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しばいてくぞ

結果がすべて(Shut up and)

 

講義には講義ノートがある。はじめからそれを見してくれたらええのにというもんだ。簡単なメモに基づくだけ或いはまったく即興で講じているのならまだしも、書いてきたものを読み上げているのなら … ではなくて、どんな形で喋ったにせよ、要するにはその内容を字にして配布か出版してくれたらいいのである。音声と文書じゃ情報効率に差がありすぎる。人間はすぐ人の声を聴きたがるが、例えばここここここで書いたように会話というのが情報授受行為としては極めてお粗末であり接触や交感以外の役割がないと思ったほうがいいように、講義・講演・演説・スピーチ・講習・説明会・朝礼・会議・叱責・「発表」といった如何なる伝達手段も、音声というチンタラとろ臭い非効率媒体によるクソ手段だと知った認めたほうが、いや見切ったほうがいい。この世には、ラジオとかいう、いとも原始的なること縄文人貝塚ほとりで聞いてそうなうんこメディアが有って、動画サイトmp3の時代に尚しつこくはびこってくさっているが、この極非効率伝達媒体の手段もまた、感情的な側面での役割しか果たさない(それに関してはむしろ悪評に包まれた有効性つまりプロパガンダの役割も有ったものだ)。そして、物事を声というものから聞くと、感情に効いてくるものだから、なにか魂とも言わんばかりのえもいわれぬ実体が得られるかのような錯覚ができる。声の場は一期一会^q^。そう、コトはまさに感情的なのである。内容や意味というものの乗せ物としては音声はうってつけのモノでは到底ない。世の大多数の音声コンテンツが無用廃用である。コピペ怖い話ゆっくりというクズ。こう言ったところで、知の世界にはさして不都合が無い。情報は情報である。お声で聞かせていただくまでもない。紙だろうがディスプレイだろうがどこに書いてても字は字だ。お前のクソ御高著で拝読させさせていだたきます必要ない。その現れて来てこちらに受容されるところの現象というのがすべてである。過程など、効率的なら何でもいい。

命題:それが、効果あるものとして(wirksam)、こちらに効いてくる働き(wirken)というものを有している(wirklich)ときにのみそれはリアルである(Wirklichkeit)。リアルなものとは、現れ出てて効き目(Wirksamkeit)を以ってこちらに作用してくる-しているモノ(Werk)である。それが「本当には」どのようなものなのか、どのようなもので元来なければならない(とお前が願っている)ものであるのか、「真(実)」には何であってもらわないと困るものなのか、それが現出するまでの過程で裏方がどんな裏面ある裏作業をしていたのか、等は、全部が全部、この上なくクソどうでもいい。或る意味では、見えないものは存在していない。現象の裏面など、その「歴史」など、無い。要らない。

[…] mit der wahren Welt haben wir auch die scheinbare abgeschafft!

(Nietzsche, Götzen-Dämmerung, Wie die „wahre Welt“ endlich zur Fabel wurde)

つまり、いま現れていないものの裏への下衆の勘繰りをすべて一切やめろ。わからないなら、この記事にも論拠を書いているから読め。そして、いま見えてはいない世界中のことが1つでも沢山見えるように極力チャンネル開いた生き方をせよ。と言うことになる。

よく音楽評論レコード評論で生の演奏と録音の区別をする。目の前で実際に演奏しているのを聴くのが最上等の鑑賞で、録音とはそれの次善の必要悪であってその中でさらにデジタル良悪録音とステレオ良悪録音とモノラル良悪録音等の階級制度が存する。「本当は」生演奏を聴くに如くはない、録音とは演奏イデアの影であって決してナマの感動には及ばない。G着。とのことだ。こういう笑止千万の世迷言を、録音技術普及以来評論人が書き散らしてきて、思考停止トーシロー烏合がオウム返ししてきた。

まず、演奏の惨めな写しが録音であると、その演奏を聴いた上で言ってるのなら、ただの自慢である。自分の中から外に出ず、他者にいっさい伝わらない、複数の人間を使ったひとりごと純然無意味。次に、その演奏が偲ばれるという追想をしているのなら、やはりお前の中の事柄。純然無意味。しゃべんなバカ。次に、その演奏を聴いた者としてその録音について一家言申せるというのなら、お前の聴覚体験はお前の外には出ないのだから、何も伝えていないに等しい。純然無意味。

また、【演奏>録音】一般論を述べているのなら、それで何が述べれているのだろうか。右辺があくまで左辺よりも劣っていることを自覚しながら録音を聴きなさいと言いたいのなら、「劣っている」「劣化コピー」「偽物の音」「これは私のテンポではないと思いながら聴いて、それで、何がたのしいのか?お前自身は?そしてそうであったとして、じゃあどうやって録音以外の方法でニキシュなりパハマンなりランドフスカなりクライスラーなりを聴いたらいいと言うのか?存命者でも一緒だ。例えばVakhtang Machavarianiショスタコーヴィチを聴きたかったらわざわざ海外旅行するのか?ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管弦楽団(2004年11月4日/ロンドン)チャイコフスキー交響曲第6番

チャイコフスキー:交響曲第6番

チャイコフスキー:交響曲第6番

という、この曲の歴史をひっくり返して音楽の歴史もひっくり返しそうな空前絶後の怪物を会場で聴かなかった者がどうやってこれを体験できる?録音のおかげで体験できこそすれ、これは劣化コピーと念じながら聴くことにはならんぞ。他に、天地開闢・宇宙創世・雲河絶峰何を言っても届かない、音楽を超えた音楽であるクナッパーツブッシュウィーン・フィル(1962年12月16日)シューマン交響曲第4番

という、世界遺産登録したぐらいなら評価にもなっていないような、5000京年後まで届く宇宙財産を、録音以外の何が保存するのだ?

演奏に足を運んでもらいたいという言い分もあるだろう。クラシック界の収益存命見込んでるなら見当外れだが、まあじゃあ運ぼう。しかしそうしたから、だから特別どうだと言うのだ?その演奏を聴いたら、それ聴きましたのその1回で、終わりだ。体験終了。過去の中、二度と取り出せない。こうしているのと、録音聴いているのとで、経験の身分がどう違うっていうんだ?生憎幸い、生演奏と優秀録音とで音響の違いが判るような超越的感性もといプラセボを持ち合わせていないので、実にどうでもいい話だ。体験は体験である。何で体験しようが、会場席上だろうがPC前だろうが、いっしょだ。有限の人生の中のその唯一回の体験こっきりで、終わりだ。その体験の質(をお前は何の基準で決めてるつもりだ?)に比してもっと良い「他」も「次」も無い。「ランク」も「スペック」も無い。その体験以外にその体験は無い、中身が何だろうと。あのな、コンサートなんかそんなしょっちゅう行けないだろう。魔法瓶に入れて持って帰ることもできんだろ。録音かて、50分~60分~70分~80分~9000分の曲に頻繁には付き合えんだろう。無限ではない人生が有り、その中に有限回数の聴体験が有る、ことはそれだけだ。そこに真実や「もっとイイもの」を求めるなバカ。

(ところで、クラシックは斜陽とダダこねてる許光俊その他の中で鈴木という毛色の違うのが居て、

クラシック批評こてんぱん

クラシック批評こてんぱん

など、言語表現というものを考える上で一般的に参考になる名著である。)

いや「もっとイイもの」を求めるんだよ!と言いたいのだろう。体験回数が有限だからこそ聴くモノが少しでも良(よ)い(「良い」は「いい」とは読まない)ものでなけれでばならないと言うのだろう。その良(よ)い・悪いがもう怪しすぎるのだが、それでも付き合ったろう。お前が言うもっと良(よ)いもの。それは、もっともっと良いものよりは、落ちるんだろう?もっともっともっと……良いものよりはさらに落ちる。分かるわな。「もっと」良いもの追求は、無限の進行を前提している。比較とはこういうものだ。お前は自分が死なないと仮定して物を言っている。ことに気づいてもいないようだが。いいか、経験の質に差別などない。その時々一回一回がベストで、その一回で全てが終わりだ。他とのつながり、他と比して、など、無い。「今」に平身低頭させるモノとしてなら(としてでない話はしてない)、可能性など、存在しない。そんなものは純粋経験の夾雑物である。レコード 考古学遺物を聴こうが、CD 骨董品を聴こうが、つべで聴こうが、演奏会に居合わせようが、その体験はその体験きりだ。なおもっかい聴きたないなら、再現性は録音媒体が無限に上だ、一期一会は再現されないからな。

可能性ということで言っておくが、今よりもっとイイものがあるという羨望や悲観やへりくだりなら、誰でもする。こっちの「可能性」にはすぐ飛びつく。一方、今の自分が固執している物の見方や自分に吹き込まれる世間の言説とは違うものがあるのではないのかという可能性、こっちは誰もとんと考えない。逆だバカ。価値は、今がその時々が最善唯一にして全て、他の可能性なぞ無い。在り方は、むしろ今と違うものを刻々日々考えろ。逆と言えば、本記事の話題に関して、次のことも言っておかねばならない。芸術は大衆的なものほど劣悪で思想は明確に伝えるのが大事と信じ込まれているが、逆だよバカ。芸術や文化やエンタメこそ、これ見よがしに「わかりやすい」ものほど高級である。《マイナー》はただの孤高ゴッコだ。底の浅い見え透いた児戯だ。然るに、ワカリやすくて・可視的で・表現的で・大味で・露骨で・メリハリ効いてて・エンタメ性充実している表現(つまり、晦渋で・予兆的で・微妙で・巧妙で・趣味的で・洒脱で・印象的で・「おしつけ」()がましくなくて・幽玄で・超俗的で・メッセージ色濃厚で・コダワリ抜いているような高踏的表現とは正反対の芸風)の中で卓越できるのが、芸術に於ける卓越だ。一方、文章に「わかりやすさ」を要求する「わかりやすい」〇チガイの勘違い民主主義の時代だが、文章は別に意地でもわかりやすくあらなくても、全然いい。考え抜いた末にとか、固有の論理を表現するためにとかで、どうしても馴染みない独特なスタイルに寄ってしまう、もっとも至極にして何のムリもない事ではないか。

しかしもちろん【演奏>録音】論で言いたいことは優劣問題だろう。で聞くが、何が「優」で何が「劣」だと言うのだ?こっちには立証責任が無いがそれでもこっちが定義してやるとすると、自分に「優」ならそう、自分に「劣」ならそう、それがすべて、となる。いま劣悪な戦前録音がある。始終ザーザーノイズ、金管音割れ、すっげ未「分離」。ところが、小綺麗で起伏ゼロの廉価ロイヤルフィルと違って、妙に腹に来るものが有る。先日行った演奏会よりも、有る。いわば博物館展示物なのだがしかし一定の感銘が有った。としよう。だったらそれでいいのである。自分に効いた(wirken)のならそれは効いたのである。自分に効かないなら、他人にばっか利いてるなら、何であろうと、存在もしてなくていいクズだ。劣悪録音であるがゆえにの感銘なら、それはそれで感銘であってしまうのである。実演を聴いたにもかかわらずウンコなのなら、それは生演奏であってもウンコなのである。だから「一定の感銘」は、ノイズも込みでのものである。SACDの質感も込みだ。ボックスで買ったのならその物量感も、感銘だ。ひたすら一般的なことが書いてある中身ゼロのくそブックレットの厚みも、そういった何もかもが、体験なのである。さらに、演奏会なら、《本来》の演奏《そのもの》を聴覚体験しに行くのだが、ゆめゆめそれだけのことではなく、ホールの建築も、フロントの絨毯も、暗い客席からの眺望も、隣の奴と肘置き取り合った思い出も、前席の頭ふってるおばはんをしばたいたことも、フライングブラボーを寝技に持ち込んでシメたのも、そもそもアホ丸出しの「ブラボー」を止めろ邸能ども、ぜんぶ込み込みで、体験である。コトは決して物理的音質といったブロードマン41/42野な問題ではないのである、サワキちゃん。

また、例えばそのノイズだかモザイクだかが掛かった旧盤のリマスターが出たとして、それがもっとイイかったとしたら、それはそれだけのことである。出る前に他界してたなら、それだけのことだ。「本来」「もっとよかった」「はずの」モノなど、お前には存在しない。と言うか翻って、その録音の元である歴史上世界のどこかの演奏行為も、宇宙のどこにも存在していないそんなものがどうしたボケという以外に、何が言える?ムラヴィンスキーの実演?録音が何も伝えない?少なくともお前の錯誤想起がお前の「脳内()」で鳴っているよりかは客体的に私の前で鳴っているCD音声という実演の惨めな写しに、私は一定のモノを得ている。お前はかつて得た(のだろう)。以上終わり。すべて、だからどうした次元の域を出ない。評論人がその域を出たことがないからだ。なぜか?てめえのオツムで物を考えたことがないからだ。てめえのオツムで考えてたなら、とっくに、誰も聞いたことのない意見がどこかで出ている筈だ。

さすがにリンク貼るのが無駄なぐらい溢れかえっている話としてオーディオ趣味をおちょくる話が有るが、こいつらは、おちょくってるつもりのオーディオ追求者と同じ穴のムジナである。連中は、音を求めているのであって、音楽を求めてはいない。その関心は、機械から出る音の音質だ。それが、世間が定める「優」「劣」基準に照らしてどこにランクインするのか、という点数稼ぎゲームに熱中しているだけだ。そこから何の体験がもたらされるのかという本来の目的であったものが抜け落ちている。バカはすぐ目的を忘れる。よし、体験しているとしよう。お前は再生装置Xを鳴らし、聴く。しかしそれは、世間と、世間代弁機械のお前が決める所の「優」「劣」基準からしたら、Yには劣る。そしてYを買ってもこれはY-IIには劣る。ad infinitum。こうしてお前は、劣るものを体験していると思いながら体験している。せざるをえないのである。たのしいか?来週器材が届くのなら、その届くまではお前は、その器材>今の器材という境遇によって、「ランク」下の体験に甘んじるのである。おい、たのしいか?音質を追求している方(これに集団リンチを加えているネットのヒトモドキどもも同列)、「より良い音」を考えている時点で、今のあんたは「ヨリ悪い」音を聴いているのである。しかもそこで良い悪いのは、しょせん「音」だ。

では音楽を求めよう。音楽も定義しておくと、少なくとも聴くほうとしては、聴覚情報を主として何を体験させてもらえるかが音楽だ。それがすべて。それの価格は聞いてない。それの世評は聞いてない。体験は体験だ。その体験が自分に最上等なら、何で聴いても最上等だ。世間基準などカンケーない。音追求人がン百千万ン億を費やしている間に、ダイソーフルトヴェングラーに深淵の極地を聴いてもいいだろう。正規盤+10億円ラジカセでそうしても、いいだろう。900兆円コンポでもそうできないなら、なんてこたない。オケ来日公演のS席3,2000円に座っても、大した体験でなかったなら、無駄金だ。つき詰めて言えば、映画のほうの「ショーシャンクの空に」の主人公が懲罰房の中で頭の中で音楽を聴いていたと言うが、これが、音楽の体験である。中島敦名人伝だな。真影流幻突、YAIBA闘刃、刃牙道無刀。もちろん、貧乏肯定論ではない。もうイヤホンでいいわとは言ってない。イヤホンから音ダダ漏れの人間のクズを放っといていいとは言ってない。再生音質も演奏も文化であり、ぜひ存在し続けてくれたらいいもんだ。カネがあったら追求したらいい。そうしたらそうしたで新しいモノが開けるだろう。そしてそうしたところでそれはそうであるというだけのものだ。そこまでの自分がマチガっていた・「下」だったわけではない。どこにも、優劣など無い。これは所詮録音なんだ現実の模造品なんだと悲観することもない。評論人とその物真似バカに騙されるな。伝説の東京文化会館ライブ?失われたウィーンフィルの昔日?要らん。CDのほうがいい、「今」の「私」には。SPLPなどカラス除けの用にも具さぬ。誰にでもわかるように、無いものは無い。1000兆円1000恒河沙円支払えても、巨匠時代にタイムスリップはできない。有るものは有る。2000年代初頭でも地球の裏側からCD取り寄せるしか聴く方法がなかった音源が、2010年代にはつべで聴き放題だ。つべはクラシック用サイトだ間違うな。それが世間にどう取られるか?クソにで食わせとけ。

そしてもちろん、音楽は音楽だ。てめえが聴け。てめえにとってのものとして聴け。世評に聴かしてもらうな。「音質」に聴かしてもらうな。世評が絶賛しようが、てめえに響かないなら、クズだ(ありすぎて困る中のごく一例として、ショパン)。てめえに響くなら、世間が蔑もうが、ほっとけ。もちろんこんな事は誰にもわかっていない。誰にも分かってるのなら、てめえのオツム働かせてるのなら、世の評論評言言論レビュー感想コメントは、今のようには全くなっていない。個々人の見聞きするものしてきたもの経験情景信条方針の集積は、単純計算で言っても、細胞の数ほどには相違している。単純計算で言っても、人類全体の感性の相違は、千差万別ではなくて、阿僧祇那由他別でないとおかしい。てめえらがてめえのオツムで生きてたのなら、今頃、想像を絶しに絶しに絶しに絶しに絶しに絶する多種多様な意見が咲き乱れていることになる。そうなってない通り、今日もお前は、世間の洗脳の中で生きてる。

このように、これが本当・こっちが本物・こちら純正でござい・本来本筋からしたら邪道・メインからしたらマイナー・「不人気」・《やっぱりオリメン》という世間がやってる嘘/本当ゲームに乗せられてるから、一生まわりとクソ同じクソ邸能でしかいられないのである。嘘も本当も無い。自分に現象してきた現象がすべてだ。

情報は情報だという話に戻るが、情報の乗せ物の言語のことを述べておく。ここまでに貼ってきたリンク先記事でさんざん述べてきて例示もしてきた表現者という個体群のことだが、この人らにはあんま喋らさんほうがいい。主ジャンル以外の「オピニオン」を求めんほうがいい大したことは言えんとかいうどうでもいい話じゃなくて、本人が制作した当の作品について意見言わすと失望させてきよるという問題。映画制作者側が当の映画にどういった意図をこめたのかを話すと、ほんまにこいつが作ったんかと思わせるような低レベルなことを言う。自著についてインタビュー求めると、その読み方だけはしたくないわと思わせる浅薄皮相な見解を吐く。メイキング映像で出演者が何とも素っ頓狂な想いを語ることしばしば。表現者というのは自分自身が自分の作品を理解してないのじゃないのかとすら思えてくる。

何故こうなるのかと言うと、1つには、特に喋ることの専門者ではないからだ。と言うと不正確で、情報の精確な言語化の専門者ではないからだ(喋ることの専門者はただ喋る能力に長けているのであって言語描写力に長けているのではない)。そう、情報を可能な限り克明に描述できている文章を精確に紡ぎ出せるというような専門者が、そんなにいない。これが中々わからない。この記事の終盤に書いているが、目撃証言というのは、人間の徹底的にバイアスがかった認知能力からすると、事実の写しには程遠いのだが、輪をかけて悪いことに、全人類の990%が事実忠実な言語化の専門者でないし、その(自主)訓練だけでも試みたことがない。誰でも言葉を喋ってて、いくらでも喋れる。それによって、我こそ彼こそ母語のエキスパートだと、勘違いしてしまう。見た通りに喋れると思い込んでおり、自分の思ってることはそのまま言葉にできると思い込んでいる。

そうすると誰が言語化の専門者なのかと言うと、なるべく事況を精確に写した伝わりやすい言い方をしようと普段から心掛けている人、そういう意識がある人ということになる。傾向としてはどうしても学術文章の執筆に従事している人ということになる。確かに、例えばよりによって言語の研究者が

統語計算ならびに意味解釈の必須要素である文タイプ・発話効力関連句(force phrase: ForceP)と定性関連句(finite phrase: FinP)の二種類の機能投射が, 生起が随意的な話題化関連句(topic phrase: TopP)と焦点化関連句(focus phrase: FocP)の二種類の談話関連投射を挟み込む形で節境界位置に現れると想定されるカートグラフィ補文標識句(complementizer phrase: CP)分析について, 前者二種を, 近年のミニマリスト統語派生理論における統語計算の基本単位であるフェイズと想定することは理論的に妥当である.本論では, このような統語派生分析をフェイズカートグラフィCP分析と称し, その分析のもとで, 英語の節境界位置に複数の談話関連要素が出現する多重談話関連要素移動(multiple discourse-related movement: MDM) について考察する.具体的な移動要素は,話題化要素,焦点化要素, そしてWh疑問文におけるWh疑問詞である.本分析は, 節境界位置に移動した談話関連要素の語順に関する文法的事実を捉えることができる.(田中公介「英語の多重談話関連要素移動について」(Journal of UOEH、40 巻 (2018) 3 号、243頁))

などというトンデモ日本語を書いてみたり、或いは、駆使するもの言葉のみでただもう言葉有るのみという哲学であっても、その研究者となると、

そこでは終に、有それ自身をその自性に向って性起として観入(Einblick)する極に於いて、思索の事とする事柄としては「有は性起の内に消失する」(ZS22)と言われ、有が自身の自性を現起する在処(Ortschaft)は開け(Lichtung)とされる。(竹内享「ハイデッガーに於ける真性の問題(続)」(哲学論叢 (1977), 4、45頁))

などと目も当てられない日本語に心酔してしまうのである(哲学自体の文章はこの記事この記事で例を確認。また哲学の研究者が書きそうな日本語をこの記事で語彙だけから例示している)が、そうではあるものの、概して、知的領域に居る人なら想起や描写に慎重だしその陥穽悪癖を心得てもいる。

こういった人たちでも、日常の何気ないやりとりでは簡単に《常人》に戻る。ところで、日常的発話は、これはもう到底到底内容のあるもの・内容の写像になっているものではない。ここで書いたことだが、発話とは心中がそのまま形を成すものではまったくなくて、一種の発言リストから自動的に飛び出てくるものである。そうして、一定の閾以下ならただの気晴らしトーク、一定の閾前後なら本当に言いたいことをグルグル巡ってるだけの延々婉曲会話、一定の閾以上ならただ口ゲンカで勝ちたいだけ、という実情で運ばれ、会話は、その内容と言葉尻とがまったく即応しない。自分の発言がこんな頽落物にならないように意識持てる人がどれだけ腐心して発信しても、成果はたかが知れている。音声による言表は一回的で即興的で非構成的だから、字にするよりは、何をどうしようとも、描述力に乏しく情報密度が低い。これが音声言表だ。そんなことをさせたりなんかしたら、表現者など、自作品について的外れなことを喋って当然である。

ところで言葉の達人というと、文人や弁人や詩人を思い浮かべるかもしれない。まず詩人というのは、特定のルールに応じて文を組み立てるゲームに長じている連中であって、事実の描写に努めているのではない。描写に努めるとしてもせいぜい内面心情のであり、しかもこれもまた、技法やアヤ、修辞やトポスといった約束にがんじがらめになった上でのことだ。つまり言語による描写の達人である訳ではない。心地よい言葉群の製造職人であるにすぎない。また「弁論家」なり演説名人なりもあるが、これも、社会的時代的諸々の条件に制約されたフォーマットの中で動きつつ即興も織り交ぜるという連中であって、しかも目的が特定の感情と行動の誘発であり描出や記述descriptionBeschreibung)ではない。アジテーションは知の営為ではない。

では制約なく自由に言葉をつづれる思想者や小説家はどうなのかと言うと、これも怪しい。例えばついつい対句にしてしまうが、そこでは概念や論述支柱や問題定立のほうも対になっているのだろうか。3対7対になっていないだろうか。記述の熱意よりも表現法でアタマがいっぱいになっていてそっちに走って行ってばかりではないだろうか。なぜ「流麗」であろうとする。なぜ堅固な構造を有したがる。伝わりゃなんでもええねん。なぜその比喩が必要だった。なぜ … しかし美文名文とはすべてそういうものだ。ひたすら見栄を切っているのである。しかも、それがまた仕方のないものでもある。自分で物語を作ったらキャラの発言や行動がなぜかこっち側創造側の思いどおり意志どおりに行かず自分から勝手に動き出し話し出しよるというのを経験するものだが、そんなことはいいとして、文体というのも自分で自分の全神経を行き渡らせて采配できるものではなく、書いていると相当程度勝手自動的に文章が出て来てしまうものである。「自動筆記」というのはこういった日常普通の現象を盛って盛って膨らました嘘乙である(本当にやってしまったのならただの脳機能しょう害だ)。或いはこう言おう:自動筆記含めオカルト超常現象「霊」うんたらが心の髄からの邸能愚能の人非人向けのゴミクズ話題である一方、自動筆記と言うとこれは日常的事実を語っている。古典時代(いつやねん)の「偉大」な書き手たちが、表現とはその内容に即応した形態を「必然的」に取るものなのですとか何とかアホみたいなゴテゴテ語で証言するものだが、その大半がアホみたいな戯言だとしても、表現の自動的発出については是適格に感知していたようだと言える。

ここから、表現者が自作についてなんとも愚劣な言葉しか吐けないことの原因がもう1個わかる。表現者には自分の表現を意のまま手中になど出来ないのであり制御できないのである。それは自分の中から自分以外の何かがやってくさりやがることなのである。であるがゆえに、表現された作物とそれを表現した人間とを別と見るしかやはりない。上に貼ってきた来たリンク先記事でさんざん言ってきたように。

例えば、怪物と闘ったこともないくせに、怪物と化したこともないくせに、深淵を覗いたこともない分際で、深淵から見返されたこともない分際で、中二病で引用して来る落書きバカがうじゃうじゃ居るが、この箴言のように書き手の実体験ありきと言える文章でも、文章となって書き手を離れて読者に現れたなら、元の書き手にとって「元は」どういう意味どういう思い出だったかはもうどうでもよくなる。自分の側で、徹底的に憎み(内心ででも)闘った相手がいたら自分もこれに似てきたりほぼまんまコイツになってしまうのであるという体験を経てそこを心当たりにこの箴言に付き合えば、それでいい。表現は表現者を離れる、何なら始めから離れてる。表現した奴に話を聞いてもしょうがない。作品は作品として現れているものがすべてである。現象は現象である。現れがすべてだ。それの出身地を尋ねても仕方ない。

なお、類例が他に何点もあるにはあるのだが、中でも『X-ファイル』シーズン3/エピソード14「グロテスク」が、このニーチェ箴言の特に前半を見事に可視化しているものである。そのことは、ここなりここなりここなりここなり、どこなとで述べられていることなのだが、いま特筆大書しておきたいのは、「グロテスク」で怪物になってしまう人物を演じているのが、「ロボコップ」のクラレンス・ボディッカー役だったカートウッド・スミスだということである。前世紀のバイオレンス映画では登場する悪役全員が稀代のサイコパスにして殺人狂なのだが、そんなこヴィランたちの中でも、クラレンス・ボディッカーの不気味さ残忍さサイコぶりと来たら、一頭地を抜いていた。テレビで放送してた時、マーフィー惨殺シーンやED-209初登場時制御不能シーンを観た時、身の毛もよだつショックで震え上がり、よだれを垂らしてもんどり打って放射能を吐いただろうが、当作品のエグさの大半が、クラレンス・ボディッカーという、容姿がおっさんで中身が容赦なきテロマシンという独特なキャラの強烈な印象に依るものであるだろう。もしかしたら、映画が生んだ究極の怪物アントン・シガー(Anton Chigurh)と並ぶほどの存在感かも知れない。本記事の役目はこれを書いたことによって果たされたから、他の部分は読まなくていいです。

それがてめえに作用してきたその作用(Werk)とだけ付き合え。効果がすべてだ。《本当はもっと》《裏ではこんなこと》《去年よりは落ちる》「全盛期」www《これで〇〇さえ揃えば》《〇〇がもっと有能なら》《予算がちがうから》《本場では〇〇》《実演はこんなものでは》《本調子じゃなく》《作者の伝えたかったことは》《〇〇に篭めたメッセージ》、等々といったタワ言・中身ゼロ言葉・脊髄反射文句を一切聞くな。ってか喋るな。

さて声・音声・肉声というものは、いくら切々たるものであろうと(亦はそうであるがゆえに)、記述手段・伝達手段としては視覚手段に比すればチンケであるのだが、何故これに今だに重きが置かれているのかと言うと、これしか手段が無かった時代の名残りである、マジだ。書字の歴史をいまさらウンチク振り返らんでもよく分かっているだろうが読み書きが普及するのは歴史上ごく最近のことであり、ここ1年ぐらいのことである。最初の言語であるパンツァー語以来人類は800億年間音声だけで情報を伝え合っていた。だが現代は、獲物を見つけたことを知らせるために400マイル離れた仲間に叫び声を上げる時代ではない(ところで、マイルポンドフィートヤードを廃止しろ、元号よりも早急に)。囲炉裏でかまどを囲んで祖父兄つから民族創生詩が口承される時代ではない。教室に集まって講義を聞くのもいいが、つべにうpしてくれたらいい、倍速で聞く。むしろPDFで配布してくれたらいい。キャスターが報道を読み上げるのを聞き終わるまでの時間がムダだ。ニュースなど、ブログでやれ。それから909%のブログ、中身ゼロのゴミ短文、ツイッターでやれ!!!!

伝えるのに声はもう要らない。ユーチューバーはめんどくさがってないで、書いて発信せえ。静止画をつべに上げる人間のクズは二度とアップすんな。しゃべるというのは、兎にも角にも、書面による手段が極めて制限されていた時代、その前の4兆光年前の時代、しゃべるしか無かった時代の産物である。もっかい言う、人体の顔面部分に空いてる摂食用・即尺用の穴が音を出すというやり方でしか情報を伝達することが出来なかった、そういう苦肉棒の策が人声であり自称言語なのである。口が恥丘に空いてたら別にそこから会話したし、菊門から話せたら別にそうしたのである。

時代の物質的物理的制限(環境)が人間の行動や心理に加えてくる影響を決定してくる統制力というのをナメたらあかん。有名どころで、A国とB国の臓器提供同意者数がなぜ異なるのかという問題予備予備予備)の話がある。Eric J. Johnson, Daniel Goldstein: Do Defaults Save Lives? (Science 21 Nov 2003: Vol. 302, Issue 5649, pp. 1338-1339)のこと。募金や献血をどんだけするかはどんだけ近くに受付があるかどうかに、思ってる以上にかかっている。健康や環境や生態系にどれだけ配慮できるかは、規制と予算に、思ってる以上にかかっている。暴力的ゲーム・残酷ゲームやバイオレンス描写メディアが犯罪増加に寄与する程度は、そこが阿呆な銃自由社会であるかないかに、思ってる以上にかかっている。つまり倫理や道徳はインフラの問題であることも多分にしてある。さて、自分の人生のコースを生まれのせいにして溜飲下げるクズがごまんと居る。遺伝や生まれとホザくなら、まず、これを読め:

天才を考察する―「生まれか育ちか」論の嘘と本当

天才を考察する―「生まれか育ちか」論の嘘と本当

  • 作者: デイヴィッドシェンク,David Shenk,中島由華
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2012/09/01

お前が無反省・無知識・無思考にくっちゃべってた事がどんだけ事実ですらない言い訳だったのかを知ればいい。そう、自分の人生の失敗に関しては、環境のせいにする。自分が成功したことに関しては、自分の手柄にする。他人なら、失敗は本人のせいで、成功は「恵まれた」境遇環境のおかげ。これが帰属の基本的エラー!!バカはすべてを逆にするから、元に戻しておくと、人々がなぜそうするのかというのは、環境に、物々的な制約に、今それしかないという条件に、思ってる以上にかかっている。お前が言い訳クズであり社会保障受給者や高収入者を妬んでいるのは、お前自身の心の問題に、思ってる以上にかかっている。

結果がすべてだ。

ブランコ

ブランコ

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2016/11/02
  • メディア: MP3 ダウンロード

2億倍の世界・天

 

  天  |  地  |  魔  |  闘  

 

74億分の1の君へ (TYPE-C)(DVD付)

74億分の1の君へ (TYPE-C)(DVD付)

  • HKT48
  • 発売日: 2016/04/13
  • メディア: CD

 

脳が1秒間に4000億ビット(400 billion bits/second)の情報を受け取っていてその内のわずか2000ビットだけが意識にのぼるとJoe Dispenzaが言っているという話がある。(ググればなんぼでも出てくる話)。脳に処理してもらって現実の2億分の1の世界に住んでいるようだ。それにしても、脳というのはつくづく自分勝手にやっているよそよそしい異物である。覚えたいことを記銘できないし、脳が寝ようとしない限りいつまでも布団で呻吟。人間は脳に飼われているようだし、こっちも脳を飼っているに等しい。なだめすかして躾けてとしないかん。こいつは他者だ。(なお、Dispenza等の識者ではないが、すぐ「脳」に宇宙の真理を見たがるアホがいるから、この臓器に特段注目することの誤謬についてこの記事の後半参照。)

これが、『純粋理性批判』の言う「Mannigfaltiges」であろうか。ところで、

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

  • 作者: トールノーレットランダーシュ,Tor Norretranders,柴田裕之
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2002/09/01

の白眉は、感覚器官が毎秒1100万ビット(11 million bits per second)の情報を受け取るものの意識にのぼるのが数10ビット以下だと諸研究からまとめた命題がその1つであろうが、これもまた、「Mannigfaltiges」を描いているかに見える。旧世紀思想と現代科学の共通性、何もおかしいことではない。そのことは、本シリーズのこの記事で証示する。毎秒1100万の内訳だが、視覚とそれ以外が10:1の割合であり、ヒトがいかに視覚動物か、いかに視覚ありきの存在かということが判る。PC部品中一番デカいのがグラボであることもうなずける。ヒトは見ることに傾注するのだ。色の名前は多数あるが、音の名前はそこまでは無いし、感触の名前など「風合い」勘案しても転用とオノマトペしかない(話変わるがオノマトペとは言語の汚物である)。リンク先に見る通り聴覚が触覚の10分の1しか受容していず嗅覚と同割合になっているのだが、しかし音は経験も理論も視覚に次いで豊かである、豊かに分節されている。ということで、経験とは視聴覚が大部分、むしろこれだけでよいのであって、生身の経験など要らんのである。そんなカッタるいものには付き合わんでよい。

こういった数字がおおよそのものであるとか試算にすぎないとか、実験手法や解釈といった変数によって大幅な違いが出来るとかいったことは分かる。それはそうなのだろうが、どれだけ差し引いて考えても、大した数字なのである。ビクター・リチャーズ(Victor Richards)が毎日3万(キロ)カロリー摂食していたというのは嘘でそんな食事の日があったこともあるだけと訂正もされているが、実際は1万前後(„from 8,000 to 12,000 calories a day“)だったにしても十分常軌を逸している。(なお、専門筋や研究者には関係のないことだが、驚異的な数値・数量・見積もり・概算・推定が何かあると、その数字だけはないと論証しさえしたらそれでハナシを無効化できたと思いこむバカがいるが、たとえ10分の1や100分の1であったとしてもスゴいことに変わりはないという初等算数も解しないようだ。)こういった話を聞いて、人間には世界がウン億分の1ウン万分の1しか見えていないだとか、それだけ倍の豊かな世界が本当は広がっているだとか安直に解釈してはならないのであろう。それはそうだろうが、実際に人体が取り込んでいるセンスデータ量と意識与件量が著しい対照をなしていることはとにかく事実であるのだろう。そしてそうであることが要点だ。

『ユーザーイリュージョン』が論じていることは、情報とは捨てられるという側面が重要であり、莫大な感覚情報を捨てることによって意識経験が成り立っているということなのだが、いま、この神経上の動かしがたい事実にあえて抗がってみて、なるべく捨てないという方向で考えてみる。1100万にこれっぽっちも及ばずとも、どうせ元々こんなに受容しているのだから、それに向かってなるべく開かれてみたらどうだ。どうせもともと想像を100次元は絶する世界に住んでいるのだから、モナド自閉室に遮断されていないで、外の100次元を見ようとしてはみたらどうだろうか。100メガショック!痴呆どもが「xx次元」に酔癲狂したり、宇宙()だのどこ銀河だのにはるばるトんだりイったりしとるが、そんなバカ空想にウレシがらずとも、今こうしてるしょーもない何気ない一瞬一瞬が実は2億倍の世界なのである。(といった談義が、あのアホの右脳左脳漫談よろしく、科学を誤解した虚妄夢想だと将来言われるようになるのだとしても、別にいい。本シリーズがしゃべりたいことのネタ、話のマクラにすぎない。)

そう、意識研究のこのような数字こそ、自分の人生に関係のあるびっくり情報なのである。それに引き換え、暗黒物質なんやかやが全宇宙の95%だとか、98%のチンパンジーが人間だとか、ヒトの遺伝子の70%がウニであるとか、タンポポと人間は25%同じだとか、

98%チンパンジー―分子人類学から見た現代遺伝学

98%チンパンジー―分子人類学から見た現代遺伝学

  • 作者: ジョナサンマークス,Jonathan Marks,長野敬,赤松真紀
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2004/11/01

脳はたった10割しか使われていないだとかいった、そういった、ニホンヒトモドキたちがわくわくする与太話や、また、遺伝子のほとんどがジャンク品であるとか、DNAとNANDの980%がイ良い日ン マだとか、HRRDNに300の国があっただとかNSDAPだとか、そういった話などは、こうしている間にも毎秒毎秒4000億カロリーを受け取って1100万チンパンジーを感受していながらほぼ全部を水に流しているという事態に比べたら、どうでもいいヨソ事ヒト事である。水に流せ。(このへん読んどけ。)

さて、実はこの記事の続きなのだが、言いたいのは、ただでさえ狭められた世界に住んでいるのに自分でさらに狭めててどうすんねんということ、可能性というものを考えよということである。かつてチャールズ・デカルトが「Nichts ist wahr, Alles ist erlaubt」と言ったように、考えてはいかんことなど無いのである。
例えば、(無)意識研究上 認知や注意に関して言語の影響が主題的に論じられるのを見たことがないなんてのも、言ってよいだろう。つまり、名前が貼り付いているものに注意を向けやすい、言語が分節している通りに外界を意識する、といった事が研究されていったらどうだろうか。(あと、生命倫理系では意識有るとは言語有ることだと論じられることがあるが、(無)意識研究上では何故か絶えて言われない。)色が無限なのはもちろんだが、無限に見えるのではなく名称の数だけが「見える」。赤系で言うと、赤・ピンク・紅・桃・桃香・大西・スカーレット・臙脂・梅・山・恋和・朱莉・石塚・緋・緋杏・村川・茜・守屋・明音・高・柳等と言えればそれが見えるが、これらの中間や中間の中間や中間の中間の中間はこれらのどれかに併合される、いわば見えなくなる。しかも日常では「赤」とぐらいにしか言わないから、残り全部が赤の知覚に併合されるであろう。日常語彙と言うと、例えば「橙」という語がなかったとしたら、赤と黄の中間色が「赤」か「黄」に併合されるだろう。これが、ゴリュボイ/シニイ(goluboy / siniy)問題である。言語系の本は他の奴と同じ話を100万回繰り返すのが大好きで、例えエスキモーの言語に「雪」を表す語がそんなに沢山は無いということを飽きもせずひたすらぐちぐちぐちぐち言い続けるバカ欧米人のアホ文章を読まされるのだが、これに取って替わるかも知れないバカ1つ覚えが、このgoluboy / siniy問題である。まあググれ。こんなものは、露助の言語の慣習にすぎない。「マゼンタ」を「赤」と同頻度で使い続けてれば、2色の赤が日本にとって存在することになるだろう。さて色は、むしろ名称が多すぎる。分類されすぎていて、研究されすぎていて、愛好されすぎている。さすが視覚動物。他方味など5個しかない。10倍あると仮想しても、色の1系統より遥かに分類が少ない。匂いと来たら、何と、少なくとも日本語では、独自の名称がただの1つも無い。なに!!匂いとは匂いの記憶の話題が有るように痛切な体験をもたらすものであるのにか?食べ物の味とは匂いであるのにか?確かにどうも、知識が異常に偏向している。これは、感覚という当たり障りのない話題であるから、はあはあそう言われたら視覚体験以外はろくすっぽニュアンスを把握しとらんかったなと思う程度だろう。困りはせんだろう。詩人なら困るだろう。この知識偏向もとい貧困に、芸術はとっくに気付いていただろう。ただ、1次元であるゆえに全方位的な(叙情)詩と違って、他の芸術は視覚・聴覚に特化しているから、そんな困らんかっただろう。いや詩人だって、視聴覚以外の体験にそないに思いを馳せはしてこなかっただろう。体験というもののニュアンス・精彩・ディティール・内密・陰翳に分け入り、常人が及ばぬ襞の細部にまで踏み込んできたとされる詩人であっても、手触りはともかく、匂いや味をそないごっつ探求してきたか?いや、見聞きするものでも、自負するほど体験の蘊奥にまで入ってきたか?御大層な大詩人様とて、1100万ビットの前には、大したこと出来てないのじゃないのか?

素直に聞けば、ぞっとする話だろう。感覚だけに絞って見ても、いとも素寒貧な世界に住んできたことが分かる。ご自慢の視聴覚でも、毎秒ン百万ビットだかを捨ててきた。しかも、まだ、体性感覚・疼痛感覚・運動感覚等の話をしてないんだぞ。さらに、感覚の上のレベル、言語が真に言語たる認識のレベルならどうか。悟性だから感覚よりはるかに情報量少ないとは言えないだろう。むしろ認識と知性のレベルでは、自分の感覚+それ以外全部が対象であるはずだ。ここでの知識の偏向貧困も、惨状を呈しているのでないか。考えたら、思念想念だけでも手に負えないほど多様豊穣である。心に去来すること、内心独り言を何もかも書き留めようとしたら、しかもそれが出来たら、一体どうなることか。物書いてるとアイデアが逃げないようにメモが手放せないし、メモでも間に合わんものでもある。入眠時幻覚を数10回分も記録保存できたらそれだけで未曾有の腹案帳が得られるだろう。

もう一度言うと、語が無いと、みぞれと雪、ひょうとあられの中間を知覚できない。20歳の前と後は区別したい(「成人」)が、33歳の前と後は区別する気にならない。昇格前後の松村香織は区別できるか。卒業前後の志田愛佳は。1個の学問が出来るためだけに大山鳴動してしまう。社会生物学。部長課長係長等と上司名が細分類されていない英語ではどの上司も一様にただのボスだろう。ヴァイスプレジデント。Patrick BatemanはBatman。ただこう言い出せばみぞれと雪の区別どころかみぞれと雪も無いだろう。降るたびに何かしらは別物だ、無限だ。 

結晶/白組

結晶/白組

  • NMB48
  • 発売日: 2017/07/04
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いやそんなことは言ってない。もっと分類名称を増やしてみたら、或いは古来にもっとあったのならそれを復古させてみたら、面白いのじゃないか、新しいモノが開かれるのでないか、やるだけでもやってみたらいいのじゃないかと提案しているに過ぎない。降雪ごときにそこまで言えるかと言い返しても来るな。例を挙げているだけだから、具体的には自分で考えろ。語が(見え)ないところには対象も無いということを問題にしておるのだ。「橙」という語がなければ赤か黄しか見えないだろうように、今知られている数々の社会問題は、もともとは、(問題としては)気付かれてなかった=存在してなかったのである、名前が付くまでは。

「人格」も「人権」も、昔は無かった。「子供」が無く体の小さい大人扱いだった時期が西洋に数百年間あった、現行教育体制が基礎を輸入したあの西洋でだ。こういうのが見えるように→有るようになったのには、こういう名を呼ぶようになったことが関与しているのではないのだろうか。「男」「女」「大人」「子供」にまつわる悩みが絶えないのは、これだけしか名称が無いということも関係あるだろう。名指せば性別も60~70に分かれる。別に100あってもいいだろう。もう悩まんな!呼ばれることでのみ初めて「ウイルス」「細菌」「古細菌」「真菌」「バクテリア」たちの区別が認識されるようになったのだと言いたいのではないが、素人がこれらを区別できるのには、そう呼ぶことによるしかない。素人には、名前によってこそ違うのである。命名によってこそ、数々の問題が明るみに出、存在するようになり、名前がないことによって被差別側が無視されるのである。

そう、素人は「人種」を3~5に分けてしまうのである。実際は1000区別してもいいぐらいなのだが、名前が3~5しか無いのだ。

  • ラテンアメリカ人は日本人と中国人を区別できない。「chino」としか呼べない。
  • 一方、日本人韓国人中国人ドイツ人アメリカ人ラテンアメリカ人ニホンヒトモドキ等々々々を全部足したよりも多様な遺伝子プールを有する人々(有名な話だが一応ここここなどを読んでみい)を、ほとんどの日本人が「アフリカ人」としか呼べず、何の区別も付けれない。
  • 理系バカ時代の今日では遺伝子ウンタラの話が喜ばれるが、言語から見ても、インド・ヨーロッパ語族の3倍近い言語数(1400~1500)を有するニジェール・コンゴ語族があれば、
  • それとまた別のコイサン諸語の言語が、日本の現地語と比べ物にならない高等複雑な言語であるのだが、我々はこういった人々をどうイメージしてきたであろうか。
  • 「野蛮人」として描かれてきたのは中南米先住民もそうだが、「南米」の先住民の語数(見つかっているだけで75以上!!!!!!!)がユーラシア全域の全語数を大きく上回る
  • 「インディアン」などと日本土人に呼ばれてきた人々の中でナバ(ヴァ)ホ族など比較的名が知られているであろうが、この人々の言語が気が遠くなるような代物であることなど、IQ自慢の「先進国」人の何人が知っていることだろうか(この記事も参照)。ナバ(ヴァ)ホ語は北米先住民言語のうち特に有名なものなのであるが。
  • 日本の1.2倍の広さのパプアニューギニア820以上の言語が存在しており、その84%が、「パプア諸語」という、もはや「全容を把握することさえ永久に不可能」と言っているに等しい巨大な謎言語グループにかろうじて「分類」される。
  • 日本人は21世紀になってもケニアの人々にマジックを見せるという番組を作って(出演マジシャンにも失礼だ)テレビで流して、それを誰も問題にしないというほどの、意識後進国であり、土人社会であり、元号酋長部落であり、蒙昧野蛮国家であるのだが、義務教育普及だのGDPだの一体なんじゃろなと思うよな。

 

  天  |  地  |  魔  |  闘  

 

2億倍の世界・地

 

  天  |  地  |  魔  |  闘  

 

差別や暴力の問題、人類の愚行史、すなわち人間はなぜ愚かなのかという問題は、人間はなぜ周りとおんなじことしか出来ないのかという問題と重なる。一の価値観への化志向が共同-排除体形成の原動力であることや、1つの=同イデオロギーへの併合・からの締め出しがあの大虐殺この大弾圧の因であることが周知である。↓ もそう述べてる。

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

米人ではない=とじではないから、日本に原爆が落とせたのである。(ところで、「ピカドン」が空から降ってきたのではない。国家・合州国が国家・日本に核兵器を投下したのである。「死者」が出たのではなくて、アメ公に大量「殺戮」されたのである。どこからともなく天の使いのように「空襲」がやって来たのではなくて、「空爆」によって焼かれ殺されたのである。「戦争」「の悲惨」ではなくて、「侵略」の「暴虐」。あの戦争時日本人はアメリカから明白に「虐殺」されていたのである。何故日本人は何十年経っても罪ヲ憎ンデ式のものの言い方しか出来ずそんな意識しか持てないのか。なぜ、太平洋戦争時に北米合州国にやられたことを天災か何かのように言い思うことを続けるのか。最悪の意味でのノンポリではないか。それは、原爆→朝鮮半島ベトナム→中東等の流れの前に北米先住民ジェノサイド→フィリピン等があるといったこと、こういったアメリカ合州国の侵略史にいまのいまだに大多数の日本人が無知だということと関係ありそうだ。この記事参照。

と言っても、こんな大げさな話は営業トークとしてやってるに過ぎず、主関心は身近なものにばっか有る。例えば、とにかくどいつもこいつもまわりと同じことしゃべりよる問題。例えば、日本の声援文化を評価したくて先行研究ならぬ先行発言を探しても、貶める文言しか見つからない。ボディビルの大会での声援は、ほとんどの出場者に相当な励みになる有難いものであるし、鑑賞側も気分が盛り上がるし、「ガヤ」と同じで空間全体を盛り上げる。つらつらよく見たら、世界に誇る文化である。であるのに、ボディビルの大会での声援は、茶化されてバカにされているだけである。誰もかれもと同じことしか書けず述べれず、評価し促進すべきものの足をただ引っ張る。せっかくイイものを持っていながら、それこそ「自虐」するアホ国民。残念ながら今は冗談を書いていない。評価と言うなら、バラエティ(ー)番組でのスタッフ側・AD側・裏側からの笑い声も、有難い文化である。素直につらつらよく聞いたら、なんも不愉快なものではない。これが無かったら、多数の箇所で視聴者は笑えてないだろう。気分がトクしてないだろう。であるのに、これを評価する声でなくこれに苦情を付ける声しか、見つからない。「評価してみることももしかしたら…」「よくよく考えてみたら本当は…」という風にして大勢がやっていることに距離を取ってみる、ということが出来ないのである。一方で、海外の番組の「録音笑い(laugh track)」には、誰も文句を付けない。しかしこっちは、機械が出してる音である。日本のバラエティ(ー)のほうでは毎回毎回人間が笑い声を出していて、そういう労力を毎度毎度費やしているのであるのに対して、録音笑いは、ボタン1つスイッチ1つだぞ。バカにされてるのがわからんのか?わからんか。どうせ、アメリカが発祥でアメリカの番組で盛んなものだから、文句付ける気になれんのだろう。日本人にとっては、「アメリカ」人のすることはすべて尊いことであり神のなさることなのであり、毛唐タレントがおしなべて「セレブ」という半神族であり、列島家畜人どものHerrenvolkなのである。そう感じるのに誰もおかしいと思わない言わない。なお、「北米合州国」と「アメリカ」の区別が付いていない模様。後者は大陸名だバカ。We're all living in Amerika。(あのな、もうアメリカは入ってこんでええぞ、日本の中に十分あるから。用は済んだ。消えろ大国。例えば

摩天楼の距離

摩天楼の距離

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード

とは言うが、この曲で言う「ブロードウェイ」等はすべて日本のこと・日本でのことである。かつて憧れられていたアメリカの何やかやに仮託してもっぱら日本のことだけを歌っている曲である。遠い異国のアメリカはいまや憧れる対象ではない、うちら日本にすべてある、日本で十分充足しとるわい、と高らかに宣言している曲である。)しかし勿論、他の数々のアメリカ文化WASP文化と同様、「録音笑い」も、ゲロ反吐に気持ちが悪いだけでしかないクズごみ文化であり、いや別に文化でもない。つらつら聞けば、ラフトラックは、ただただ、クソ気持ち悪い。素直に自分の感性に耳をすませば「海外ドラマ」「海外バラエティ(ー)」でお前たちが聴く「録音笑い」は、この世のどんな醜いシーンよりも比較を絶して邸能で低級で下賤で下劣なクズの中のクズである。しかし、ところが、どこのどいつも、こっちには何の不満も覚えず、自国の立派で愉しい文化はこれを毀誉褒貶しているのである。これが、周りとおんなじことしか出来ないバカ問題の一サンプル。もちろん、テキトーに思いついた一例にすぎない。

特に無学の素人ほどまわりと同じことしか出来ず喋れず知らずのファシズム予備軍であるから、本ブログの主な関心のジャンルから例を挙げとくと、例えば有象無象のアフィもといアホブログなりアホー知恵遅れなりを見ると、ちょっと知ってる程度のアホーの頭の中には、ロニー・コールマンとマッスル北村しか存在しない。これは専門筋によく見られる《やっぱりシュワルツェネッガー》病とは違うっちゃ違う。後者もオツムが停滞しておるがゆうたらオメデタいだけで、ニワカという性根からのアホとは区別されるかも知れない。こうして、バカの1つ覚えならぬバカの「ベンチ」覚えに今日も明け暮れる。カールの話題はひしめいていても、上腕の本体たる三頭はほったらかし、おかげでトライセプス種目がろくに無い。

他のやつと同じことしか喋れない・考えれない・感じれない・書けれない病。キリがない。8時間睡眠常識に短時間睡眠ブームが取って替わった(取って替わっただけ)ら、睡眠の話のときには、睡眠7時間未満になる時間配分しか言わなくなる。9時間以上が本調子だなどと書くと《恥ずかしい》のだろどうせ。何が正しいか合ってるかいう話はぜんぜん全くしてない。ようするにお前はただ単に周りと・他人と・大多数と同じことを喋ってる・書きこんでる・質問してる・回答してるだけで、その中身を考えてみたこともないのである。虐待が当たり前だった前近代から保護論愛護行動が珍しくない時代になり、肉食大好き畜産屠殺の現実なーも考えませんってのが大っぴらに公言できないようになると、公言控える。ブームが交替して、大っぴらに公言するのが流行になると、大っぴらに公言する。食肉に疑問を口にする者がいたらこれを全力でリンチする、みんながやってるから安心して。どこのどいつも、何の考えにもなっていない小理屈・自分願望・聞きかじりを並べ立てて、「じゃああなたは肉を食べなければガー」「動物がかわいそうなんていうならガーガー」と発狂するだけ。食でも社会問題でも国際関係でもエンタメ関係でも作品評価等々々々なんっっでも全部これ。周りが或るものを非難し出したら、ひたすらそれに便乗してリンチに加わるというニホンヒトモドキ。こうして、ニホンヒトモドキは、周りがみんなやってるから安心して韓国朝鮮を中傷(だけ)する。反戦が出来ないなら黙る。平和憲法を顕彰することになったら、する。9条に文句つける風潮になったら、文句つける。

もちろん、ニホンヒトモドキは、自分の頭で考えて意見を言っていると錯覚できる。結果として他と同じ意見になっていると錯覚できる。そう、バカはつねに原因と結果をまちがえる。バカはすべてを逆にする。本ブログのような論者が元に戻してやらないといかん破目になる。

こちらが、「日本」という動物園です。あちらが、火病リザルの檻になります。ご覧ください。この劣等種は、「みんながやるから」病が問題ダーと書きこみはするが、問題にしなければならないほうの「みんながやるから」行動は一切まったく触れず感じず考えず、みんなが問題にしている「みんながやるから」行動のことしか言えない書けない。ひたすらクソどうでもいいほうの同調行動しか話題にしない。これほどまでの邸能人種が、地球上には、いるのである。

さて、名前の付いてるものしか見えない問題だが、世間が分節した通りにしか受け取れないということでもある。決まりきった年中行事に従い、「朝」に「1日」を始めたがり、「日曜」に休みたがる。「年末年始」には、このような過ごし方をすると通念になっている過ごし方をしなければ、死ぬのである。四季を感じるというより社会通念に感じさせられる。「衣替え」だから、そういう服装にする。マーケティング大成功。熱帯化する日本。ちなみに排ガスの問題は有害物質散布であって「温室効果ガス」ではない。温暖化に関してはぜんぜん足りてないほうが問題である。「朝食」と言うのだから、そうだから、それは食べないといけないものなのだろうと信じこみ、苦しかろうと腹こわそうと、意地でも食べる。1日3食食べれないと悲劇の主人公。暦が「春」と呼んだら4月の紫外線照射量が8月と同じだということが知覚できない。言語が「太陽」と呼ぶから暑さで日焼けと錯覚できる。よって、2~3月から焼き始めたらいいのである。習慣が「油」と呼ぶから脂を摂食したらイコール脂肪になると信じ込んでしまう。もちろん、バ慣習を疑えと言ってるだけで、何でもありでいこうぜとは言ってない。車で歩道を走れとは言ってない。そうでなく、お前が信じてしまっているもの、お前が社会=言語から信じ込まされているものが本当にすべてなのか、他の可能性というものを考えれんのじゃないのかと言っている。車と言えば、「自転車」など、今普及してるあの形状のものだけでは全くない。関西サイクルスポーツセンター。衣服は上と下の2つにしか区別できない。3つに区別したり、右と左の2つに区別したりはできない。成程それで不便がなくて人体に合わせた必然の産物なのはそうかも知れない(本当に?ゼッタイ?)。一方傘は確実に不便であり不便でしかないし、非必然的で歴史的偶然の産物である。傘さしても水が防げるのは頭の上部ぐらいであとは濡れるし、干し場所問題があったりで、発明ではなくクズでしかないのだが、普及してしまい市場を席捲してしまえば誰も不平を言わない。首から下がぼとぼとになりながら、こんなクズで我慢し、不満を知覚しなくなる。「雨」と言えばバカの脊髄反射覚えで「傘」。史上最もアホでマヌケな観念連合。もし、このクズに名前が付いていなかったら?いや、今よりもっと多種類の雨具があって「傘」がその下位分類名にすぎなかったとしたら、ここまで不当な高位に鎮座して有難がられていただろうか。「自転車」という、タイヤ弱い問題・風で進めない問題・置き場所問題・電車乗れない問題・ 

阪急電車/Team N

阪急電車/Team N

  • NMB48
  • 発売日: 2018/04/04
  • メディア: MP3 ダウンロード

歩行者からしたらひたすら邪魔または走る凶器なってる問題など多数の欠陥にまみれた乗用物に自動車ほどバリエーションが・オルタナティブが・改善案が無いのは、この語があの形状のイメージとしか結び付かないことも原因かも知れない。販売戦略の歴史を見れば分かるように商品がいかにヒットするかはどんな名前を付けるかに掛かっているが、物品の名前というのは他愛のないものではおさおさない。今の物品に我慢しているのは、それにそういう名前が付いているから、そうしてそれしか見えないからなのかも知れない。身体が蓄積するほうも食品として食べるほうも「あぶら」と呼ぶのをやめて分類を増やしたら、食のアホ誤解を1つ減らせれるかも知れない。なぜ人間はアホなことをするのだろう。なぜ甘い物食べた分はジムのコンベア(ハムスターの回し車)上で走ったら済むというバカすぎる錯覚ができるのだろう。なぜ自分の体や運動に関して無知蒙昧でいられるのだろう。なぜお前はお前の汚いケツに財布を突っ込むのだろう。突っ込んだろか。そもそもなぜ尻ポケットのような使い物にならない無用物が使われるのだろうか。「ポケット」と呼ばれるからじゃないのか。ぽけっとハ物ヲ入レル所ダという固定言語観念に従っているのではないのか(それ未満のアホかな?)。縄文人がスーツ着て歩いてるのが現代人だが、なんとも言霊信仰がお盛んで、言葉とはもはや人生である。〇〇人という単なる言葉が自分に貼り付いているとそれに無我夢中になり、村根性から国粋までイデオロギーに狂奔し、アイデンティティ()だとか何だとかに陶酔恍惚する。お前は、〇〇人でしかないのか?いっそ〇〇人なぞ辞めたらどうだ。お前がナショナリズムに発奮してもトクするのは国家様だけだぞ。何なら「宇宙人」もヤメてまえ。しらじらしいぞ。

どうーーーしても、世間が・社会が・言語がお仕着せてくださる図式通りにしか世界を認識できず、何十年間もハミ出さずに生きることが出来てしまう。何かがおかしい、これでは不満だ、どうにも足りていない、そうと限ったことじゃない、あいつはホンマに偉いのか、最初の仮説や設定からずっとおんなじコース進んでないか、なぜ研究タイトルはどれも同じなのだ、人生にもっと色んなことがあってもいいのじゃないのかよかったのじゃないのか、ということを考えない(いや、考えるから、数々の作品のネタになってるんだがな)。もちろん、不満が変化を起こし、不平が改革を求め、不足が進歩を呼ぶ。自分のPC操作に不満を感じない奴はショートカットも覚えようとしない。不満を感じないから向上しない。解決を求めないから知識が増えない。必要を覚えないから触手を伸ばさない。「必要ない」というのはお前が言っているだけ。「満足している」のはただのお前のスローガン。落着充足した時点でお前の変化と多様化は止まる。不足を感じていない時点で予備や保険を作っておこうとしなくなり、水面下でリスクが進行する。不満や不足が無い(・有る)はただの言葉ゲームであって、「無い」と決めて停滞するか、ムリにでも作って感じてアンテナ張り続けるか、どっちがトクかは自明だな。スルスルと考えが進んでいる(かのようである)時には、考えていない。導線に抵抗があるから加熱するように、停滞して苦悩するから思考という熱カロリーが生じる。流れがよどむ所にのみ哲学が生じる。とはいえ、こんなこと、考えただけで寒気するよな、今と違う可能性なんてな。権威が実はハリボテだなんてな。信じてる価値がチンカスだなんてな。


まわりと違うこと、大勢と異なること、ひねくれてみることを病的にコワガるが、何の実害もないことに、まだ気付かない。成程ありもしないモノを過剰に怖がるのがヒトの本然自然だ。もう何なら、盲腸や皮下脂肪よりも、扁桃体を除去したほうがいいんじゃないのか? なんてことまで言いたくなるほど、他と違うことが常に何よりも大事であって、是非ぜっぴ、ちがえ。斜めから見る根性を持て。偏るな。あのな、中央集権・首都一極集中・絶対王政は批判するのに、地方が存分に特色を持って国内が多種多様であるほうがイイことは分かるのに、個々人もまたそうであるということが、何故わからないのか。「人それぞれ」「ちがってたっていい」?口先をやめろ。お前はそうは思ってない。生物の個々体がそうであることが大事なこと、遺伝子多様性が大事なことは、よく聞く話だ。国家や組織のファシズムは、知ってる。ところが、文化や日常生活、知性や思想の全体主義は、感じないわからないのである。

生存上有利という点で多様性がモノを言ったことの例を1つ。

Das Archiv der Buehne: Eine Archaeologie des Theaters und seiner Wissenschaft

Das Archiv der Buehne: Eine Archaeologie des Theaters und seiner Wissenschaft

  • 作者: Hans Ch von Herrmann
  • 出版社/メーカー: Fink Wilhelm GmbH + Co.KG
  • 発売日: 2005/09/01

の148~149頁が、クラウゼヴィッツ戦争論』を引用しながら、17~18世紀西洋の軍隊が画一化と硬直化を極めていたところに対してナポレオン軍が「ゲリラ」同然の雑多な構成員と戦術により有利に立ち勝利を収めていたと述べており、こういった傾向が、アメリカ独立戦争でやはり多種多様な構成員による軍が勝利を収めていた事と軌を一にすると論じている。詳しくはここの7頁。といった観点が日本で周知されている気配がまったく無い。

まったく無いと言えば、或る好きこのまれがちなテーマに関して次のような単純な事実にどこのどいつも気付いていないことを指摘しておこう:歴史上何て国や何て民族がどんな広さの版図を有していたかを池沼たちがウレシそうにべちゃくちゃ喋りたおし書きこむが、それらの版図は中身意味内容が著しく異なっている。上記ナポレオン軍の猛威は単純面積上はこの通り世界征服史上下位の征服面積に及んでいたにすぎない。しかし、相手にしていたのが、当時の地球上では最強の火力を有していた諸軍隊であり好戦種族の西洋人である。そんなような地域の上に築かれた帝国と、銃病原菌鉄格差の著しい他の地域に築かれた帝国と、築かれるまでに費やされる労力にどれだけの差があるか、容易に理解できる。リンク先の表の上位を見ろ。大英モンゴルロシアスペインから降りて行って、無人地帯占領帝国・植民地帝国ばかりが上位を占めているが、これらの「国」は、軍事力格差のありすぎる先住民の土地を領土化しただけの版図であったり、誰も住んでいない土地に自慢げに広がったただ広いだけの版図であったり、何なら、(本家以上のホロコーストがあった)ベルギー領コンゴのように所有者が所有を勝手に決めただけの版図であったりする。古代帝国など、版図の端っこのほうはもうどうなっとるかよう分からんわってなもんだっただろう。おい、頭を振り絞って聞け、その国ができるまでに費やされた労力熱量から考えたら、ヨリ多数強力の火器銃砲を有しているヨリ「戦争」の能力に長けた国民による軍隊がヨリ稠密に密集している地域、ここにおいて得られている「帝国」ほど、広いデカいスゴいと見る値打ちがあることになる(もっかい表見ろ)。おまえ、かけ算できるよな?いわば「面積」じゃなくて体積で考えろ。版図にいたるまでの過程労力という変数が足りとらんぞ。このような「体積」で考えたら、「史上最大の帝国」は、第三帝国でしかありえないことになる。というようなことを書いて、人類の侵略史を肯定的に見る積りではないし、流されてきた血を一顧だに想像だにせず戦争や軍事の歴史や知識に恍惚狂喜していられる人間のクズどものバカ談議に付き合ったりするつもりでは、全くない。そもそもこれはクソうんこカケラも興味がない話題なのである。それでも、そんなにも全然入れ込んでない話題でも、入れ込んでる無量大数の人間がまったく気付いていないしかし気付けよバカってな事実を指摘してやることが出来るのである。これが、てめえのオツムつこて考えるってことだ。もちろんこの話も、一例にすぎない。「国力」という話以外でも、物事を評価査定するときに、ほとんどの人間が軽率で、かならず変数を何個か忘れる。映画のヒットを見積もるのに、「入場者数」。アホ。昔と今じゃ人口が違うわ。入場券買える購買力が違うわ。ゆってること分かるな?あと6兆個ぐらい例を思い付け。体の話に関してどれだけ変数を見失っているかこの記事参照

実体のないものをヒトは異常に怖がるのだが、物理的な事柄でもそうであり、ここでも錯覚を起こす。例えば、他人の体というのは、実は怖いものでは全くない。そういう悩みはすべて心の問題にすぎない。かよわくても、心が追い付きさえすれば、2倍3倍の体重の男を倒せる。アゴに当たればどんなバケモンでも脳震盪。四肢にできる動きは限られている。自分が怖がってるその分相手も怖がってる。そう、生身ならヒト個々体の戦闘力は、おそらくどんだけ計算し尽くしても、大差ないとしか言えない。そしてむしろここに暴力の淵源が有る。イメージされがちなのと違って、突き詰めて言えばヒトは個々体のチカラに大した差が無いから、そうだからこそ、各種暴力・各種悲劇が起きてきたのである。思考実験、ヒト個々体がいちいちどれもこれも竜脚類と微生物と惑星ほどの差があったとしたら?そのすべてが「個人」だったとして、そこに有る「力の差」は「暴力」だったと思うか?さらに、人は、同程度の者と悲喜こもごもするのであって、ケンカで勝てないからと言ってクジラや大型車両には腹を立てないし、仮に勇次郎が「共産主義的」だったり青色超巨星が「反革命」的だったりしたとしても、国家は特に何も感じ(ようが)ない。

あまのじゃくを怖がり騒擾のようなものを錯覚するアホ(おるんやぞ!)というのは、いわば車道を逆走してみよと主張されているかのように錯覚しているオメデタい阿呆なのだが、もう錯覚の奴隷になっていて、例えば、何が簡単で何がムズいかのちがいも錯誤している。「対」立する「2」傾向があって二「極」化している時、「」内のような語感に騙される。しかるに対立とはなんでも不均衡である。壊すのは作るのよりも常に簡単簡易である。何なら道具も人員もいらない。光と陰などというが、陰は手をかざせば作れる一方手のひら1枚分の光を作るにも発電所から要る。

風は吹いている

風は吹いている

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
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誉めるよりも貶すほうが簡単瞬時に言葉思いつく。どんな言語も罵倒語句が豊富である一方美辞麗句の固有語が少ない。経験は増やすほうが常に難しく、思考は多いほうが、分類は細かいほうが、可能性は広げるほうが常に難しい。世界は狭めるのは簡単で誰でもやる一方、広げるのは難事であり誰もやりたがらず天邪鬼が率先しても誰も真似ない。オッカムは原理数に刺刀を振るうのであって考察量に振るうとは言ってない。少なくていいものなど無い。が、そっちに傾くのが自然の性向である。だから抗がうことになる。朝寝してしまうのが自然の性向なのだから抗がわんといかんだろ。フツーにしとったら、慣習に隷従してたら、自然の性向に任せてたら、どんどん困ることになるのである。隷従をそうと気付かないぐらい内化してしもて権威の番犬になってる阿呆がおるが、こやつら、いかに現状を変えないことが大事かを口先でなんぼでも弁明しよる。喋るだけならアホにも出来る。脊髄反射で反論する奴、反論を用意している奴、お前は弁を弄するうんこ製造機だ。便を労しとけ。

 

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