地上最強のブログ

しばいてくぞ

誰も考えんこと (1)

ハイドウモコンチワ
電車でスマホ触ってる奴 全員アホ

 

ここでも書いたが真面目向きのメディアが上等高質で低俗向けのが内容が劣っていてデタラメということなど別にないもので、例えば標準弁または標準方言等の者が関西語または大阪語等をエセ真似するのが不快でクソでコ〇したろか糞クズであるのは主に映画やドラマの俳優のそれであって、例えば非関西語のお笑い芸人等が関西語をモノマネするのは全く不快でないし多くの場合(ところで「多くの場合」は日本語ではない翻訳語クサすぎ)大変よく似ており大阪語ネイティブとして聞いてて小気味よいものである。

例など枚挙にいとまもちんこも貝割れも無いから自分で思い付いてもらいたいのだが、例えば今0.0112784秒で思い出した例として『大誘拐』という内容だけはそこそこ見れるが出演者のドへたくそ似非ゴミクズ関西語のせいで不快極まりない音声になっている映画がある(という例は他にもいくらでもある)。なぜこんな制作不手際に関係者の誰もおかしいと思わなかったのだろうか。なぜ映画やドラマの方言使用にだけはネイティブチェックが入らないのだろうか。そう思わないだろうか全国の方言者たちよ。映画は視と聴の覚のメディアであって(だから吹き替えで観る奴は何も観ていない)音声がクソだと終わっていることになるのであるが。

愛のために何を捨てる?

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映画やドラマやと言えば、いや他に小説や脚本や漫画や何でもいいが、そうさせるしかないのだから仕方がないのは分かるとはいえ登場人物どもが実によくべらべらべらべら喋るものである。もちろんこんな奴らは地球上の歴史上のどこにも居ない。日本語に限って言えば(日本語しか知らんからな)状況はヒドいどころか最悪で、この記事で指摘してこの記事でこ〇しておいたように、いかなる作品やメディアの登場人物(と書いて思うが、「登場」しない人物などおるのか?)のしゃべることもすべて全部が日本語ではない。こいつらが現実にいたらこんなことになってしまう

よくリアリティと平気でホザくアホが居てリアルと何の関係もないものをウレシがっているアホなのであるが、リアルで本当っぽいというのなら日常と事実に即したものがそうなのであって、多少とも日常現実に近い喋り方をさせてこそリアルだろう。映画や音声作品に関して言うと台詞音声にリアリティがあるのはほぼ常にゼッタイ専門俳優や専門声優であって、「プロの」俳優声優ほどヒッドいクソゴミ日本語を垂れ流し散らしこいてケツかりやがるものである。日常では人間はそんなに喋らんものでありそんなに表情つけて喋らんものでありそんなにシンタックス揃った文章を喋らんものである。字や文章でこれをやる…こと自体はムズくないにしてもやって成功することがムズいのかも知れず誰一人やっていないが、もちろん例外がそこそこあって、例えばの1つとしてアウグスト・シュトラム(August Stramm, 1874–1915)の戯曲(Zeno.orgに上がっとる)。今ふと0.010047秒で思い付いたが映画の『隣人13号』の吉村由美やFMシアター『煙突少女』(2002.01.12)の蒼井優や映画の『プール』(2009)の主役たち(にひきかえ加瀬亮が糞ダイコンである)などが多少ともリアルな=日常な日本語を音声に出来ている。あと、当時の喋り方を知らないのでもう勝手に断定するが小津安二郎映画などほぼ全員極めてリアルに喋っている(そうとしか見えない)。比肩される黒澤の映画の登場人物全員が極めつけに不自然で異常でリアルで嘘くさすぎる「日本語」をべらべらべらべら喋っているのと対照的に。

そう、現実では、そんなアホみたいにしゃべらない、アホみたいじゃなく喋るのであり、喋らないことがアホみたいなのであるという意味で。現実は、頼もしくあれやこれやを語ってくれる人などどこにもそこにも便所にもおらず、現実は、お前は障害でもあるのかとシバきたくなるような朴訥愚鈍の朴念仁だらけなのである。フツーのリアルの日常では、人間は、アホほどしゃべらず喋れず言語に無能であり怠惰であり無精でありつまり邸能である。例えば落ち度や失敗や油断や過誤や失策や不用意など、過失非過失問わず何かしでかした時にその人を一番「傷つけ」その人を《地獄に突き落とす》方法が、全員で気マズくなり言葉を発さなくなり発してもソレに触れなくなるという空気にするという方法である。失敗した者というのはハッキリがっつり怒ってほしいのであり、仮にそう思ってなくても、この者を救う唯一の方法は何しとんねんお前と思いっきりツッコミを入れて小一時間明白明確に責めて小突いて最後に笑い飛ばしたるという方法である。そこまでじゃないにせよそれに1ミリでも近いことを出来る者がいるかと言うとマンガの中以外にはおらず、《やってしまった人》に対しては全人類が日々毎日5000億年間、こわ張った顔をしてソレに触れまいソノ人に触れまい空気を全力で発して朴訥念仁の物言えないボンクラと化して最悪のイジメに加担している。ほら、誰もろくすっぽ喋れてへんやろ。上で書いたとおーーりやろ。

 

そう言えば触れる触るということで思い出したが、バカが高い所好きと言うがそう言う奴が展望台あれば入場券買うのだから全人類がバカなのだが、それにしても確かに幼稚な奴はちょっと高いところがあればすぐ登りたがるもので、自分など日本アルプスに居ても有名峰を素通りして傍からそれを見てたらいい登らず観てるからいいねんというスタイルなものだから余計ようわからんのだが、とにかく名所名跡ですぐ登ってるバカというのが見つかるものだが、同じように名所名跡遺物文物があるとすぐ触りたがるバカというのがあって、これもいとも幼稚な大人コドモである。もっと身近なら、スーパー商店モール等々に行けばこいつらばっかだろ。別に用があるわけでもなく触っても何かが分かるわけでもないのにとにもかくにも商品を一旦は持ち上げてみようとして手でべたべた触って、そんで元に戻すだけ(!)、という池沼たち。汚いんだよボケ。下に書く理由から、不潔な汚染行為である。

こいつら大人の皮を被ったコドモがどんな心の状態なのかというといわば「口唇期」の状態であろう。そこに壺があれば、そこに絵があれば、そこにモノがあれば・ソコに女があれば・とにかく触われそうなナニカがあれば、脊髄反射のナメクジ脳の無思考無意識無自我無常識ですぐのすぐさま手を出すというアホのバカ。触わりたがるバカというヒトモドキ。口唇期で成長が止まったあわれな体の大きな乳幼児。やはり自分からしたらそんな触って何が楽しいねんというもので、見ていて心魅くものはその見ているという段階で止めておくからいいのだということ、映像として画面越しに観ているからこそイイのだということ、実物現物を目の前にしたり手で触れたりしたところでプラスアルファ何になることもなく何の満足が増えることも無いということ、対象とは防弾ガラスケース越しに観て観てするものなのであって現実の生身などを見たがるな触わりたがるなアホボケということ、こういったことが一切理解できず知解できず知りもせず考えたこともない池沼の無脳ども、およそ鑑賞なり観照なり…いや以前にそもそも一定普通のジョーシキということがまったく無くワカラナイという成年幼児ども、その触わる触れるということでとにかく何か得られるものがあると信じt…すらいやいやいずにただのただただ触らないと気が済まないという真正心性稚児乳児の物品汚損毀損者予備軍のカスども、こいつらが、この記事で述べた【とにかく何かは発声しないと気が済まないアホ】であり、この記事で述べた【とにかく何かはしないと気が済まないアホ】であり、この記事で述べた【とにかく何かは一矢報いたいがために果ては不可解行動・不可解動作・不可解仕草・不可解ジェスチャー・不可解クセにしかなっていないものを繰り出してくるほどのバカ】であり、こやつらみなが全員同類同種の同根同物である。

実に、アホは、とにかく喋ろうとし、とにかく触ろうとし、とにかく登ろうとし、とにかく何かをし、とになく何かであろうとしたがる。で、自分のこのアホさに一生気付かない。(と述べたのは物品に関してであってヒトに関してはまったく逆にどんどん触ったらいいことだと考えておりボディタッチを否定しているのではなんらない。)このようにしてお前はトイレの後で手を水で濡らしたがり(洗ってはいない)、きっしょい前髪をバカみたいに触りたがる、それをして一切まったく何にもかんにもなっていないのに。

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そう言えば触れる触わるということで思い出したが、人間の手というのはそない物を触っていいものではない。この記事この記事等々でさんざん述べているように人声を使った伝達がそれしか方法がなかった原始時代から引きずっている間違った・劣った・時代遅れの・エラー多発ミス高頻度の手段であって本当は会話だとか講演講義だとか会議だとか等々いった非効率な伝達手段などなくなっていくべきオワコンなのであるというのと同様に、手でものに触ってなにかをするというのはそれしか加工運搬使用確認等のための手段がなかった原始時代から引きずっている間違った手段なのである。言いたいことと言っていることは分かるはずだ。こんなものどんどんどんどんロボットに置き換わっていったらいいのである。

(人声媒体のことだが、伝達手段として視覚媒体に遥かに劣っており、その取り柄と言っては、話し声なら信頼感や安心感といった原初的感情の喚起(だからつべが有り映像作品が有る)、即物的には法的物証性云々とかいったもの、それと歌謡上の価値が永遠である。こういった最後の砦を残しては人声に存続してもらうべきいかなる価値理由も無いところなのであって、従ってボカロとかその他が完全無価値のクソゴミカスであり、Siriや何やかんやもただただただただひたすら視覚しょう碍者の文脈でしか存在価値が無いものである。ところで言語学が音声を言語の第一義とするものだが、やめてくれ気持ち悪いと思う。物食ってるヨダレ器官から出てきたものを有難がりたくないものである。)

そもそも人間の手とは汚いものである。(もちろん「菌」がどーたらとかいう話はしていないし金輪際しない。アホは(不)衛生や(不)清潔の話になるとバカの1つ脊髄反射ですぐのたちまち「菌」の話に飛びつくが、抵抗力とかアレルギーとか色んな反省や考察や健康談義があって結局「菌」を忌避することのほうがアホの無知のマヌケとしか言えないのだが、しかしこう書くとまたすぐ何かホザきたがるアホが湧くことこれ必定なものだから、この話には関わらない。アホらしすぎる、おまえ同様。)ほぼどんな気候下でも常に油脂を分泌している。そこに、塵埃から塵芥から埃から繊維から汗の塩分から何かとべちゃべちゃべちゃべちゃ付着している。こんなものはほぼ24時間汚い。触われば汚れを付ける呪物である。

そういえば引っ越し業者が客の大事なもの関係に触るときには軍手を脱いで素手で触るようにしていてこれがキレイなのだと思い込んでいてバイトにもそれをさせてくるものなのだが、アホ極まりないことであり、客には迷惑極まりないことである。こいつらは軍手内で汗と油でどろどろになってしかも黒ずんでさえいる自分の汚手手でものに触るのがラバー軍手で触わるよりもキレーで失礼がないと思い込んでいるのである(軍手ラバーは皮脂を分泌しないし色んなものに触って常に汚れが取れていて実はキレイなのだがな)。邸能なのか?そもそもヒトなのか?思考力以前に自分の汚い手を視認する視力も無いのか?しかしアホにはこんなことが到底わからない。キレイも汚いもこいつらは観念としてしか理解できず観念の衛生界・観念上の「清潔」「不潔」界の中に生きているバカだから、現実の物質上のどんな誤解倒錯でもこいつらは平気で犯せるのである。もちろん業者にだけ言ってい

次回の記事に続く