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しばいてくぞ

おまえの思ってるのはニーチェではない (7)

日常

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前回の記事から

びつくものだが、こういった議論をする上で、まさにこの文章の中にある考察、この記事で見た断片の中での考察、リベット実験を先取りするような考察、が基になっているか支柱になっているか少なくとも援用されていること、こういうことは誰も見ようとせず読もうとせず意地でも取り上げない。しかし、どう見ても形而上学や観念論を営んでいるのではない。脳内処理過程を素直に観察したり、それは言葉の問題だと言ってしまったりと、素朴な日常的観察から物を言っている。あくまであくまで、これがニーチェなのである日本で、今も数年前も数十年前もこれから先も、いや今こうしている間にも、明治大正からこのかた変わらず、抽象的語彙と観念的議論で時代がかったゴテゴテしい巨人思想家の虚像を作られてしまっているニーチェという人は、実際は人体や言語というごくごく身近な事実を語っている人なのである

 

さてこの時期、1886年夏~1887年秋の断片群に

Hauptirrthum der Psychologen: sie nehmen die undeutlichere Vorstellung als eine niedrigere Art der Vorstellung gegen die helle gerechnet: aber was aus unserem Bewußtsein sich entfernt und deshalb dunkel wird, kann deshalb an sich vollkommen klar sein. Das Dunkelwerden ist Sache der Bewußtseins-Perspektive.

Die „Dunkelheit“ ist eine Folge der Bewußtseins-Optik, nicht nothwendig etwas dem „Dunkeln“ Inhärentes.

(Nietzsche, 1886,5[55])

 

(人の心を考える上でまず気を付けたいことが、見えにくい分かりにくいものがそれ故に悪いものダメなものだということにはならない。遠くにあるものほどはっきり見えないのは、人間の視覚の事情である。視覚の中心から離れているとその分だけ光が当たらない。当たり前のことだ。そしてそれは視覚動物の手前勝手の事情だ。そうであるのだから、遠くて暗くて分かりにくいものがそうだからいかがわしいものであるのだと決めつけるのは、呆れてものも言えない自分勝手である。見えにくいものはお前にだけそうなのであって、そのものにとってはそのものは何の文句もなく明確明瞭である。お前側からの見えを相手に押し付けるな。)

という文章があるが、要するに「パースペクティブ」に関する文章である。誰もがエラそうに引用をしながら特に何も分かっているようでないニーチェの「パースペクティブ」(という語をオウム返しするだけならお前にもできるよな研究者ども)も、このように視覚上の光量の多少という他愛のない日常的事実から出発した用語なはずである。

こういった文章、暗い⇒悪いものはそう見ているほうの見え方に過ぎないという相対論にも見えるし、他に例えば「dunkel」に合わせて言うなら、まさにニーチェの世紀の前後にどこぞの欧州民に「暗黒大陸〔dark continent, terra incognita〕」呼ばわりされていたアフリカのことなど思い出せるだろうが、すぐにそんな社会的政治的な話にしないで、科学的な観点を見よう。そもそも遠くて暗くて見えにくいものが低評価され、ということは同時に近くて明るくて可視的なものほど高評価されるということだが、これは、典型的な利用可能性ヒューリスティックの話である。また、よいものは明るいもので反対に暗いものは悪いものでと感情的な評価と物理的気分を重ねてしまう認知エラーなど、ハロー効果のことである。そういう議論を読み取ったほうが明らかに面白い。

ちなみに言っておくと、大げさで大仰でモノモノしい時代がかった「哲学」「的」語りに大興奮し、2~4文字漢語訳語やドイツ語カタカナ語(ドイツ語と全く関係ないもの)が並ぶとたちまち恍惚狂喜してガマン汁だくだくになる中二小児病のアホどもアホガキどもが喜びで打ち震え「深淵」を覗く戦慄にチ〇ポしごきまくってきた例の「超人」だが、これも、すでに見たように(„[…] den Menschen: er soll überwunden werden“)未知の次元からのスーパーマンの到来を告げる深遠な預言でも何でもないし、他の箇所を見てもそう言える:1887年秋の断片群の1つ(Nietzsche, 1887,10[17])などでは、これからの労働-生産形態や社会形態が変化していっても付いていけるような層のことを「超人」と呼んでみたと言っている。他に、1887年11月~1888年3月の断片群の1断片(Nietzsche, 1887,11[413])などでもそういうようなことを言っている。この、わざと人をケムに巻くように作ったように見えながらも実はそうでもない用語、これが意味するものは、再三再億兆言うが、果たして本当に、どこぞの列島国でバカたちを悦ばせているような、「永遠回帰」を「運命愛」で耐え忍びすべてを「肯定」できるウルトラミラクルオチン〇マン、モヤシの貧弱のお前が成りたがっているだけのカッコイイ英雄、こんなものであるのかどうか、今一度考えてみろ。そんなんに憧れるのなら自分1人で勝手にやってればいいのである。特にニーチェに依拠しなくていいのである。

わかったかボケ。

では1887年代を見ていこう。再三再三再三言うが、本シリーズで見ているタイプの文章というのは80年代特に後半の断片群に山ほどあって、引用はしているが、特に今引用してくるに最適だろうと考えに考え選び抜いたという文章なのではない。本当にたまたまふと、例えばこの記事で述べたような発生段階の原始的認知と文明成熟時の人の有り方に関する文章が、1887年秋の断片群の中に見つかる:

キスのソナー音

キスのソナー音

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Religion

In dem inneren Seelen-Haushalt des primitiven Menschen überwiegt die Furcht vor dem Bösen. Was ist das Böse? Dreierlei: der Zufall, das Ungewisse, das Plötzliche. Wie bekämpft der primitive Mensch das Böse? — Er concipirt es als Vernunft, als Macht, als Person selbst. Dadurch gewinnt er die Möglichkeit, mit ihnen eine Art Vertrag einzugehn und überhaupt auf sie im voraus einzuwirken, — zu präveniren.

— Ein anderes Auskunftsmittel ist, die bloße Scheinbarkeit ihrer Bosheit und Schädlichkeit zu behaupten: man legt die Folgen des Zufalls, des Ungewissen, des Plötzlichen als wohlgemeint aus, als sinnvoll aus…

— man interpretirt vor allem das Schlimme als „verdient“: man rechtfertigt das Böse als Strafe…

— In summa: man unterwirft sich ihm: die ganze moralisch-religiöse Interpretation ist nur eine Form der Unterwerfung unter das Böse.

— der Glaube, daß im Bösen ein guter Sinn sei, heißt verzichtleisten, es zu bekämpfen.

Nun stellt die ganze Geschichte der Cultur eine Abnahme jener Furcht vor dem Zufalle, vor dem Ungewissen, vor dem Plötzlichen dar. Cultur, das heißt eben berechnen lernen, causal denken lernen, präveniren lernen, an Nothwendigkeit glauben lernen. Mit dem Wachsthum der Cultur wird dem Menschen jene primitive Unterwerfungs-form unter das Übel (Religion oder Moral genannt), jene „Rechtfertigung des Übels“ entbehrlich. Jetzt macht er Krieg gegen das „Übel“ — er schafft es ab. Ja, es ist ein Zustand von Sicherheitsgefühl, von Glaube an Gesetz und Berechenbarkeit möglich, wo er als Überdruß ins Bewußtsein tritt, — wo Lust am Zufall, am Ungewissen und am Plötzlichen als Kitzel hervorspringt…

Verweilen wir einen Augenblick bei diesem Symptom höchster Cultur — ich nenne ihn den Pessimismus der Stärke.

Der Mensch braucht jetzt nicht mehr eine „Rechtfertigung des Übels“, er perhorreszirt gerade das „Rechtfertigen“: er genießt das Übel pur, cru, er findet das sinnlose Übel als das interessanteste. Hat er früher einen Gott nöthig gehabt, so entzückt ihn jetzt eine Welt-Unordnung ohne Gott, eine Welt des Zufalls, in der das Furchtbare, das Zweideutige, das Verführerische zum Wesen gehört…

In einem solchen Zustande bedarf gerade das Gute einer „Rechtfertigung“ d.h. es muß einen bösen und gefährlichen Untergrund haben oder eine große Dummheit in sich schließen: dann gefällt es noch.

Die Animalität erregt jetzt nicht mehr Grausen; ein geistreicher und glücklicher Übermuth zu Gunsten des Thiers im Menschen ist in solchen Zeiten die triumphirendste Form der Geistigkeit.

Der Mensch ist nunmehr stark genug dazu, um sich eines Glaubens an Gott schämen zu dürfen: — er darf jetzt von neuem den advocatus diaboli spielen.

Wenn er in praxi die Aufrechterhaltung der Tugend befürwortet, so thut er es um der Gründe willen, welche in der Tugend eine Feinheit, Schlauheit, Gewinnsuchts-, Machtsuchstform erkennen lassen.

Auch dieser Pessimismus der Stärke endet mit einer Theodicee d.h. mit einem absoluten Jasagen zu der Welt, aber um der Gründe willen, auf die hin man zu ihr ehemals Nein gesagt hat: und dergestalt zur Conception dieser Welt als des thatsächlich erreichten höchstmöglichen Ideals

(Nietzsche, 1887,10[21])

 

(宗教の起源を言っておこう。原始人のとき、予測不可能で突如降ってくる出来事や災難を《悪しきもの》として畏れていた。それでは気が済まないからそういうものを《摂理》なり《チカラ》なり《御心》なりと読み替えていた。こいつと和平協定を結んでいたのであり、こうして、出し抜けるようになっていた。他に、悪しきものつまり突然の災難などは本当は悪いものではなくて意味のある深い摂理より来るものと捉え変えていた。苦痛とはこれ報いなのであり罰なのである。つまりこれに勝つのでなくこれに屈従する道。道徳的価値=イイワルイを受け持つ信仰などは要するにこの道を行くものである。悪に対する諦念にすぎない。しかしそうとだけしてきたのではなかった。文化や文明といった装置が出来てくる。これは、自然に対して予測を立てたりこれの仕組みを理解したりして悪しき災難を防止するという装置である。こういうものが成熟してくると、悪を正当化して屈従するという原始人の行動、宗教や道徳といったものが、必要ないようになってくる。対自然戦争に人類が勝利して、すべてが予測計算可能になって法則化され安全が保障されきる。そうすると、今度は、反対に、安全のほうが悪しきものになってしまい、元々悪しきものだったものが愉しいものになってしまう。こういう状態若しくは《症状》を鑑みるに、どうやら人類は、強くなりすぎたという不幸に見舞われているようである。こうなると悪はもう正当化などされんでもいい・されてはならないものになる。悪しきものをストレートで飲むのが娯楽になる。かつて悪ワクチンだった神というものが必要だったのなら、現代では神なき意味不明世界が楽しいのである。でたらめとんちんかんの世界こそが世界なのである。とはいえ良きものイイものにも分があって、こいつも心底では悪者だったり愚者だったりするかもしれない。そうである場合にはこういう非悪しきものものまた可となる。予測不可能な悪しき自然に矜持を保って人ガ人トシテあるということを言っているのが「精神」的なうんたらかんたらであるが、もうこんなものも要らない。これの歴史も終わった。人間の中の獣性もなんも恐るべきものでなくなった。むしろ人とは動物なりと認識されて久しいものである。善や神やといった信心とは恥ずかしいものだと分かってきた。もう悪に開き直ってもたらええのである。こんな世で良識や人徳にしがみついている連中は、そういうのを信じているのではなくて、営業戦略や広告目的でそういうのを喧伝しているだけである。人間は強くなりすぎた。これが招いているものは一種の《うつ》状態である。かつて拒否していた恐るべき外界を、拒否していたのと同じ根性で歓迎することになる。こうであって欲しいと思っていた世界が到来したと考えることになる。これはたしかに不幸である。だって、こんなんは結局、またもう1個の宗教にすぎないのだから。神が蘇生したにも等しいのだから。)

「Pessimismus」と言っているが、この語なども、バカ直訳される(どんな語か?書きたくもないわボケ)だけで、それで何か分かった気になられてきたが、いや誰も何も分かっていない。辞書見出し語訳をして何かを理解することなどない。判ってないならお前はその訳語を使うな。では、しばしば「Pessi-

次回の記事に続く