地上最強のブログ

しばいてくぞ

写真は何も写さない

 

この記事で詳論したことだが体験というのはそれ1回こっきりである。その体験のその時の効き作用(wirksam)の再現や模写というのは無い。それの保存など無い。持って帰れる体験など無い。まずこのような大枠において写真というものの意義がぜんぜん見出せないことになる。なんぼ保存しても現ナマの体験に如くはない。しかも、「保存」ということもまた、無い。

ドレミファ音痴

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ちなみに本記事の話ではないが上記リンク先記事や他の類似記事やさらに別の類似記事で書き漏らしたことだが、例えば音楽体験などもそのその時届いた効き目(wirksam)がすべてのすべてであって、よって、まず、それが云々学的云々法的云々論的にウンタラカンタラ=つまり「本来」という観点からするとどういうものなのかというのが体験それ自体にはクソどうでもいいことであり、次に、個々の楽音と音響と声調と声色と音韻と等々々々とそれらの様相1つ1つがその曲1個の演奏パフォーマンス全体の中でどないかというものである。つまり、体験という現実ナマの生きている位相からすれば、或る音が、特定地域の特定時代の特定国民の特定文化の特定音階分類におけるドだかミだソだペだかギョだかヌチョヌチョだかなんかいう特定名称の特定位置居場所に収まるらしい云々の屁理屈糞理屈など、つまり絶対音感」という与太クソ話など、存在も価値も意義も意味も一切まったく無いクソ糞くそ糞クソどうでもいいクズ話である。しかるに何故バカどもがこのアホ話に目を剥きだして顔真っ赤にして全力で飛びついてそれはもう歓喜と恍惚とで無我夢中のべろんべろんに酔ってしまえるのか、なぜバカとはここまでバカなのかというと、バカは、音を一個体験全体の中に置いて見ることができないから、今のそれその対象をそれが属する或る全体の中で捉えることが出来ないから、或る効果作用=一個現実現実全体(Wirklichkeit)の中での個々のブツたちというものに出会うことが出来ないから、それがバカというもののバカ性だから、である。)

 

波が伝えるもの(第10回世界選抜総選挙記念枠)

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誰もかれもカメラが大々々々好きで、ことあるごとに構える。いま自分が見ている=体験しているそのそれを保存しなければとテンパり、保存できて他人に伝えれれて後々に鑑賞できると信じ込む。… いや、そんなことは、全くできない。それは現実を切り取るものではn…じゃなくて、現実を(写真なりに極めて出来損ないに)切り取るものでしかない。しかるに、体験はまったく切り取らず、体験とは一切触れ合わない体験とは現実を体験することではない。現実などという膨大な生のセンスデータを知覚することも・体験することも・生きることも、そんなことは一瞬たりとも人生には無い。現実そのものを写してしまったらエラいことでありエグいことである、それが写真のエグさおかしさ不自然さ異和感だ。そこに「現実」を見てしまっているのである(しかも、それはそれで、カメラという能力の限られた装置の限られた映写能力で切り取った現実ウン億兆京万分の1の模写もどきの模写もどきの模写まがいでしかなく、それもまた現実そのものではない。というか、やはり現実では全くない。現実の「風景」とは、電磁波だ)。

視覚が勝手に情報処理することに抗うことは出来ず、脳が見せてくるモノ以外を見ることは出来ない。12時に見る車と同一の車が18時にも同一に見えるのは、視覚処理が手取り足取りお膳立てして調整して細工して段取りして下茹でしているからである。これら両時刻では太陽光が違うから当該車の色が著しく異なっているのだが、「同じ」色に見える。もちろん視覚の仕事の氷山の一粒だ。まっだまだ視覚は色んなことをやってる。その手の本読め。こんなに色々やっている視覚とそこまではいろいろはやってはいない(が電磁波に対してはごっつ色々やってはいる)映写機器が捉えるモノとが異なることぐらい自明だ。

(お前と我々には、物を見ることなど出来ない。それは脳に見せられるものでありその外に出ることが一生なく、物とは見えるものでしかない。能動的行為的に「見る」などという「行為」をすることなど一生できない。何なら「注意」なり「注視」なりもできない、引き付けられるだけだ。)

といった話に付き合わなくても(↑ 読むん大変やったやろ)、誰にでも分かっているし誰もがとっくに認めている(し諦めている)、いま撮った写真がいま見えている風景と違っているし、見えているように撮ることが何が何でも不可能である、ということを。そう、写真は、常に永久金輪際、「なにかちがう」。

写真とは、そんなものなのである。それは、本来のそして毎日毎瞬の  見る  見えるという体験とはかけ離れている(別物とは言っていない)。

共犯者(大島Team K)

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また、モンタージュ的な問題が有る。視覚風景は何でも前後の脈絡(キモ現代用語が「コンテスト」とか「文脈」とか呼んでる)が有ってその中での意味があってその中での自分にとっての意味が有ってその中でのそれである。写真はこれを抹殺する。写真は嘘を搗く、当たり前すぎることだ。「嘘」以前だ。嘘も語りも前後があって(時)系列があって履歴来歴歴史が有ってなんぼだ。それを1枚の写真は当然まったく捉えられない。簡単に別様にモンタージュされて簡単に別の意味に転用されて悪用されるという意味で写真は嘘をつくと言いたいのは分かるが、コトはそれ以前だ。写真は何も語らないのである。語り不能に「嘘」も何もない。嘘を付くのは、当該写真を利用する人間でしかない。

写真が絵画よりも嘘を付くという(一見だけの)逆説も成り立つだろうが、一見だけであって、絵画もまた世界の真・偽等とは何の関係もないのだが、少なくとも対象の、つまり電磁波たるナマ材料ないし無数の光のちらちらちかちかシコシコではなくて特定され捉えられた何か、これの見えの真実を描こうとするのが絵画であるのならば、それはフィーリングだけでやってきた脳学の歴史だったのだと言える。絵画がどれほど実験し革命し躍進し超克し夜逃げし爆買いしても、それは、自分の視覚野機能はこんなかなあんなかなと手探りしていただけのことなのである。どれほどの傑人でも脳にできる以上のことは出来ない。それが出来るのはエン・サバー・ヌールだけだ。

あと、有名人や容疑者や為政者等を中傷するために不細工に撮れてる写真を挙げて鬼の首とったつもりのアホがよく湧くが、どんな元は美でも非美でも写真上では千差万別に見えること是当たり前のことである。こういうハナシは、アホが誤解しているのと違って、フォトショ以前のハナシである。知らんみたいだから教えといてやろう:全生物が、動いている物を知覚する。或る顔は、その顔とその周囲と見てるお前自身の無数の細動と激動と振動とブレにされされていて、何よりもそれに当たる光の無数の変転とゆらめきと移動と明滅にされされていて、何よりも何よりもこれらの見えをお前の脳が(お前の記憶やスキームと合わせながら)刻一刻調整し変形し加工している。こんな風にして我々は人面と出会っているのだ。これらの一瞬を切り取るだけの写真が本物とおそろしく全然全く超絶怒涛疾風迅雷に異なっていることぐらい、アホにでも分かることなのである。万物を、動きにおいて知覚する。有る物すべてが微動共動している世界を知覚している。誰も、一「瞬」などは、見ない。そうではなく、見えるもの、どころか、見たいものを見るのみである。そんな機能など写真とカメラにはほぼ全く無い(全然無いとは言ってない)。 

明敏な読者なら、こんだけ喋れば何を言ってるのか十分に判るし、明敏でない読者なら、これ以上どんだけ喋っても何も伝わらない。認知関係勉強してこい。

さて、確認するのもバカバカしいのだが、こういう事を書いたからと言って、写真というものの意義を貶めたり無効宣告したりしてる訳でも何でもないし、そんなこと出来る訳がないことによってそんなことを懸念するのは滑稽通り越して無意味である。せやのうて、もし自分に見えているもの=体験に写真というものが何がしか触れるものだと思っているのなら純然誤りであって、写真とは写真という名の表現なのであって、何かを写し取っておくための手段なのではなくてそれ自体が何かであるところの表現なのであって、それ以外には何も考えるな錯覚するな誤認するな、というだけのことである。

 

何もできずにそばにいる

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