この記事の下部で述べている通り1・2・3・4格という順番は間違いである。ただ、格を数字で呼んでいる日本ドイツ語の習慣は完全に正しい。月や週に名前を付けたり、アメ公みたいに台風に名前を付けたりするような野蛮で原始的な風習を保っていることが多い一部インド・ヨーロッパ語族の命名法というのが基本的にアホなので、台風なんぞ番号で呼び治している日本語、週の名前なんか番号で呼び直している中国語などの他言語がこの欠陥を修正したげないといけなくなるものだが、そういう風にして日本語では、現地語の「名前についての格〔nominative〕」「帰責の格〔accusative〕「属族する格〔genitive〕「与えたげる格〔dative〕」などというゴテゴテ色の付いた不潔な名称を洗浄して機能的に番号だけを付すようになった(まあ、元々ドイツ語で1234格と言っていたのだが)。ここにも書いたが、無駄なものを無駄と言えなければならない。名前なぞどうでもいい。無くていい。飾ろうとするなバカ。機能最優先。さらに1234名称が優れているのは、どの格も別にそれだけの役割しか無い訳じゃないからであり、主格対格属格与格と呼ぶと一面的で誤解招くだけだからである。例えば3格など別に「Dativ」なだけじゃなくて奪格も兼ねている。「~に」で覚えんな!!覚えさすな!!! 4格など目的語だけじゃなくて時間表現や副詞機能も兼ねている。例えば、フェリックス(フェーリクス)・ダーン(Felix Dahn, 1834–1912)のAm Hof Herrn KarlsのI. Die FreibitteのIV.にある
[…], aber vielleicht ist das Wenige mehr, was mein Bruder berichtet – und das Viele, was er verschwiegen hat.
といった4格の用法など、到底「~を」ではない。むしろ「~の」に近い。もっと言うと、差幅の4格なのだから、《um das Wenige》《um das Viele》と同義である。また、1格なんかにしても、主語だけじゃなくて当然述部にもなる(A ist A)が、考えてみれば、述部というのは主語と反対のものですらある。
Man nennt mich den Herrn der Wüste; ich bin der Räuber Orbasan.
の「der Räuber Orbasan」がそう。この文はハオフ(Wilhelm Hauff, 1802–1827)『隊商の話〔Die Karawane〕』を掲載しているZeno.orgのページから引用している。2格も勿論「の」だけじゃない。副詞になる2格名詞句から、専ら罪状に用いる「genitivus criminis」等の役割がある。しかも「の」に限ると別の疑問が出る。2格(属格)と他の「格」とを無造作に並べているが、これそんなものじゃないだろ。前置詞無しで名詞と名詞を直につないでいるわけだし、結合価にならんわけだし、他の格による語句と違って2格語句には独立性が無い。「~の」というのは、ガ・ニ・カラ・ヲ・デ・ト・ヘ・ニテとは毛色の違う「格」(なのか?)なのである。
さて2格には役割が有りすぎる。また、往々にして内容が曖昧になりガチである。がちで。2格つまり属格、大体「の」に当たる結構を成す。例えば

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の「の」なら一義的に何を言っているのかが分かる:
- 季節のせい(wegen einer gewissen Jahreszeit)
- 季節のせいにしたくはない(Der Sommer hat keine Schuld daran)
が、例えば、
と書いてあると、金銀が愛するかのようにごく一瞬だけなら見えなくもなく、
と書いてあると、綱に紐帯が有るように一瞬なら見え、

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と書いてあると、どのような「あっという間」なのか一瞬迷う。これらが一瞬曖昧に見えるのは、曲を知らん奴が2000%悪い。
一方、書いた側が100%悪いのが、「精神の現象学」・「権力の意志」といった中二日本語で、言いたいことは、精神が現象学を勉強する、権力が意志を飼育するということなのだが、一義的に分かることが無い。「の」やトルエンを濫用してると、何言ってるか分からんくなって来る。何を言っているのかが分からん日本語。ハイ、心当たりあるから長々言わんでいいな、お前たち旧世紀の遺物たち、「の」で母語の曖昧化・愚昧化・痴呆化を圧し進めて来た化石人たち(自称哲学者思想家「作」(?‼)家)。この人たちはまだ原典の洪水で泳ぐ中で何とか自身の体験を母語に加工しようという初発隊の労に骨折っていたが、この人たちの奇形日本語を ぼっけーーーっと受乳児よろしくただただ受け取って勤行念仏繰り返してきた現在20~90代のお前たちのこと言うとんねんぞ。且つ今なお増産中の中二日本語病の徒弟(学生)ども。例えば「有の現」「有の問い」「開けの内」「転回の性起」「外官の形式」「経験の対象」「直観の多様」「範疇の客観実在性」「認識の客観的差異」「世界の世界性」「根拠の本質」「世界の指示性」「その有の現有」「主観性の構造」というような「の」病の文言。
こういう仰々しい・時代がかった明治人ども及び平成明治人どもの日本語に騙されてたらあかんよ。こいつら日本語不自由なだけやから。大言壮語にビビらんでええよ。ゴテゴテしい翻訳日本語をありがたがる事ない。読みづらいのを艱難辛苦する必要ない。翻訳「日本語」のほうが、「ウニベルシ〇ス叢書」「〇みすず書房」の非日本語のほうが悪いんだから。
以上は以下と特に何の関係もあまり全くほとんどないかもしれないが、問題の根源の解決の一助の提案の端緒の予感の反対の根本の解決の示唆の幾分かを含んで(※)いるとは思う((※)ア翻訳流行語の「~を含む」だが、「including」は「~といった」だからな!!含ますな!!)

- 作者: 橋本文夫
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の611頁を開いてください。買え。読めば分かるが、
といったような、被規定要素(Bestimmen)が他動詞である時の2格使用を問題にしている。タンポポに決めるのかタンポポが決めるのかを明確にする上で2格構造を前置詞句構造にすると言う。
- Bestimmen zu einer Butterblume
- Bestimmen von einer Butterblume
同様に、被規定要素が他動詞である場合以外のケースの場合でも、前置詞句にすると修飾構造が明確になる。
を„Sehnsucht eines Eises“などと言うと、かき氷が片想いするのかされるのか明確でないから、
- Sehnsucht von einem Eis
- Sehnsucht nach einem Eis
としたいし、曲の内容を精確に捉えたら、
- Sehnsucht in/mit einem Eis
だということも分かる。これが2格だと なーも分からん。