地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェ、1888年春 (4)

 

前回の記事から

うだっただろうか。

Welcome to the pain zone. That's where we live.“ (Tom Platz) という世界でやっている者には人ごとではない事柄である。ところで、とっさの場合の筋反射の話が見られるが、これなど、とっさではない安静下での筋運動でも筋運動過程が意識過程よりも先であるというリベット実験を知っていたかのような例の衝撃的文章を想わせる考察だ。リンク先に見る文章は考察だけが書いてあるので一体どこからこんなことが分かったのかと謎に包まれるばかりだが、上の文章を見れば、このような運動が先→意識が後という過

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程を現に知覚して認識していたようだということ、実体験からリベット実験先取り的知見を述べていたようだということが分かる。

さて今見た断片の直後に同じタイトルの次の断片がある。

Der Wille zur Macht als Leben

Der Mensch sucht nicht die Lust und vermeidet nicht die Unlust: man versteht, welchem berühmten Vorurtheile ich hiermit widerspreche. Lust und Unlust sind bloße Folge, bloße Begleiterscheinung, — was der Mensch will, was jeder kleinste Theil eines lebenden Organismus will, das ist ein plus von Macht. Im Streben danach folgt sowohl Lust als Unlust; aus jenem Willen heraus sucht er nach Widerstand, braucht er etwas, das sich entgegenstellt. Die Unlust, als Hemmung seines Willens zur Macht, ist also ein normales Faktum, das normale Ingredienz jedes organischen Geschehens, der Mensch weicht ihr nicht aus, er hat sie vielmehr fortwährend nöthig: jeder Sieg, jedes Lustgefühl, jedes Geschehen setzt einen überwundenen Widerstand voraus.

Nehmen wir den einfachsten Fall, den der primitiven Ernährung: das Protoplasma streckt seine Pseudopodien aus, um nach etwas zu suchen, was ihm widersteht — nicht aus Hunger, sondern aus Willen zur Macht. Darauf macht es den Versuch, dasselbe zu überwinden, sich anzueignen, sich einzuverleiben: — das, was man „Ernährung“ nennt, ist bloß eine Folge-Erscheinung, eine Nutzanwendung jenes ursprünglichen Willens, stärker zu werden

Es ist nicht möglich, den Hunger als primum mobile zu nehmen: ebenso wenig als die Selbsterhaltung: der Hunger als Folge der Unterernährung aufgefaßt, heißt: der Hunger als Folge eines nicht mehr Herr werdenden Willens zur Macht

die Zweiheit als Folge einer zu schwachen Einheit

es handelt sich durchaus nicht um eine Wiederherstellung eines Verlustes, — erst spät, in Folge Arbeitstheilung, nachdem der Wille zur Macht ganz andere Wege zu seiner Befriedigung einschlagen lernt, wird das Aneignungsbedürfniß des Organismus reduzirt auf den Hunger, auf das Wiederersatzbedürfniß des Verlorenen.

Die Unlust hat also so wenig nothwendig eine Verminderung unseres Machtgefühls zur Folge, daß, in durchschnittlichen Fällen, sie gerade als Reiz auf dieses Machtgefühl wirkt, — das Hemmniß ist der Stimulus dieses Willens zur Macht.

Man hat die Unlust verwechselt mit einer Art der Unlust, mit der der Erschöpfung: letztere stellt in der That eine tiefe Verminderung und Herabstimmung des Willens zur Macht, eine meßbare Einbuße an Kraft dar. Das will sagen: Unlust als Reizmittel zur Verstärkung der Macht und Unlust nach einer Vergeudung von Macht; im ersteren Fall ein stimulus, im letzteren die Folge einer übermäßigen Reizung… Die Unfähigkeit zum Widerstand ist der letzteren Unlust zu eigen: die Herausforderung des Widerstehenden gehört zur ersteren… Die Lust welche im Zustande der Erschöpfung allein noch empfunden wird, ist das Einschlafen; die Lust im anderen Fall ist der Sieg…

Die große Verwechslung der Psychologen bestand darin, daß sie diese beiden Lustarten die des Einschlafens und die des Sieges nicht auseinanderhielten

die Erschöpften wollen Ruhe, Gliederausstrecken, Frieden, Stille —

es ist das Glück der nihilistischen Religionen und Philosophien

die Reichen und Lebendigen wollen Sieg, überwundene Gegner, Überströmen des Machtgefühls über weitere Bereiche als bisher:

alle gesunden Funktionen des Organismus haben dies Bedürfniß, — und der ganze Organismus, bis zum Alter der Pubertät, ist ein solcher nach Wachsthum von Machtgefühlen ringender Complex von Systemen —

(Nietzsche, 1888,14[174])

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〈以下、↑ の原文の翻訳〉

(前回とまた多少違ったWille zur Macht論だが、人類が【+快楽+幸福】と【-不快-苦痛】を原理に生きているとよく言うが、そんなわけがない。こんな話をしていても仕方がない。快不快などというのはそんな追求したり撲滅したりしようと躍起になるべきような立派なものであるのではなくて、随伴させていただいたり派生させせさせていたただいたりするだけのものにすぎない。人間は何がしたいのか。いやそも生体の肢なり器官なり細胞なりが志向していることは何なのか。それは、力を着けたい強くなりたいということである。この強くなっていく過程で随伴するのが快感覚なり不快感覚なりである。そして力とは対象を屈服させて自分が上に立つためのものであり強さとはそういうものであるから、倒す相手負かす対象というものを一生求め続け出会い続けることになる。それしか人生はない。うまくいかない時には不快感情が生じたり苦痛を被ったりすることになるだろうが、それは当たり前のことなのであって、そんなんは特別ガンバって忌避回避しようとしたり減少させようと努めたりするべきものではない。むしろ生命活動に不可欠なものであり要求さえして行ったらいいものなのである。生命活動とは敵に勝つことだ。苦痛の源だったものを屈従させることだ。上にのしあがって快哉快哉というものである。痛みを避けとってどないすんのじゃアホンダラ。敵と戦うこと、痛い思いをすることは、必要なことなのである。こんなのは例えば原生動物が索餌している場面でもそうで、仮足を伸ばして周囲の対象物を探索するのは飢えのような苦感覚に迫られてそうしているのではない。肉質虫綱アメーバ目もまた【力への意志】により仮足を伸ばしているのだ。そうして、自己外物を屈従せしめて取り込んで同化してしまおうとしている。注意したいが、摂食なり食餌なり消化吸収なりというものは、或る根本的なモノから派生しただけの単なる結果にすぎないのであって、つまり他のモノに勝ろう優れよう勝ってやろうという根本的な動機があってこれの1つのバリエーションにすぎないのである。それだけで取り立ててどうというものでは決してない。一体飢えなぞのごときが生体の主動因でありうるワケがない。保身や保存などのごときと同じで、こんなやつらに大した役など務まらない。なるほど生体が栄養を求めるがゆえに飢えの感覚が生じると言う。しかしその本当に言わんとしていることは、外界の対象物敵対物に自分が勝てていない不甲斐なさ(勝ち負けという根本次元)のゆえに飢えに至るということに他ならない。根本にあるものと、飢えという現象面結果物と、何でこんな2つに分裂するのかと言うと、力が弱いからだ。弱いものだから、勝ちたい思たら即勝てるという一体状態であることが出来ず、勝ちたい→勝てない→飢えると分裂構造化してしまうのである。要は個体の力の問題でありケンカの弱い強いの問題だ。確かに摂食というのは今足りていなくなっている栄養を得ることなのではあるが、しかし生体がやっていることは、あくまで、減ったものを補填するなどというしょぼい事ではない。チカラを得て強くなるために色々なことが出来るようになっていき色々なことをするようになるのだが、その中で対象を取り込む欲求に関しては摂食によって満たすようになり充足がワンパターンになっていくのだが、しかしそれは、強くなりたい欲求の1側面である。〔←何ゆうとんねん意味不明じゃボケ。〕だから空腹や飢えと言ってもそれでチカラが減っていて弱体化していることを意味するのではさらさらない。むしろハングリーというのは強くなっていくための格好のダシではないか。阻害はイイコトで悪いことはイイコトなのである、チカラとか意志とかにとっては。ゆっとくが不快や苦痛を疲労や苦労なんかといっしょにするなよ。後者ならそら力は減退するは意欲は萎えるはしよるわいな。それは力を使った後の話だ。今してるのは力を得ていく途上でのダシとなるマイナスなものの話だ。方向が反対。もっと言うと、マイナスなものが適度ならそらチカラ増強上昇のダシにはなるが、しかし過度なら疲労消耗を招くことになる。そうなると今度は生体は勝てないようになっていってしまう。弱っていく過程になってしまう。己のチカラのために敵が要るとは言ってもそれには勝たないと意味がない。骨折り損のくたびれもうけになってたらいかん。その時の快は勝利にではなくてただ休息に有るのみ。ところが現在の人間心理の科学ではこの2つが区別できていないのである!!!何度も言うが疲労につながるほどの過度な刺激は、安静状態休眠状態につながるしかない。これは、この世への絶望を信条とするような信仰や思想に顕著な特徴である。一方地に足付いて戦ってきた強い者ら富める者らとなると、志向することは戦いに勝つことだ。自分ワールドの領土拡張だ。累々たる屍だ。そしてマトモである限りは生体はこっち方面に生きるのである。ニヒリズムに用はないのである。強くなりたい勝ちたい圧伏したいという感情構成体が生体なのである、少なくとも思春期までは確実に。)

意味不明な個所も1点あるがおおむね明快である。直前の173番と合わせてニーチェ生物学というかニーチェ神経科学という観を呈している。173番から進んで不快・苦痛・空腹といったマイナス感覚の積極的な価値を考えている。それはあくまで、戦いこそがすべて・勝ちたいということがすべてという生命すなわち宇宙万物全存在の不可欠構成素のようなものなのである。ただこのセンで行くとあたかも苦痛が大きければそれでいいことにもなってしまいかねないところで、そこは、しっかり予防線議論を張っている:チカラを圧倒してくる苦痛/不快はオーバーワークなのである、と。

それにしもこのような生命「観」が、ダーウィン進化論なり行動主義なりと並んでかそういったのを圧して思想の大きな潮流となっていたらどうなっていただろうかと想えて已まないものである。

 

1888年、多数の内容豊富な断片があって引用もキリがないというものなのだが、いま、ニーチェ確信という病気のことを述べている断片(Nietzsche, 1888,14[159])を見てみよう。

Religion als décadence

Kritik des Glaubens

Überzeugung und Lüge.

1. „Zwischen einer Lüge und einer Überzeugung besteht ein Gegensatz“: es giebt keinen größeren…

2. Aber es ist mit Recht gesagt worden, daß Überzeugungen gefährlichere Feinde der Wahrheit sind als Lügen (M.AM.)

3. Müßte vielleicht auch die vorangestellte Überzeugung unter die Feinde der Wahrheit gezählt werden? Und unter ihre gefährlichsten?

Eine jede Überzeugung hat ihre Geschichte, ihre Vorformen, ihre Tentativen und Fehlgriffe: sie wird Überzeugung, nachdem sie es lange nicht ist und noch länger kaum ist…

次回の記事に続く

 

なんてボヘミアン

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