地上最強のブログ

しばいてくぞ

誰も考えんこと (2)

 

前回の記事から

るのでない。お前のキレーキタナイ・イイワルイはすべてすべからく観念だ。お前は観念の中に生きている。そうやって菌ガー菌ガー菌ガーガーの生化学的にはナンセンスな清潔衛生話にうつつをぬかせる。アホとは、観念と信念と思い込みの中にしか生きれずここに頭突っ込んで尻出しているバカなのである。

だから手で何かをするというのは廃れていき消失していくべきオワコンなのであり、たとえ手で何かせざるを得ないときにも、ほとんどの局面で手術用なみのゴム手袋着用義務なのである。手はオワコン、忘れんな。ロボットが寿司を握り料理を作ったら奇態だろうか、そうだろうなお前の観念の中ではな。実際にはロボットの金属の手のほうが人間の油脂まみれの手よりも良(よ)いに決まっている(「良い」は「いい」とは読まないぞ)。ロボットがあんなことやこんなことまで … あああ近い将来には …… いや、それでいいのである。金属やゴムや樹脂やプラッチックや塩ビが触ってくれたらいいのである。お前の手よりはキレーなんだよ。そう、スカイネットでシンギュラリティでいいのである人間という誤謬まみれのアホに社会や製造や経営や運営や立案や政策や司法や統括や開発や調理や制作や算出や提議や勃起や愛撫やシックスナインを任せておくよりは、AIや機械のほうがずっと好ましい。人間は運転しないようになっていけばよいのである。(と述べたのはもちろん人対物の接触場面に関してであって人対人場面でならなんぼでも素手であったらいいこっちゃであろう。いずれにせよ釣り銭手渡しというのはやめろ。)

 

もう一度言うとアホとはてめえのオツム内の観念と信念と信仰と教義の中にのみ住んで現実実物実際日常の物や事や人や行を具体的にそれに即して見るということが出来ない生き物のことである。こいつらはアタマでっかちなのである。無知の愚昧ほど、アタマに偏っているのである。よく知っていて考えている者ほど、逆にアタマから解放されているのである。

 

具体的に・ちょっと頭冷やして・0.010094秒立ち止まってカンガエてみたら、おかしいことだらけである。

文章には「行間」があるらしい。

Eine Minute lang blieb der Lauf meiner Flinte ungewiß zwischen dem Menschen und dem Hirsch mitten inne schwanken – eine Minute – und noch eine – und wieder eine. Rache und Gewissen rangen hartnäckig und zweifelhaft, aber die Rache gewanns, und der Jäger lag tot am Boden. (Schiller, Der Verbrecher aus verlorener Ehre)

 

(この野郎にするか猟獣にするか、1分ほど撃ち迷います。さらに1分。さらに1分…。復讐もありますが良心も呵責します…。結局前者だったわけで、野郎、死体になりましてね。)

犯罪者心理について先見的明智を冒頭に述べながら、自分の犯歴について哀れな自分を憐れんでもらいたがる私ハカワイソウナノデスの阿呆ボケを主人公にしてしまって台無しにしてしまっているシラーの「誇りを汚された犯罪者〔失われた名誉ゆえの犯罪者〕」の1節だが、そんなことはどうでもよくて、今見たいのは、見ての通り主人公がにっくき宿敵を眼前にしているのだがこれを撃ったとはどこにも書いていない点である。もちろん撃っているのだが、それをどこから分かるのだろうか。分かってしまうのである。行間を読んでしまっているのである。そんなことは勝手にやってしまうことなのである。そして、別に書いてはいない=印刷されてはいない=表示されてはいないところの情報を引き出すというのならもうどんな何の場面でもやっていることである。というかほとんど毎ページいや毎行でやっていることだろう。《この本は行間を読みます^q^》:しかし行間を読まない文章などむしろ存在しない。

しかも「行」という書写形式がわりと近現代のもので(なのだろう、知らん)、「行」「間」がえらい偏った限定的な言い方だ。「行」?お前はその語しか知らんのか?そんなんゆなら「字」間もあるし「語」間もあるし「文」間もあるし「頁」間もあるし「節」間もあるし乳首も浮いてるし、章ごとに場面切り替わりするなら「章」間だらけになる。書いてはいなくてもそれが起きたことは分かる文章、映してはいなくてもそれが起きたことはわかる映画。文章とはすべからく、映っていないものを補いながら観るもの、映画言語的なものなのである。無意識に無数の補正と補完をしながら文章を読むのである。そんなもん今さら「行間」とかホザいて取り立てて取り立てることではない。

じゃあなんでクソレビューとかで行間行間言うのかというと、こいつらはギョーカン・ヲ・ヨムという成句表現をしているだけ、それしか出来ないだけの舌足らず、或いはもっと悪くは、そんな言い方がしてみたいだけのゴミ文垂れ流し機なのである。こいつらが言いたいことは、本書の成立に関しては著者と出版背景の市場力学とか大人の事情とか子供の痴情とかがあるんでしょうあったんでしょうなあというようなことである。だったらそう言えばいいのだが、アホは、カッコつけて「行間」だの何だのと言いたがるのである。この記事で詳述したことだが、アホは、特定の言い方をしてみたいだけなのである。《それ言いたかっただけやろ》というやつである。そんなことならまさにチラシ裏でやれというものだが、アホは出て来たがるのであり公衆に見せたがるのである。ロクなものを持っていないアホほど、そうである。もうこいつらに猥褻ぶつチン列罪を適用しろよ。

 

文章論ついでに1個言っとくと、自分がこんな目に合ったということを物凄くまたはアホみたいに滔々弁々と語る奴というのがあって、どんな被害に遭ったのかをコトの始めから語り起こしてキャラたちとストーリーを一生懸命織り込んで(読まされる必要の全くない具体的名詞をさんざん散りばめて)こまごまこまごま懇切丁寧に報告し開陳するもので、もはや自分の苦痛や被害とそれを喋ることに性的快感すら覚えているとしか見えないほどのアホなのであるが、同類として、バイオレンス系の文章で自分が殴られるなどした時にどんな感覚がどんな定量でどんな持続で起きたのかを料理評論と見紛う文章で述べ立て連ねる奴というのがある。こいつらの文章を読まされて読者が思うことはたった1つ、「もうワカったって!!!」「もういいから!!」ということだけであろう。人間社会には被害や加害がある。人間という生物には暴力という宿命がある。そういうことがあった場合には当事者や場面含めその事象全体の理解が必要である。その事象の中で自分が・何をされたかをただひたすら喋り続けていても別に何も分からないし何も進まない。自分に何かをしてきた相手にもその人間がありその文脈がありその心境がありその状況がありその事情がある。いま仮に特定の食品について伝える上でそれが自分の口内に入った時の感覚だけをエンエンつらつら喋り倒すだけでその食物の外見や原料や食器や産地や背景や意義や乳頭について一切一言も言わなかったとしたら明白にただのアホであろう。そういうことだ。

 

いわくつきの場所というのがある。それはそうと残留思念というのがあって、原初的な感情または怪談に適合する感情だけを喚起するもので、483+72の思念とか購買欲とか交接欲の思念とかは(都合よく)残留しないのだが、いずれにせよ、感情Xを喚起しやすい場所はそういう場所であるがゆえにその感情Xを喚起しやすいというトートロジー以外の何でもないのがこいつである。それはそうと嫌なことが有るとそこに嫌な想いを持ってしまうものだが、実は非常に愚かである。たしかに事件が起きやすい・犯行がなされやすい地形的都合のいい場所というのはあるのだろうが、自分個人に嫌なことがあった場所というのはそんな話とはまったく別の話である。そして実は経験則で誰もが勘づいていることだが、嫌なことがあった場所でまた嫌なことがあることはまず無い。というか無い。断じて無い。何が何でも無い。不快な奴に不快な思いをさせられた通りやフロアや歩道やホームや土手や〇〇場や〇〇店などを自分の中でいわくつきの呪わしい場所にしてしまいがちだが、そこで同じようなケースが再発することは統計的絶望的に無い。気付いてるよな。何なら、あんな目にあったあの場所で同じ目にあったら今度こそ!と意気込んだりもするのだが、空振りにしかならない。不快事や災難とは常に必ず準備していないところに来る。もう場所を呪うのをやめよう。それはそこでこそ二度と起きない。場所には何も宿らない。

バラの儀式公演13 美しい狩り(Type A)

美しい狩り

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すぐ物に名前を付けるきっしょいバカというのが居る。居るというより人類全体がそうだという問題で、問題も問題の大問題である。なぜかというと気色悪いから。リンク先記事に書いているような台風に名前付けるアホ国民などはわずかごく一例に過ぎない。他にまだまだ、暦に人名神名を付け抽象名(仏滅大滅吉滅)付け動物名付け、方角にまで名前を付け、やがて端末機や筐体に名前を付け、消耗品や商品に名前を付け、乗車物移動物に名前を付け、果てはベイ図だの便図推定だのサラリー幾何学だの概念にまで名前を付けるアホザル、こちらが名前大好きのアホ生物・ヒトサピエンスでござい。次回ローンチされる新製品はベティか?スーザンかエディかマーフィーか?気持ち悪いわボケ!!!

人間は擬人化するものなのである♡そんなゴタクで済まんわボケ。そんな確認して済む問題ではない。これは、気持ちが悪いのである。ほっといていい事ではないし微笑ましい事ではない。

もっと言いにくいことを言っておくと、ハッキリ言って動物に名前つけるのも明らかにキモい。お前はその巨大なトドが本当に「ヒナちゃん」「小鉄くん」に見えるか?オイ毛糖ども、おまえらにはその猿人化石が本当に「ルーシー」に見えるのか?そいつは生前「ルーシー」という語の語感にぴったりそぐう見た目をしていたのか?おまえは大型獣脚類が「スー」と呼ばれることに、PC筐体が「マック」と呼ばれることに、本当に納得できるのか?望遠鏡や掃除機を人間の名前で呼んでいるアホどもに違和感をマジで全然感じないか?いいか、犬は、犬だ。源太やサムやエイミーなわけがない。そう呼んで気色悪くないわけがない。いい加減目を覚まそう。特に「人」名を人以外に付ける事がそうだが、物に名前を付けるのは気持ち悪いことなのであり、その名前はどうしたって気持ち悪いものなのであり、そんなことをするのは、あらゆる物に名前を付けたい原始時代の原始人の呪術世界呪物信仰の名残りなのであり、とっとと廃絶してしまったらいい野蛮で時代遅れのオワコン風習なのである。

もうそれならいっそ字にも名前つけようか。今日から「雨」という字を「ジェシー」と呼ぶ。「針」は「スティーヴン」だ。「外」が「ケイト」で「秒」が「ビル」、「低」が「タカシ」で「深」が「タカコ」、「conclusion」が「モモコ」で「auf」が「カンムル」だ。そうして何がおかしい?

言いにくいついでにもう1個言っとくと、ここで言ったように、さらにここでも言ったように、音声の語感からカドを取りたがるきっしょい国民があって、そのキシょさがどこまでかというと、何といわゆる「濁」音のカドまで取ろうとし出す始末で、このナヨナヨゲロゲロ民族にかかると、「頃」が「ろ」に矯正されてしまい、誰もそう発音しないのに「〇円らい」と書かれてしまい、ナヨナヨきっしょい「スムー」「さい」がウレシがられてしまう。正しくは、「去年の今ろ、つまり3月のろのサッい日に、子供らいのームな…」である。

誰も考えんこと (1)

ハイドウモコンチワ
電車でスマホ触ってる奴 全員アホ

 

ここでも書いたが真面目向きのメディアが上等高質で低俗向けのが内容が劣っていてデタラメということなど別にないもので、例えば標準弁または標準方言等の者が関西語または大阪語等をエセ真似するのが不快でクソでコ〇したろか糞クズであるのは主に映画やドラマの俳優のそれであって、例えば非関西語のお笑い芸人等が関西語をモノマネするのは全く不快でないし多くの場合(ところで「多くの場合」は日本語ではない翻訳語クサすぎ)大変よく似ており大阪語ネイティブとして聞いてて小気味よいものである。

例など枚挙にいとまもちんこも貝割れも無いから自分で思い付いてもらいたいのだが、例えば今0.0112784秒で思い出した例として『大誘拐』という内容だけはそこそこ見れるが出演者のドへたくそ似非ゴミクズ関西語のせいで不快極まりない音声になっている映画がある(という例は他にもいくらでもある)。なぜこんな制作不手際に関係者の誰もおかしいと思わなかったのだろうか。なぜ映画やドラマの方言使用にだけはネイティブチェックが入らないのだろうか。そう思わないだろうか全国の方言者たちよ。映画は視と聴の覚のメディアであって(だから吹き替えで観る奴は何も観ていない)音声がクソだと終わっていることになるのであるが。

愛のために何を捨てる?

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映画やドラマやと言えば、いや他に小説や脚本や漫画や何でもいいが、そうさせるしかないのだから仕方がないのは分かるとはいえ登場人物どもが実によくべらべらべらべら喋るものである。もちろんこんな奴らは地球上の歴史上のどこにも居ない。日本語に限って言えば(日本語しか知らんからな)状況はヒドいどころか最悪で、この記事で指摘してこの記事でこ〇しておいたように、いかなる作品やメディアの登場人物(と書いて思うが、「登場」しない人物などおるのか?)のしゃべることもすべて全部が日本語ではない。こいつらが現実にいたらこんなことになってしまう

よくリアリティと平気でホザくアホが居てリアルと何の関係もないものをウレシがっているアホなのであるが、リアルで本当っぽいというのなら日常と事実に即したものがそうなのであって、多少とも日常現実に近い喋り方をさせてこそリアルだろう。映画や音声作品に関して言うと台詞音声にリアリティがあるのはほぼ常にゼッタイ専門俳優や専門声優であって、「プロの」俳優声優ほどヒッドいクソゴミ日本語を垂れ流し散らしこいてケツかりやがるものである。日常では人間はそんなに喋らんものでありそんなに表情つけて喋らんものでありそんなにシンタックス揃った文章を喋らんものである。字や文章でこれをやる…こと自体はムズくないにしてもやって成功することがムズいのかも知れず誰一人やっていないが、もちろん例外がそこそこあって、例えばの1つとしてアウグスト・シュトラム(August Stramm, 1874–1915)の戯曲(Zeno.orgに上がっとる)。今ふと0.010047秒で思い付いたが映画の『隣人13号』の吉村由美やFMシアター『煙突少女』(2002.01.12)の蒼井優や映画の『プール』(2009)の主役たち(にひきかえ加瀬亮が糞ダイコンである)などが多少ともリアルな=日常な日本語を音声に出来ている。あと、当時の喋り方を知らないのでもう勝手に断定するが小津安二郎映画などほぼ全員極めてリアルに喋っている(そうとしか見えない)。比肩される黒澤の映画の登場人物全員が極めつけに不自然で異常でリアルで嘘くさすぎる「日本語」をべらべらべらべら喋っているのと対照的に。

そう、現実では、そんなアホみたいにしゃべらない、アホみたいじゃなく喋るのであり、喋らないことがアホみたいなのであるという意味で。現実は、頼もしくあれやこれやを語ってくれる人などどこにもそこにも便所にもおらず、現実は、お前は障害でもあるのかとシバきたくなるような朴訥愚鈍の朴念仁だらけなのである。フツーのリアルの日常では、人間は、アホほどしゃべらず喋れず言語に無能であり怠惰であり無精でありつまり邸能である。例えば落ち度や失敗や油断や過誤や失策や不用意など、過失非過失問わず何かしでかした時にその人を一番「傷つけ」その人を《地獄に突き落とす》方法が、全員で気マズくなり言葉を発さなくなり発してもソレに触れなくなるという空気にするという方法である。失敗した者というのはハッキリがっつり怒ってほしいのであり、仮にそう思ってなくても、この者を救う唯一の方法は何しとんねんお前と思いっきりツッコミを入れて小一時間明白明確に責めて小突いて最後に笑い飛ばしたるという方法である。そこまでじゃないにせよそれに1ミリでも近いことを出来る者がいるかと言うとマンガの中以外にはおらず、《やってしまった人》に対しては全人類が日々毎日5000億年間、こわ張った顔をしてソレに触れまいソノ人に触れまい空気を全力で発して朴訥念仁の物言えないボンクラと化して最悪のイジメに加担している。ほら、誰もろくすっぽ喋れてへんやろ。上で書いたとおーーりやろ。

 

そう言えば触れる触るということで思い出したが、バカが高い所好きと言うがそう言う奴が展望台あれば入場券買うのだから全人類がバカなのだが、それにしても確かに幼稚な奴はちょっと高いところがあればすぐ登りたがるもので、自分など日本アルプスに居ても有名峰を素通りして傍からそれを見てたらいい登らず観てるからいいねんというスタイルなものだから余計ようわからんのだが、とにかく名所名跡ですぐ登ってるバカというのが見つかるものだが、同じように名所名跡遺物文物があるとすぐ触りたがるバカというのがあって、これもいとも幼稚な大人コドモである。もっと身近なら、スーパー商店モール等々に行けばこいつらばっかだろ。別に用があるわけでもなく触っても何かが分かるわけでもないのにとにもかくにも商品を一旦は持ち上げてみようとして手でべたべた触って、そんで元に戻すだけ(!)、という池沼たち。汚いんだよボケ。下に書く理由から、不潔な汚染行為である。

こいつら大人の皮を被ったコドモがどんな心の状態なのかというといわば「口唇期」の状態であろう。そこに壺があれば、そこに絵があれば、そこにモノがあれば・ソコに女があれば・とにかく触われそうなナニカがあれば、脊髄反射のナメクジ脳の無思考無意識無自我無常識ですぐのすぐさま手を出すというアホのバカ。触わりたがるバカというヒトモドキ。口唇期で成長が止まったあわれな体の大きな乳幼児。やはり自分からしたらそんな触って何が楽しいねんというもので、見ていて心魅くものはその見ているという段階で止めておくからいいのだということ、映像として画面越しに観ているからこそイイのだということ、実物現物を目の前にしたり手で触れたりしたところでプラスアルファ何になることもなく何の満足が増えることも無いということ、対象とは防弾ガラスケース越しに観て観てするものなのであって現実の生身などを見たがるな触わりたがるなアホボケということ、こういったことが一切理解できず知解できず知りもせず考えたこともない池沼の無脳ども、およそ鑑賞なり観照なり…いや以前にそもそも一定普通のジョーシキということがまったく無くワカラナイという成年幼児ども、その触わる触れるということでとにかく何か得られるものがあると信じt…すらいやいやいずにただのただただ触らないと気が済まないという真正心性稚児乳児の物品汚損毀損者予備軍のカスども、こいつらが、この記事で述べた【とにかく何かは発声しないと気が済まないアホ】であり、この記事で述べた【とにかく何かはしないと気が済まないアホ】であり、この記事で述べた【とにかく何かは一矢報いたいがために果ては不可解行動・不可解動作・不可解仕草・不可解ジェスチャー・不可解クセにしかなっていないものを繰り出してくるほどのバカ】であり、こやつらみなが全員同類同種の同根同物である。

実に、アホは、とにかく喋ろうとし、とにかく触ろうとし、とにかく登ろうとし、とにかく何かをし、とになく何かであろうとしたがる。で、自分のこのアホさに一生気付かない。(と述べたのは物品に関してであってヒトに関してはまったく逆にどんどん触ったらいいことだと考えておりボディタッチを否定しているのではなんらない。)このようにしてお前はトイレの後で手を水で濡らしたがり(洗ってはいない)、きっしょい前髪をバカみたいに触りたがる、それをして一切まったく何にもかんにもなっていないのに。

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そう言えば触れる触わるということで思い出したが、人間の手というのはそない物を触っていいものではない。この記事この記事等々でさんざん述べているように人声を使った伝達がそれしか方法がなかった原始時代から引きずっている間違った・劣った・時代遅れの・エラー多発ミス高頻度の手段であって本当は会話だとか講演講義だとか会議だとか等々いった非効率な伝達手段などなくなっていくべきオワコンなのであるというのと同様に、手でものに触ってなにかをするというのはそれしか加工運搬使用確認等のための手段がなかった原始時代から引きずっている間違った手段なのである。言いたいことと言っていることは分かるはずだ。こんなものどんどんどんどんロボットに置き換わっていったらいいのである。

(人声媒体のことだが、伝達手段として視覚媒体に遥かに劣っており、その取り柄と言っては、話し声なら信頼感や安心感といった原初的感情の喚起(だからつべが有り映像作品が有る)、即物的には法的物証性云々とかいったもの、それと歌謡上の価値が永遠である。こういった最後の砦を残しては人声に存続してもらうべきいかなる価値理由も無いところなのであって、従ってボカロとかその他が完全無価値のクソゴミカスであり、Siriや何やかんやもただただただただひたすら視覚しょう碍者の文脈でしか存在価値が無いものである。ところで言語学が音声を言語の第一義とするものだが、やめてくれ気持ち悪いと思う。物食ってるヨダレ器官から出てきたものを有難がりたくないものである。)

そもそも人間の手とは汚いものである。(もちろん「菌」がどーたらとかいう話はしていないし金輪際しない。アホは(不)衛生や(不)清潔の話になるとバカの1つ脊髄反射ですぐのたちまち「菌」の話に飛びつくが、抵抗力とかアレルギーとか色んな反省や考察や健康談義があって結局「菌」を忌避することのほうがアホの無知のマヌケとしか言えないのだが、しかしこう書くとまたすぐ何かホザきたがるアホが湧くことこれ必定なものだから、この話には関わらない。アホらしすぎる、おまえ同様。)ほぼどんな気候下でも常に油脂を分泌している。そこに、塵埃から塵芥から埃から繊維から汗の塩分から何かとべちゃべちゃべちゃべちゃ付着している。こんなものはほぼ24時間汚い。触われば汚れを付ける呪物である。

そういえば引っ越し業者が客の大事なもの関係に触るときには軍手を脱いで素手で触るようにしていてこれがキレイなのだと思い込んでいてバイトにもそれをさせてくるものなのだが、アホ極まりないことであり、客には迷惑極まりないことである。こいつらは軍手内で汗と油でどろどろになってしかも黒ずんでさえいる自分の汚手手でものに触るのがラバー軍手で触わるよりもキレーで失礼がないと思い込んでいるのである(軍手ラバーは皮脂を分泌しないし色んなものに触って常に汚れが取れていて実はキレイなのだがな)。邸能なのか?そもそもヒトなのか?思考力以前に自分の汚い手を視認する視力も無いのか?しかしアホにはこんなことが到底わからない。キレイも汚いもこいつらは観念としてしか理解できず観念の衛生界・観念上の「清潔」「不潔」界の中に生きているバカだから、現実の物質上のどんな誤解倒錯でもこいつらは平気で犯せるのである。もちろん業者にだけ言ってい

次回の記事に続く

 

メンテナンス訪記 (7) ~HP Spectre 13-v107TU~

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前回の記事から

とにかくチーム8を鑑賞するブログです。(←チームエイトと読む)。

 

それでは13-v107TUのバッテリー交換に臨む。

もちろんゴム手袋着用ほこり等の汚れ除去済み清掃済みのデスク上での作業である。

分解の詳細は前回記事リンク先ページに見る通り。まず上下のゴム足に隠しネジが2本と3本あるのを取る。

それを取ると裏蓋コジ開け作業なのだが、これがとんでもなく大変だ。この手の機種の分解記事・分解動画、裏蓋をいともたやすく開けてくれるか開ける苦労をスルーしてくれているが(そうでもないページもあるがそれは前回記事にリンク貼ってる)、やめてくれ、ここが一番の苦労ポイントだ、ここのしんどさと切り抜け方をこそ滔々と説かんかい

まずネジを取ったところでフタが浮いてくれることなどもちろん期待できず、フタと本体に寸分のスキもない。それでも何とかここに平たい何かを突っ込んでコジ開けるのだが、傷いかさないようにとプラスチックの平たいヘラを用意したのが全く無駄になったほど寸分のスキもない。だから(極細の)マイナスドライバーを入れて徐々に剥がしていったのだが、これをやると傷もつくしフタの内部が折れる。

それでも剥がれが一向に進まないから、手の爪でぐいぐいやるといっぺんに剥がれた。最初からこうしたほうがいいだろう。このテの機種の裏蓋は(ゴム手袋着用の)手指+手爪だけで開けたほうがいいようである。傷等が付かないし、自分の手なのだから力点をコントロールしやすい。このテの機種のスキなき隙間には手の爪を突っ込もう。

開けると

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こうである。写ってるドライバーセットがこの記事で述べた約1000円のものだが、ネジの十字穴をなめるだけで全然回せない。クズ商品である。買わないように。結局、右下に写ってる細いドライバー、108均で買ったこれが十字穴にしっかり噛むからこれしか使い物にならなかった。13-v107TUのネジ穴は手強いよ!

また、写っているように、外したネジがなくならないように+どこから外したか分かるように両面テープに付けてある(筐体左上→右→左下→右と外した順に両面テープの上→下と貼る、などして把握する。上上下下左右左右BA、弱P弱P→弱K強P!!)。

写っているネジは裏蓋のネジだが、バッテリーに付いているネジもこれから外していく。これが10本で、極小のもあって、神経使う作業となる。導線に隠れているのもいるから導線をどかせる必要もある。

分かりやすくはこれを見よう:

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右に白い導線、左に赤い導線が見えている。

バッテリーとマザーボードの接続部分もよく見えている。これが問題で、バッテリーを外したところ:

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がこの通りで、左のマスキングテープ貼ってるのが先住バッテリーで右のが購入新バッテリー(前回記事参照)だが、新のほう、MB接続部がこの通りの形状であり、これを繋いでも認識されなかった。交換バッテリーを買うときにはMB接続部も注意する必要がある。

 

後日、間違い品を交換して再度換装作業。

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画像の上のバッテリーが正しい商品、下が交換前先住バッテリー。上のを下のと交換すると、今度は全く問題なくバッテリー認識された。ただ、計10本ほどのネジの穴が交換後バッテリーでは数ミリずれていて、大分無理をしないとネジが入らない箇所すらあった。

次回の記事に続く

 

心の薬

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