物だが、そういう応酬も板垣漫画はとんでもなく上手い。

繰り返すが、これは板垣作品の中の特に目立たないであろう箇所である。一方戦闘シーン特訓シーン等を始めとする山場での表現の独特極まりなく前代未聞たることと来たら、どれだけ多言を費やして評して分析しても、ぜんぜんまったく足りない。こういう表現力を読み解くのだから、表現情報密度が極端に高いのだから、板垣漫画を1冊読むのには最低でも2時間以上かかる。表現「力」という点では史上随一だろう。しかも特筆すべきことにそのテンションが一向に下がらず年月とともに変質しないのである。それは、取り立てて注目されることもない構図:

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を一瞥しただけでも十二分に分かる。左が『グラップラー刃牙』第1巻(秋田書店、1992)の149頁で右が『範馬刃牙』第37巻(秋田書店、2012)の78頁、この間実に20年である。(と書いたこともそうだが、今は、学術的批評的・専門的技術的・絵画技法的に言って何がどうというハナシは一切まったくしていない(し今後一切することも無い、ムダ)から、カン違いするなよ。)なお、右のキャラは、ベトナム戦争でのDr.マンハッタンへの対抗人物である(この記事も参照)。

このような驚異的な表現力は、特に目立って華々しいのではない絵からも、十二分に看取できる。『餓狼伝』第22巻(講談社、2008)、対姫川勉戦で一歩を踏み出す長田弘の足の絵(53頁):

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だが、およそ数あるバトル漫画・人体表現ジャンルで足をここまで雄弁に効果的に(というかそもそもこんなに克明に)描いた例があるだろうか、足の絵だけにここまで迫力を演出させることができた例があるだろうか、たんなる足の絵がこれほどまでに激烈死闘を序奏できた事があるだろうか。この足と足にかぶさった文の構成、この絵面に、マグマのような滾り立つ、憤怒半ば決死半ばの、人体闘争の不吉さ不穏さというもの、或いは漲り返る自信が、余すところなく描かれている。

こういった表現の追求は枚挙にいとまがないが、例えば同じく『餓狼伝』第16巻(講談社、2005)君川京一対工藤建介戦から(154~155頁):

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実に、戦闘を描いた描画ジャンルで、こんな表現があっただろうか。今までに、こんな漫画が、あっただろうか。

このように、台詞を費やすよりも、漫画の本質である画にこの上なく雄弁多弁に語らせる第一級の表現力が板垣漫画の特徴であるのだが、その台詞というのでもまた、前例のない表現を追求している。『餓狼伝』第11巻(講談社、2002)の丹波文七対堤城平戦に

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というコマがある。左側36~37頁。ついでに同巻71~72頁も右側に引用する。人が人に打撃を加える絵が数あれど、ここまで生々しくリアルに描いたものがあるだろうか。

そう、本領である殴り合いシーンだと多言を費やすまでもなくその壮絶さが判る。不図ランダムに思いついただけの『バキ』17巻(秋田書店、2003)の34頁と38頁:

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多言どころか言葉もない表現力だが、板垣作品はどの箇所もこのようなものである。

そして表現力ということでは、

次回の記事に続く

 

#好きなんだ

#好きなんだ

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  • 発売日: 2017/08/30
  • メディア: MP3 ダウンロード