地上最強のブログ

しばいてくぞ

連鎖する #02

 

前回の記事から 

思い返せば、だいたいが、読みやすい本アタマに入りやすい叙述というのは、前言ったことを繰り返して理解不安を解消してくれる構成をしたものであり、つまり構成が交錯したものである。A・B・C・D・E・F・N・M・B・H・K・Tとしか書けないと愚直どころか不親切にすらなる。A・B・A・B・C・A・B・D・B・E・A・F・N・G・Tといった構成にするしかない。

ここで韻文の分節構造を思い出す(思い出すだけ)。例えば松尾巴焦という歌人が:

金に悩んで夢は新地をかけ廻る Uenerem poscere non possvm

と提唱したが、これを、韻文規則上の区切り(太字斜体字)と、文としての区切り(この色この色)とから見ると:

金に悩んで夢は新地をかけ廻る Uenerem poscere non possvm

と分節する。ただのという2構造が交差し(合っ)ている構造が見えると言えるだろうと見えると言えよう。

日本語詩のような単純で原始的な韻文(と比べても新体詩以降のお花畑「詩」もどきの有象無象谷川朔太郎はハナシにもならんが)はどうでもいいとして、高度に発達し展開してきた西洋言語韻文を見てみよう。例えば、叙事詩韻文、最古であり故に最も伝統的な韻文であるヘクサメタの1詩行を見てみよう。あのヘルダーリンの高名な「飲食物〔Brot und Wein〕」の冒頭行が:

Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse,(引用元

となっているが、韻律を見ると、

Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse,

という分節である。韻律は、ヘルダーリン読者と西洋詩読者の1200%が知りもしないことだから、説明を省く。とにかくこうなっとんねん。さて、普通の文として読めば、その分節は、

Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse,

となる。 

ピンク色の世界/白間美瑠 太田夢莉 吉田朱里 渋谷凪咲 村瀬紗英 山本彩加 梅山恋和 上西怜

ピンク色の世界

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この2観点だけを見ると、

Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse,

という交差構造が見える。分節と言えば、分かち書きという表記によって、(「単語」というアホ丸出し名称で呼ぶ)「語」という分節が、元から判るようになってある。この観点を加味すると3交差が見える。さらに言うと、音節という分節に基づいて分けると、リエゾンがあるから、「Rings um」という交差もしている。これで4交差。

リエゾンが成す交差が多いのが元祖ヘクサメタである:

Ἀτρεΐδης· ὁ γὰρ ἦλθε θος ἐπὶ νῆας Ἀχαιῶν (Il.,1.12)(引用元

という風に「語」分節と音節分節が交差している。さらに韻律の分節を下線+無下線で表記して、しかも構文の区切りも表記しておこう(タテ線で)。そうすると、

Ἀτρεΐδης· | γὰρ ἦλθε θος | πὶ νῆας Ἀχαιῶν

という4交差が見える。

こういった話を聞くと、ダンテ『神曲』の交差脚韻(これ)などを思い浮かべるだろうが、脚韻などという韻律のクズと、本来の韻律である古典ギリシャ語詩由来韻律とでは、次元がまったく違う。そう、この交差という特徴は古代ギリシャ美術の特徴、コントラポストに通じるものが有る。contrappostoというのは今張ったリンク先とあとここも参照。なお絵画における交差の美に関してこれ参照。判りやすい型なんで詳説の要ないし、これ以上取り上げない。というのは、人体が交差する型がコントラポスト以外にいくらでもあるのだがそういったものたちがここで述べたように理論的に掘り下げられていないのならそっちこそ論じるべきことでありこの事こそ提起するべき問題だからだ。コントラポストもしているが他の交差もしている人体表現の一例をこの映像で観てみると、交差の様々な可能性について考えざるを得なくなる。

さて「わかりやすい」教条が「わかりやすさ」独裁の猛威を振るっている現在には、「わかりやすく」バカがもたらす数々の弊害が出てきており、幾らでも例が思いつくが、中でも、本ブログがよく論じる映画の放映に、人間の知的尊厳を踏みにじるような例が見つかる:吹き替えのことだ。御存じの通りこれは字が読めない人のための外語音声処置であって、高識字率社会では不要である。いやそればかりか、俳優の肉声をシャットアウトしてしまい(こんな例外は普通ない)、音声という映画の鑑賞の半分相当を無にする。つまり作品損壊の機能しか有しない。また現役声優の人数がごく限られているのだから、様々な映画たちを金太郎飴化する。というように吹き替えとは、識字率社会では、低級低民度のアホのための処置なのだが、これをこよなく愛する日本人がうじゃうじゃ居るのである。日本語吹き替えが好きでたまらんそこのバカ、お前は字が読めないのか?もちろん、アホが日本語吹き替えに愛着を示すのは、極めて少ない数の字を見ながら映像を観るという児戯にすら労を要する救いようのないサボりだからであり、また、池沼特有の思い出補正バイアスによって感覚が死滅していて金太郎飴が聞きたくなるような有様だからだし(挙句には、刑事コロンボのようにおなじみお家芸にすらなる)、また、気持ちの悪い日本語を白人に喋ってもらいたいという、倒錯と阿呆を極めた邸能の邸能による邸能のための要求をしているからである(この問題に関してはこの記事の後半で詳述している)。

 

金太郎飴と言えば、この記事で言及だけはしている板垣漫画に関して思い出す。ヒトモドキが他人と同じことしかしゃべれないのも相まって、ネット上では、板垣作品を揶揄するクズの声がデカすぎる(だけだが)という惨状を呈しているが、実際の板垣漫画の特徴は、表現の帝王とも言うべき凄まじい表現力にある。それは、アタマがまともな読者の誰にも判っていることだから言うまでもないことなのだが、いかんせん子供+大きい子供のクズ発言が湧きすぎているものだから、評価の要もない傑作でしかない作品の凄さを今わざわざ改めて確認しておくことにする。

次回の記事に続く

 

連鎖する #01

傾斜する

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人名にやたらと「さん」を付ける奴、キモいからやめろ。ましてや歴史人物さんにまで「さん」を付けるアホさん、お前はさん、もう物を言うなさん。

 

誰もが気付いている。そうだとはずっと思ってきた。会って話してた時には朴訥愚鈍だった人が、文章の中では別人にしか見えない。会話してた時、面と向かって口を開かせて言葉を交わしてた時には、ろくに物を知らなさそうでいかにも頼りなかったあの人が、書くもの書くもので、威風堂々と闊歩し、該博をチラつかせながら饒舌能弁にしゃべくり倒している。一体どういうことだ…。しかしすぐに自分に考察を向けただろうか。自分だってそうではないのか? そう、なぜ、喋るときにはうまくスラスラ行かないのか。なぜ声でやり取りするという作業はこんなに呪われているのか。それはこの記事の冒頭で論じた。

ところで、その記事と、この記事の全文、この記事の結尾、等で問題にしているが、この世で公式に通用している見解がほぼ全て転倒しているという話。何もかもが逆にされているのである。例が無数に思い付く中の一例だけを挙げると、事実発言と価値表現の対比でも、ハナシが逆になっている。どういうことか。表現分野ではすぐオリジナリティが問われるが、いや、ここでこそ、何がどんだけオリジナルかというのが、クソどうでもいい。芸術とは効果がすべてである。効いたら上等、効かんなら有無言わさずカス。《元は》誰がやってたこと作ってた作品なのかなど、どうでもいい。今自分がモニターに観ているその表象が「誰」のものであるか、その人が「普段は」「本当は」どんな人なのかなど、真実心底どうでもいい。表現には、「人間」が入って来なくていい。作者性?態度?「良心」?クソどうでもいい。どんな顔をしてる見てみたくなどなるなバカ(この記事後半)。芸術・エンタメ・表現・作品・表象、ここには、通常の理解とは反対に、むしろ、「答え」が有る。価値が測定可能である。その価値とは、他と違うことをすることではない口承文芸から本歌取りから例示するまでもない。表現者とは、似たような同じようなそれこそ「主題」を際限なく「変奏」し続けるのである。その人「らしさ」「持ち味」など問わない。「かけがえのない」作品などない。あってたまるか。ここでは、人心に作用する効果という一点を巡って、なにもかもが似通い(合い)ながら、協奏し繁茂し生成衰微する。

一方、思想には、答えがない。ここでは、何がどれだけ作用したかを測定できるものではない。言葉は、効けばいいのではなくて、閃かせればいいのである。効果ではなくて示唆。結果はただの結果=言葉。それは聞く読むのだが、その結果=言葉に至るまでの過程・葛藤・背景・裏方から何かをなるべく沢山得る。これが、言論というものである。よって、元々誰が言ったのかという作者性がモノを言う。それも邸能ヒトモドキの「パクり」云々の意味でなく、誰が誰の言葉・表明・発言・思想をどのように解釈したか・引用したか・吸収したかという文脈が知りたいという意味で。そこから、自身の思想作業ではどうするかの示唆を得るという意味で。つまり結果までの過程がもっぱら大事であり共有すべきことであり、その最終的結果に張り付いてるだけのただの記号=ただの言葉など、ほぼほぼどうでもいいのである。本文もいいが、出典と執筆経緯をこそ見よう。よくある勘違いでは、思想というのはつまるところ同じ物をめぐって無数に言い換えることであり、あらゆる著作が古代のxxの注釈であるそうだが、あのな、逆だよバカ。言論こそ、絶えず相違していくことであり、無限の差異化である。だから、議論とは、異なりを確かめ合うことであって、勝ったり負けたり答えが出たりするものでは全くない。バカがすべてを勘違いしていること世の現状を御覧の通りだが。つまり目指しているものが逆、互いに交差すれば丁度いいのである。

さてそうであるから、表現こそ、わかりやすくなければならない意味がないのだが、ところが、表現や作品においてわかりにくくしてしまう奴が必ず居る。それは、ここでこそ目指しても仕方がないオリジナリティを目指してしまっているのである。独自性、自分の癖の判子が押された、自分刻印付きのモノを目指してしまっている。そうして、実際には自分が何をやっているのか・どんな土俵にいるのか・何が己の本分なのか、が分かっていない。それに加えて、受容側もが勘違いバカだと、わかりにくいモノほど芸術として立派だとカンちがいし、難解なものを高尚でオリジナルだと拝金し出す。俗受けしているものを見くだして溜飲を下げる(溜飲を下げるだけ)ようになる。おい、わかってるよな啓蒙書の著者どもよ。お前はイデオロギーで鑑賞している。感性で聴け。他方、知識や学知にかんする事柄に於いては、わかりやすいヅラしたサービス根性が不要である。そもそもが、知識や考えというのは、基礎と前提から十全に説明しなければ伝わりようがないものなのであり、説明に手間暇がかかるものなのであり、理解に骨が折れるものなのである。現代思想系の言う「対話」だ。「わかりやすく」など、ありようがない。元来がシンドいもの、非ヒューリスティック的なシステム2の領域なのである。もし知が「わかりやすく」まとまってしまって、考えない・読まない・知ろうとしない下等衝動で動き喋る大衆、そういった魯鈍人に効果だけは及ぼすスローガンと化してしまったら、ただただファシズム政略一直線だ。こういったことも考えたら、キチガ〇じみた「わかりやすい」妄執に見切りを付けるのが正解だと判る。

混ざり合うもの

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口説きながら麻布十番 duet with みの もんた

口説きながら麻布十番

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さよう、文章や発言というのは、愚直であってはならない。例えば、バカみたいに行儀よく区画整理されてあってはバカみたいな印象を与える。もちろん序章の次に第13章を始めよとは言ってないし第6章を裏表紙に書いたりエピローグを脚注に書いたりせよとは言ってない(言ってないとは言ってない)。

次回の記事に続く

 

勘違いしたらあかんよ

 

前回の記事から 

日本語に於けるクソ翻訳をおちょくりシバき倒すことを職務としている本ブログだが、断っておくが、誤訳」云々の邸能末節論議には一切関わらないつまり「語」訳にも関わらない。「単語()」1個1個の《正しい》訳をしたところで原文の理解にはクソの役にも立たない(し、そんな作業をするのが(あるべき)翻訳なのではない)。この邸能論議がやっていることは、つまるところ言わば、辞書の見出し語が何だったら自分の気が済むかという、非常に低レベルで、事の本質となんら関わらないところの趣味交歓に過ぎない。外語というのをどんな日本語で受け止めたら自分が気持ちいいかをくっちゃべっているだけ。

同じことが、日夜津々浦々でアホたちが興じている《日本語》のクソ談義にも言える。アホたちが論じて論じさせている《正しい日本語》というのは、現行(だけ)の辞典等の(ただの)語彙登録典やあるいは自分(だけ)の語用に照会して気に入るか入らないか(だけ)をダベってるだけの不毛無内容無意味無価値の井戸端会議である。それはこいつら自身の言語に関してそもそも何ひとつたりとも語っていない。わかったら二度と新書・テレビ・新聞の《日本語》論をシャットアウトしろ。

さて邸能「誤訳」論議だが、一例を挙げると、「フルメタルジャケット」の字幕のこと。戸田奈津子に代わって原田眞人が担当した字幕にアホたちがバカ嬉しがってよだれ垂らして顔真っ赤にして潮吹いて射精していること周知のとおり。しかし、ごく素直に、世間の他人たちがホザいている評価(によってしかお前たちはメディアを知覚することが出来ないのだが)にハマらず、同調バイアスで知覚を歪めないで、ふっっつーに原田版の《正しい》字幕を見ると、なんのことはない、ただの下ネタである。この原田字幕には、軍隊教官のシゴキの雰囲気など、ひとかけらも出ていない。ち●ぽ。

そらそうだ、これがシゴキの口汚い罵倒であるのは、英語でのみそうだからだ。もっと言うと、この映画製作当時の制作地域の英語とこの映画の想定配給先の英語原住民たちの英語の語感の中でのみ、そうだからだ。こんなものを《原文に忠実に》日本語に「直」「訳」(って何だ?ゆってみろコラ)したところで、一切何も伝わらない。

そして《原文に忠実》というのは、何かイイことなのではなくて、100億パーセント、ただただひたすら、間違ったことでしかない。それは、「忠実」ではない。

下ネタが罵倒語句になっているイギリス語原住民の語彙体系・語用体系・社会コンテキスト全体が理解出来ていないと、戸田字幕・原田字幕どちらにしてもらっても結局何も理解できない。

これは、他の無数の戸田批判(・他の無数の「誤訳」談義)と全く同じことで、そこには批判など成り立っていない。翻訳ごときに何かを伝えてもらおうと期待して、翻訳などどというただの道具に全力でオンブしてしてしまっている以上、何も解決しない。原文に当たらない限り、原文のある程度のコンテキストごとの理解がない限り、無駄に無駄を重ねるだけになる。わかったか。

こんなことをこのように明示的に指摘している文章は、呆れ果てたことに、本ブログだけである。てめえの頭で0.1ミリ考えたら誰にでもかる事なのだが、そういったわずか1しずく・わずか1滴の思考が誰にも出来ないほど、それほどに、人類とはアホなのである。

(と断言してしまうことについて注記。そんなことはない、それぐらいのことは考えている人はいる、とお前は言いたくなるだろう。アホ、ええか、よう聞け。思ってても言わん書かん出さん発表せん奴は、なんの意味も無い、まったくひとかけらも。この記事を始めとして何記事かで言っているが、或る事を思っていたり・理解していたり・認めていたりしても、それを発言として外に出して明示しない限りは、いくら自分のなかでキバってても、いくら自分のなかで蓄えてらっしゃってくさらしていただいてやがっても、存在しないに等しい。お前がいくら自己内満足しても、それは、世界には、無でしかない。なおこれは、無論、声がデカいだけの奴ら問題とは、違う話である。例えば、Apple大好きアホの声がバカでかいだけで、現実のユーザーの大半がWindowsなのは誰でも知っている。それは、声を上げるまでもない事柄。一方、声が本当に無いから上げないといかん事柄がある。今はこっち。)

この件に関してキューブリックの判断なぞ何の関係もない。こいつは日本語を全く知らん。決めつける。知る気もないだろう。というのは、日本に好事趣味以上の関心を持っていないからだ。人間は、その文化・社会に多少とも深めの関心があったら、その言語を知ろうとするものである。「フルメタルジャケット」の後半を見よ。あれが、アジア(日本)に好事趣味以上の関心を持っている人間が作りそうなものか。

この映画の後半は、字幕問題等除けば悪くはない映画である前半(落武者武者修行よりは面白くない)とは別の映画であり(そうやってけじめ付けて全然かまわん)、目立ったテーマが、西洋人には理解できねえ人種が居るんだよスッゲーよなという好事趣味だ。西洋人が情の通った人間でアジア人が効率マシンという最低俗オリエンタリズムだ。つまり、コッポラ「黙示録」以来1ミリの進歩もない。むしろ退歩している。

例えばそのマシンとしてチーンエンジャーの女の子を起用している点がそうだ。こんなもんいるわけないだろバカ。どこのブラックラグーンどこのシンシアザミッションだ。漫画にも劣る中二妄想だ。

こんなんいるわけないばかりか、反対に、民間人を殺すための戦争であるベトナム戦争において女性というのは、赤子老人子供と並んで、ありえない・あってはならない犠牲者の典型的代表であり、したがって、斯かる闘う少女(カッケーおもてんちゃうぞ邸能ども)をあたかも実在していたかのように描くことで、民間人全員が敵兵だという米国のデタラメ言い分をキューブリックは代弁して弁護しているのである。なんて野郎だ?いやこんなもんだよ。人種社会集団意識としては、こいつも、この程度の男なのである。「フルメタルジャケット」のスナイパー少女は、《戦う少女》的なものとはぜんぜん全くちがってて、侵略とその口実を正当化するイデオロギーのための道具である。

僕たちは戦わない

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キューブリックというのは、バリー・リンドン」という世に並ぶものなき至上審美映画や、あの、映画史上・表現史上の

頂点と言っても足りない極上傑作、

エンタメ化した芸術にして芸術化したエンタメの究極の精華である

時計じかけのオレンジ

という映画史上永遠最高傑作を作っているのだが、そんな方面では力を発揮できても、欧米以外社会の認識には何の力も発揮できないのである。そしてこれは欧米人の通例である。欧米人というのは(と十把一絡げにする大問題は今は措く)、普遍的一般的な事柄や自文化自社会に関する事柄でなら、途轍もない手腕をふるって、およそ考えうる最高度の結晶・成果・営為・作品・表現をもたらす連中なのだが、非欧米社会集団の事柄になると、知力が凍てついてしまい、アホでマヌケな無知蒙昧を発揮するのである(そうでもなく最高度の認識を示すことも勿論多々あるが、そんな周知の事実をくだくだしく註する必要などない)。だいたいこれと似てなくもないようなことを岸田秀どこかで言っている(というかどこででも言っている、この硬骨漢なら)。

しかし、このことを日本人は問題にしない(岸田秀本多勝一などは例外中の例外)。ハイデガーナチス問題のような遠い異国での問題には熱中できるのにだ。この記事最下段参照。

フルメタルジャケット」後半が愚劣であるというのは、アイズ ワイド シャット」や「2001年宇宙の旅」が映画としてもサブい駄作であるのとは問題の質が違う。アメ公から観たらおもろいのかも知れないわな。が、アジア人がこれを面白がってたら、滑稽を通り越して、ただのアホだ。なのに、日本人はそうするのである。日本人観客は、欧米人が作った日本人等の(東)アジア人(+世界中の民族)への人種差別映画を欧米人の視点から観て心からウレシがれるのである。映画を離れて一般論からしても、日本人は、欧米人が歴史的に下と見てきた側を、自分たちがその側であるにも関わらず、欧米人の側に立って見るのである。そうして、日本語でも何でもないところの、日本人がアメリカ人(WASP)に蹂躙されたがって屈従の快にもだえているような米英語愚訳で腐りきった日本語字幕、言語のクズでしかない日本語吹き替え、これらを心から楽しめるのである。まさに「バナナ」にしてヒトモドキ、家畜人にして米国属州民である。そうして、欧米人が欧米人のためにやってる映画祭に出て光栄を浴したり、はたまた、欧米人のためだけに作られた賞であるノーベル賞を名誉の至宝と信じこみ受賞者を国民総出でことほぐのである。悪質な《国際》とは、オリンピックだけでは全くない。そして最悪質のカン違い《国際》が、植民地根性である。

つまり、(代表的アジア侵略者の)マッカーサーと並んで写っている昭和天皇の物議をかもすあの姿、ほとんどの日本人が、結局、あの姿なのである。

ベトナム戦争に関して言えば、現代ではネット上のヒトモドキどもが唱和して中傷するしきたりになっている本多勝一がとっくに半世紀前から言ってたことだが、そしてふっっっつーに見て聞いてりゃ誰でも気付くことなのだが、米国人欧米人がこの戦争を取り上げる時には、映画などが特にそうだが、もっぱらひたすら米国人のほうで何がどうだったという事しか取り上げず米国人の悲運や惨状だけをこれでもかと描き嘆くのみで、侵略された国の人間の声も顔もまったく見えない聞こえないモノしか作らない。文献もそうらしく、下記のニック・タース氏がそう述べている。繰り返すが、日本人はそういうものを観て読んで聞いて、そうだなあうんうんと心から共感し、何もおかしいと思わないのである。人種3原色は科学的には阿呆でナンセンスだが、あえてこの遠藤周作的語彙を使ってこう言っておいてやろう:

鏡を見ろ、お前は黄色いぞ

そこで哲学や文学やってるお前、お前もだよ。人種に悩まずに欧米を専攻するな。

映画に戻ろう。描かれてるのがひたすら合州国人のことなのに、自分が属する広域社会集団のことが無視されてるのに、自分ら自身が空爆され核兵器を落とされた側なのに、米軍に駐留されている側なのに、この映画を観る日本人の感想は、御存知の通りだ。どうしたものか。実に、2010年代ともなると何と米国の中からこの「侵略された国の人間の声も顔も」きっちり取り上げた

動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか

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  • 作者: ニック・タース,布施由紀子
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  • 発売日: 2015/10/02

のようなそれこそ「ノーベル賞」100回受賞してもいいような記念碑的超重要労作が出版されているのだが、こんな時点でなお日本人には「フルメタルジャケット」は下ネタ字幕の問題だろうか。結局

戦場の村 (朝日文庫)

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はこの国民には届かなかった声なのだろう。