Der Fall Wagnerは「ワーグナーの場合」ではない。「Der Fall」と「Wagner」が「同格〔Apposition〕」であって、「ケース「ワーグナー」」「症例ワーグナー」という意味(「同格」ゆうてこれ同じ格とは限らんがな(von einer Unmenge unmögliche Träume))。といったこともロクに理解していないだろうが、訳すとは、こんなような末梢論ではない。どういうことかと言うと、今の例なら、„Der Fall Wagner“というのは【「ワーグナー」という名称をした病症例が有るのだ】と言っている。一方「ワーグナーの場合」などと言うと、【何か問題になることに関していま例えばワーグナーという人物に即して語ってみる】という意味になる。後者だと「ワーグナー」が数多のケースの中の1ケースという事になるが、原文はその反対の事を言っている。というような議論に進むこともできるのだが、こんなような事を言ったところで、所詮大したことがない。こんなようなことを言っている翻訳談義をごまんと見かけるだろう。むしろこんなような話をするのが翻訳論だとさえお前は思っているだろう。しかし実はこれでは、例えば「審判」を「訴訟」と改題して喜んでるバカ同様、コトガラの表面を撫でているだけのバカに終始しているに過ぎないのであって、そうしている訳にはいかないのである。では何を考えたらいいのかというのをこのシリーズで見て行ってみよう。(ちなみに、上の「どういうことかと言うと、」は「そうしている訳にはいかないのである。」に係っている。が、読点のせいで「のだ】と言っている。」に係ってしまっている。御存じのように、このような、係っていく語句が係先に係っていないドクソ間抜けなクソ文章、このアホでみっともないバカ間違いを、日本語のほぼ全文章書きがやっている。誰もおかしいと言わない。)
関口存男という、ドイツ語の深層心理学を空想だけで思い描き、日本でたらめドイツ語の礎石となる関口語文法を排出していた落語家がいるが、関口が言わなくても誰でも気付く(し誰も気付いていないらしい)事柄にインパクトある命名をしていたという功績が有る(他の功績もある)。その1つが「達意眼目」。(ところで、関口が権威になっているという倒錯状況が、関口受容世代の痴呆性をよく表している。関存(せきつぐ)とは、ドイツ語に関しては史上稀にみる独特個性的な(実践性ゼロの)考察を独自独存自力でしていた、そうして、「搬動語法」や「掲称」などと空想妄念を膨らませたり何やかやして、挙句1→2→3→4格順の神の創造等といったタワ言をホザいたりしつつ、外語受容に関しては非学術的・超有用な論を残していた、という人間であって、ようするにつまり権威でこそ何よりもない男なのである。)
これまでに、
- ハイネ『精霊物語』の訳見本を例示したり
- 『存在と時間』の正しい訳を見したり
- Ulrich Greiner, Bis an die Grenze des Sagbarenというウェブ上論文の抄訳をしたり
- トーマス・ブルッシヒ『チン遊記〔Helden wie wir〕』の一節を訳したものを公開したり
- ジュースキント『香水―ある人殺しの物語』の一節を訳したものを公開したり
- ヴィーラント『アブデラ人物語』の一節を訳したものを公開したり
- ゲーテ→シラー書簡に於ける叙事詩思想を抄訳したり
- 19世紀言語学の精華を訳出したり
- ニーチェを似非「日本語」「翻訳」から救出したり
とか色々して、独語日訳の手本を見せて来たが、これが何かしら《正解》だった訳なのではない。
まずそもそも、外語があってこれを母語に移す時に1語1語を(辞典(というただの商品)に従って)母語に移して而して亦はそうしつつ「語順」を並べ替えるというやり方、単なる作業でしかないこのやり方、およそ理解(verstehen)ということと無縁な非人作業、これを見直せ。日本でこの方法をやっているのに関して近代以前の外語受容方法が背景の1つとして有る。
と言って、だから今の状況がしょうがないムリもないと言っているのではなくて、現代の訓読式「訳」が我々にあっては所詮歴史的に限定された1方法に過ぎないのであって相対化して見ることが出来ると言っている。
ところで、日本と無縁だった地域ででも、例えば古典翻訳大事業の18~19世紀ドイツ語圏ででも、原文を大体語ごとに母語変換するという「訳」が結構有った。ただここには異言語融合という大目的が有ってド直訳に意義と自覚が有ったのだが。
という事の本格的研究として読める日本語の研究が
である。
2000以上の言語に『聖書』を訳してきた歴史ででもこういった方法なのだろうか。翻訳世界の最も巨大な一角に仏典漢訳が有るが、「訳場」(欲情ではない)という翻訳の作業工場が確立していた。工場だし、文全体の意味に達して眼目するというより、逐語訳をベースにした作業風景だったのであろう。
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とにかく、仮に、今ケチを付けているやり方が大方の言語に於いて優位に有る外語受容方法だったのだとしたとしても、依然やはり、だからそれでいいという事にはならない。それが外語を受容する唯一の方法でも何でもなく、特に日本では歴史的に限定された一方法に過ぎないのであって相対化して見ることが出来るししたらいいししたらもっとも至極である。そう分かってきた人が、関口存男であり、上掲柳父が
の22頁~で呈示している福沢諭吉である(柳父が引用してる諭吉のくだんの文章の全文)。
外語が何を言っているのかをその言表表層の深部に入って行って掴み出して来て、日本語として気持ち悪くない(翻訳日本語の99.9999999%がクソ気持ち悪いという明晰判明な事実を誰もが意識下で抑圧しとるよな)表現に(「文章に」とは言っていないぞ)する、この理解型解釈即ち達意眼目をやると、つまりこういうことにすらなって来る。
なって来たらええねん。見てこか。