地上最強のブログ

しばいてくぞ

何が翻訳か ~エベレストの場合~ (2)

 

前回の記事から

さて、前回に続きNMB48だが、吉田朱里川上礼奈等以外1期生がほとんど居なくっていっている現在、今後の記憶のためにm…

今ならば/さやみるきー

今ならば/さやみるきー

  • NMB48
  • 発売日: 2017/07/04
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誰もが気付いているように、辞典開くと、見出しの「語意」と用例・例文・文例のとこの日本語訳とで、日本語がえらい違っている。一瞬おかしいと思いつつ、下意識に抑圧する。

辞典で誰もがろくに見ないのが用例文例であり、これを見ないと意味がないというのが用例例文である。語の意味とは、その語をどうやって使っているかである。もちろんそもそも「語」という区切りで考えるのが間違っているが、それにしても、辞典が見出しに記している参考程度なだけの「語意」に飛び付いているのはなんぼ何でも程度が低すぎる。とりあえず日本語を!と  サボってる  逸ってるから、目先の「語意」に飛び付くのである。辞典をただのでっかい単語帳にしてしまっている。語の意味とは、数々の使用例から自力自己思考で   導き出して  獲得して来るものである。それでその言語が何という事柄(事象とその心象)をどのような表現方法(形態)でもって言う(言表)ものなのか((構)文法)ということを体得していく(達意眼目)。低次の話を例にすると:

  • Geist:der Geistと定冠詞付き単数だと神髄(精神)魂魄と言っているようだ。最も主体性量が多い語義なようで、同じく定冠詞付き単数のder Präsident, der Ministerという半固有名詞と全く同じ用法だな。Geist閣下を下から見上げている訳だ。いずれにせよ「精神」など要らん。定冠詞付き単数で、それにプラス規定語句(2格語句とか)、という結構の時には、この規定語句が具体的事物・集団だったら、本質・本懐の意味だな。抽象的事物・集団等だったら、エートスの意味だな。「精神」が要る場面は無い。im Geisteとか前置詞付きで使ってるとノ義デ(ノ精神デ)ていうような意味のようだ。単数不定冠詞や複数不定(ゼロ)冠詞付きで使っている時には具体的人品を言っているようだ。幽霊て意味の時は、ほぼ複数不定(ゼロ)冠詞付き(Geister)ばっかで、しかも4格が若干少々多かった気がする。これが精霊なら無冠詞か定冠詞付きが主だと見受けるがこれは複数にはなり得まい。……等

こういった程度の把握もしていないのは最低中の最低。ただ、こうして語1個1個が辞典見出し語意以上に判って行った所で、外語→母語置換・再配列の作業をやっているようでは、クソがクソになった程度の違いしかない。

ただ、翻訳する人間の絶望的圧倒的大多数がこういう簡単な作業ですを翻訳と思い込んでいるから、翻訳の評価もこの次元で成されてしまう。そうして、例えば長谷川宏という、ヘーゲルについて世界で一番しょうもない話しか出来ない勘違いが勘違い翻訳をしたら絶賛される。こいつの翻訳を1文字も読んだことがない。し、前回あんだけゆっといて関口も1文字も読んだことないし勿論福沢とかその他の重要テキストも1文字も読んだことない。なおこの姿勢は、『読んでいない本について堂々と語る方法』とかいうゴミクソ本がくっちゃべっている事と一切全く何の関係も無い。とにかく自分ならヘーゲルをこう訳す:

『大論理学』「力は無限なり」の節

Die Kraft ist endlich, insofern ihre Momente noch die Form der Unmittelbarkeit haben; ihre voraussetzende und ihre sich auf sich beziehende Reflexion sind in dieser Bestimmung unterschieden; jene erscheint als eine für sich bestehende äußerliche Kraft und die andere in der Beziehung auf sie als passiv. Die Kraft ist so der Form nach bedingt und dem Inhalte nach gleichfalls beschränkt; denn eine Bestimmtheit der Form nach enthält auch eine Beschränkung des Inhalts. Aber die Tätigkeit der Kraft besteht darin, sich zu äußern, d.h., wie sich ergeben hat, die Äußerlichkeit aufzuheben und sie als das zu bestimmen, worin sie identisch mit sich ist. Was also die Kraft in Wahrheit äußert, ist dies, daß ihre Beziehung auf Anderes ihre Beziehung auf sich selbst ist, daß ihre Passivität in ihrer Aktivität selbst besteht. Der Anstoß, wodurch sie zur Tätigkeit sollizitiert wird, ist ihr eigenes Sollizitieren; die Äußerlichkeit, welche an sie kommt, ist kein Unmittelbares, sondern ein durch sie Vermitteltes; so wie ihre eigene wesentliche Identität mit sich nicht unmittelbar, sondern durch ihre Negation vermittelt ist; oder die Kraft äußert dies, daß ihre Äußerlichkeit identisch ist mit ihrer Innerlichkeit.

 

(力を持っていても、自分を持たない幼稚な段階では、限られたものでしかない。どれぐらいの力を持てるのかというのを自分以外の誰かに決められてしまっており、己というものが他人に依存している。他人に支配されているだけの弱い自分。どんなことをどのようにすることができるか、それは、自分以外の誰かのさじ加減ひとつだ(ちなみに、どのようにするかということと何をするかということは別々のものではない。何ができるかによって方法が決まる)。こんなものは力とは言えない。力というのは自分で自分を出してくることだ。自分以外と戦いこれを抹殺することだ。そいつら「以外」を取り込んでいき、自分の延長にすぎないものにしてしまうことだ。逆の見方をしてもいい。戦うということは自分と戦うということでしかない。自分に成っていくということは自分で無くなっていくということである。他者から突き動かされていてはだめで、それでは力など生じない。突き動かした者が自分なのでなければならない。他者というのは私の力が認めてやって初めて存在してよいものなのである。力は自分しか見えず、他者などいらない。そして力は戦うことでありそれが自分と戦うことなのだから、自分しか見えないというのはその自分を抹殺することである。ここには外敵など或る意味ではいない。それは内敵であり自分である。)

というのは、見て見てー!なのであってではなくて、実にクソくだらないことなのである。

お前たちは、すべてのすべてに於いて、翻訳の意味を勘違いしている。むしろ全てが、翻訳などというウンコカス次元の檻の中でゴチャゴチャぬかしている事にすぎない。

次回の記事に続く

 

ミュージックジャンキー

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