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しばいてくぞ

メンテナンス訪記 (6) ~HP Spectre 13-v107TU~

一杯の水(瀬戸7)

一杯の水(瀬戸7)

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前回の記事から

チーム8の究極兵器・横山結衣を鑑賞するブログです。

 

今回はノートPCのバッテリー交換。HP Spectre 13-v100シリーズの13-v107TUAmazonで現在10万円台13万円台、人生で触わった中で最高額。仕様を見ての通り底上げする部分など一切ないマジ高級品である。先方が言っているのも実際バッテリー交換のみで、それ以外に感じうる不調のありようがないだろう。ただそのバッテリーが酷いもので、使用3年そこらで異常に減りやすくなっていて、充電後1~2時間持たない程になっている。HPにLINEで問い合わせると、内蔵型バッテリーだから自分で交換はムリで送付して修理と言われ、何万円かは掛かることになるとのことである。

 

ノートPCのバッテリー交換だが、この記事この記事で見たような旧来のどでかいノート型なら、画像を見ての通りバッテリーが簡単に取り外しできるのだから、これの新品を入手して古いの取って嵌め込むばそれで交換完了。要するにただの電池交換だ。

一方薄型ノートの簡単に取り外しできない内蔵型バッテリー、このページこのページリチウムポリマー電池と呼んでいるバッテリー、このページリチウムイオンポリマーバッテリーと呼んでいるバッテリーだが、大方のページでは自力交換は諦めるというのが一般的に言われることである。しかし今貼ったリンク先記事など自力で替えている。この記事は上位にはヒットしないが、「HP Spectre 13」「分解」等でググればこれこれこれなどが上位に出てくる。

何度も言うがメーカー頼みや業者頼みはボッタくられるだけの行為なので機械類は極力自分で解決したい。だから分解解説があればもう十分で、自分で交換できるではないかと思えてくればよいのである。いや「分解」というものではなく、バッテリーなど、ネジとってフタ開ければすぐ出てくるのであってそれを付け替えるだけである。開け方が(上記リンク先のような)色んな記事に見れるわけだが、要するにネジ取ってフタ剥がすだけのことだ。業者もメーカーも結局まったく同じことをやる。(そして製造段階ですらデリケートな作業とは言いかねる。基盤の組み立てラインで素手だったりマスクしてなかったりムンズ掴みだったり酷いものだ、どこの国問わず。工場見学動画が山ほど上がっているのだから見てみればよい。)

これは時計の電池交換とて同じことだ。自分のPCなりスマホなり腕時計なりの内部や回路や基盤が露出するのに感情的でヒステリックな恐怖症を持つ気持ちは分からんことはないのだが、結局みんな、プロでも工場でも修理屋でもそうするのであり、依頼したぶん数万円支払いが発生するのである。《自分でやって失敗…》とすぐに言いたくなるだろうが、チュートリアルの記事や動画が溢れ返っているネット情報の時代である。何事も入念に予習とイメトレして臨めるではないか。今回の件でも、同型のPCのバッテリー交換記事としてこんなんがあり、似た商品のバッテリー交換記事としてこんなんがあるし、まったく同型のPCのバッテリー交換動画が有るが、こういった記事を見つかる限り見ておけば、それはもう十分予習になる。かつてGショックGG-1000RG-1AJF)の電池交換をしたことがあるが、それが簡単に失敗なく出来たのも、ひとえにネット情報のおかげだった。

また、買う必要がある物品があるが、ゴム手袋にせよドライバーにせよその他その他110均等で安価で揃えれる。今回買う必要があるなのは他に新品バッテリー自体だが、売ってるサイトが何個も見つかる。眺めていれば、13-v107TUに適合するのが「HSTNN-IB7J」「4950mAh」「7.7V」なのだろうなぐらいのことが分かってくる。そして商品名が「SO04XL」。最安として6000円台で売ってるページが検索ヒットするが、こういう所は怪しいようなので、Amazonから8960円で買う

次回の記事に続く

 

恋愛禁止条例

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ニーチェ対人間 (2)

のような存在

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前回の記事から

それがどんな分析かと言うと今までのニーチェ思想紹介記事でさんざん見てきているのだから過去記事見てくれ・それ以外のことでもとにかく過去記事を見てくれ更新とヒットページをチラ見するだけのクソ訪問者は来ないでくれ・そうでなくてもヒミツの日記ブログ♡なのだから誰も来ないでくれというものなのだが、そんなことはどうでもいいとしてちんちんが痒いのだが、それはともかく、

てめえを強いと感じるか弱いと感じるか・自分にどの程度チカラを知覚するかによって認知認識が決定されるのであって逆ではないという観点が重要である。

Wenn wir eine Handlung im Gefühle der Macht thun, so nennen wir sie moralisch und empfinden Freiheit des Willens. Handlungen im Gefühle der Ohnmacht gelten als unzurechnungsfähig. Also die begleitende Stimmung entscheidet, ob etwas in die moralische Sphäre gehört „gut oder böse“ ist. Darum dieses unaufhörliche Bemühen um Mittel, diesen Zustand herbeizuführen: es ist der menschliche!

„In Macht Böses thun ist mehr werth als in Ohnmacht Gutes thun“ d.h. das Gefühl der Macht wird höher geschätzt als irgend ein Nutzen und Ruf.

(Nietzsche, 1880,4[299])

 

(何かをする時に自分の中からのチカラを知覚したならば、それを良いとか悪いとか言うようになるのであり、善意や悪意ということが言えるようになるのである(一方、自分で何とかしたぞという感覚が得られないと、何という行為なのかが皆目わからんことになってしまう)。そういう感覚があるかどうかがまずあってそれから善悪価値判断が後づけの後手後手で発生するのである。だから誰もが行為に自力を感じたいのであり、行為を手中にしていたいのであり、行為を意識していたいのである、イイとかワルイとか言いたいから。この生物はこういったチカラ感覚→善悪小理屈という以外の順序でやっていくことが出来ない。そういう種の事情。そしてそうであるがゆえに、イシキある悪行のほうがイシキない善行よりもイイということにもなってくる。【ありありとチカラ感じながら為した】というほうが上等なのである。《結果》として何が出てくるかはどうでもいいのである。)

ニーチェの断片群には犯罪(者)論が多数あってぜんぜん触れていないのだがとにかくこれはそういうものの1つである。刑法的なものの上では何事もOhnmachtのほうが有利だが、価値判断上は意識無い者ほど常に下等である。そしてそれは権能(Macht)感(Gefühl)によるのだと言う。チカラ感覚がスーパーヴィーン(begleiten)するとそれに従って良い悪いの意識が生じるのであってこの逆ではない。ようするに物的外的力関係がやはり最初にあるのである。

さてこういうのが行き着く所がとにかく意識していよということである。まったくその通りと思うし現在では意識など尊重されずとにかく結果さえよければ(irgend ein Nutzen und Ruf)いいという時代だが、しかし考えればそれもそうでもなくて、人は人にやたらと心を求めるものである。特にこの記事この記事この記事などで書いたように表現者というものに対してそうであり、ここでは公衆が無類の忘恩ぶりを発揮する。表現者がもたらしたモノを享受するだけのブンザイの公衆ごときが、その表現者の行状は志操は言動は日常は〇〇意識は…果ては貞操はどうなってるかとほじくり回し、表現者をジャーナリズムで殺す。作品や表現物という結果をもたらしていただいてなんぼの人々に心心心また心を求めて請求して強請して、殺す。こんなアホたちを見ていたら、意識キチガイということも言いたくなる。

 

さて引用文章とぜんぜん違う話になったが、そんなことは別に全然よくて、とっとと次の引用に移るのだが、意識を論じる文章たちの中で多少実践的なものもあって、例えば認識とはどのようなものであってどのようなものでないのかを記した次の文章がある:

Jenes heiße brennende Gefühl der Verzückten „dies ist die Wahrheit“ dies mit Händen Greifen und mit Augen Sehen bei denen, über welche die Phantasie Herr geworden ist, das Tasten an der neuen anderen Welt — ist eine Krankheit des Intellekts, kein Weg der Erkenntniß.

(Nietzsche, 1880,4[152])

 

(よくある絵で、探し求めていたり考えあぐねていたりした解答についに出会ったと思って歓呼してソレを掻き抱いて、周りのイッてる奴らと一緒なって恍惚と次の扉を開く … こういうのは人間のやる悪い既習なのであって、こういうところにまともな判断などありようがない。)

これが答えだと思えるものは答えではないのである。見つけた!とウカレた瞬間もう見つけることが出来なくなっているのである。発見の歴史というのは感動の場面たちなようだがそこに知性があったことは無い。それはドラマでありお話であり《場面》でありシーンなのであって、何かが認識されている現場ではない。こういう突き放した見方を聞いておきたいものである。何かが理解され何かが判る時というのは、映画になるような、教科書に書きたいような、記念(碑)的な、非日常的な、ハレの日的な、百合烏賊なもの屁売れんかなものではなくて、総じて《特別》のトの字でも有るところには知性の活動は無いのである無かったのである。だから、わずかでも非日常的(Phantasie)だったら、何も考えていず理解してはいない。1ナノマイクロでも特別(krank)だったら、ほんのちょっとでもウカレてた(brennend)ら、かすかでもウレシかった(verzückt)ら、対象の真相を探る視力が低下していて、思考力が曇っていて、もう対象を見てはいない。ほんのちょっとでも熱くなってるオツムには知性が無いのである。そうではなくて、これは本当に答えなのだろうか・これに自分はどう対峙しているのだろうか・自分の求めていたものなのだろうか・自分の求め方はそもそも合っているのだろうか・これはどこに位置付く仮説なのだろうか等と疑ってかかり《まあちがうやろ》《まああかんねやろ》と真剣に付き合ってないときに得てして相当な卓見に達しているはずである。

さて落穂拾いになってきていることだしどんどん拾って行こ。

Falsche Schlüsse: „ich schätze die Menschen gering, folglich schätzen sie mich hoch“ „ich fürchte die Menschen nicht, folglich fürchten sie mich“ — aber die umgekehrten Schlüsse sind ebenso falsch. Das Schließen ist hier eben das Falsche: es ist als ob ein Kind schließt: ich mache die Augen zu, folglich sehen mich die Anderen nicht.

(Nietzsche, 1880,4[233])

 

(自分が他人を高く買ってないから他人のほうは自分を高く買っているだろうとか、自分のほうは他人が怖くないから他人のほうはこっちが怖いだろうとかと思うものだ〔思わんわボケ。意味不明な状況を書くなバカ〕が、そんなはずがない。と言うか、だったら、他人が自分を見下したら自分は他人を尊敬するんか?自分を怖がらない他人は怖いことになるんか?と言うか、怖がられるなら必ず自分は怖がらないんか?尊敬されるんなら見下すんか?そんなはずがないだろが。こんなことを思う奴はただただ間違っている。こんなことは、自分が目をつぶったら他の人も自分の姿が見えなくなるんだと思うのと同じようなことだぞ。)

この記事で見た断片を想わせる文章だが、最後に書いているのは頭隠して尻隠さない話である。なお勘違いしてはならないが頭隠して尻隠さない動物とはヒトのことである

(ちなみに、誰かが言ってる中傷や悪口を1億何千万煎じでバカみたいに繰り返すアホが必ず湧くものだが、いまダチョウと言いたくなるアホは、例えば言語学の本を書くときにバカの1つ覚えでエスキモー言語に「雪」語彙はそんなに無いよといちいちいちいち書き出すボケ欧米人著作家どものアホぶりを思い出させるものである。あいつらボケどもはこの中傷揶揄をなぜ慣習にしているのだろうか。と言うかあいつらボケどもは本を書くときに必ずキモいテンプレに盲従するステレオタイプが大好きなアホが世界中に居るものである。)

また、何よりも、自分に分かってる・自分には明白な・自分限定の状態から他人の内面や状態を勝手に1人決めするなということを言っている。意味不明なこと書いてもいるが、聞いておくべき主張ではある。上掲の認識熱狂の文章と似て、1人ワールド内で目がくらんでいる自惚れ者に水を差す文言である(この記事この記事で見た断片も思い出す)。それだけ考えたらただの処世訓なのだが、いやいや、この記事で見た断片に於けるような人間パースペクティブ論に基づいたものである。人間は自分を投映しておいてそれを忘れるのである

ホライズン

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ニーチェ対人間 (1)

 

前回の記事から

のであるという議論と思わせるもので、この記事でみたトンデモ科学的着想と見てもいいし、この記事で見たような夢のある話・希望に満ちた現実認識と見てもいい。

神経各部が記憶するのである。そんなもの、大脳に座しているらしいモノからはどうにもならないところであり、ますます意識の権能が狭まり、自分が自分に対してできることが無くなってくる。

していると思い込んでいるだけであって出来ていることなどほとんど無い自我や意識から権能を剥だつする上で、この生物が意識の自前でこしらえたものと思っている御自慢の高等思考からも権威を取り去ってしまう。以下、1880年成立断片群に認知関係の発言を拾いに行ってみよう。

Je nachdem das Gefühl der Schwäche (Furcht) oder das der Macht überwiegen, entstehen pessimistische oder optimistische Systeme.

(Nietzsche, 1880,4[194])

 

(自分に弱さを感じてビビりがちでいたら、いわゆるペシミズムで見るようになって行く。自分に強さを感じて勝ってる感じがしていたら、いわゆるオプティミズムで見るようになって行く。それだけのことだ。この順の逆ではない。)

つまり、この世界の相貌が良い悪いから見てどのようであるのかを理論的に自分の理論として自力自律で考えているつもりでも、実はそんな高等なことをしているのではなくて、自分の体組成なり社会的立場なりに劣等感を持っているか優越感を持っているか、てめえにチカラが有るかないかという事情によって考えているのであり考えのほうを左右されているのである。自分はこう思いますとお前は言う。いや、思わされてんだよバーカ。

そんな物的境遇や外的事情などで思考や理論のほうが左右されてしまう…どころか決定されてしまうのである。てめえのオツムなどない、てめえのカラダとしょっぼい事情に支配され蹂躙されているのである。何という制限のかかった志操不堅固な(beschränkt)奴らなんだろう。

しかしこの種はこんなものなのである。文句言うてもしゃあないところがある。そのことを誰よりもよくよく認め知り尽くしていた人である。晩年(1888年春~夏)に

Die Necessität der falschen Werthe.

Man kann ein Urtheil widerlegen, indem man seine Bedingtheit nachweist: damit ist die Nothwendigkeit, es zu haben, nicht abgeschafft. Die falschen Werthe sind nicht durch Gründe auszurotten: so wenig wie eine krumme Optik im Auge eines Kranken. Man muß ihre Nothwendigkeit, dazusein, begreifen: sie sind eine Folge von Ursachen, die mit Gründen nichts zu thun haben

(Nietzsche, 1888,16[83])

 

(間違った判断が有るのではなくて判断とはそもそも間違うものなのであって、それが間違っていることをどれだけ指摘できてもそう間違うという事実現実のほうはどうすることも断じてできない。それはそうでないという説明、すなわち論理というものが通用することなど、実はない。視覚上なにがどのように見えていてそれが物理的にどのように間違っていても、その見えを変更することは出来ないし、その間違いを言い立てても何にもならない。最終的には、以上を納得するしかない。人間は論理や正しさの動物ではないのであり)

と述べている人である。すなわち認知は構造上のものとして間違っているのであり歪んでいるのでありヒズんでいるのでありどうしようもないのであり、システム2で判っていること(理や論や正や当)とシステム1の処理行動ふるまいは永遠に別物なのである。そう分かっている人だから、さすがに、

Ein Überdruß am Menschlichen, als ob es immer die alte Komödie sei, ist möglich, für ein erkennendes Wesen ist es eine furchtbare Beschränkung, immer als Mensch erkennen zu müssen, es kann einen intellektuellen Ekel vor dem Menschen geben.

(Nietzsche, 1880,4[150])

 

(ひたすらおんなじことをバカみたいに繰り返す人間生物にええ加減ウンザリしてくることもあるもので、こいつらに見える以上のことを多少とも見たい者からしたら自分がヒト風情にすぎないことも残念極まりないことなのである。まあ知っとけよ、多少ともコマシな頭だと、自分もそうであるところのヒトっちゅうもんをそのアホさに呆れる余りそろそろぶっ〇〇したくもなるものなのである。)

とも述べてしまうこともある。このように、どこまで行っても何を見ても知ってもヒトの認知とそれが見せる限られたモノにしか巡り会えないという人生の構造にさすがに嫌気がさすこともある人ではあるのだが、それでもそうは言っても、この種と付き合いこの種を追究することを止めれるものではなかった。《人間トハ所詮…》的なことをホザいてるカスなのならそれで終わるのだが、到底そんな人ではないこの人は、どこに居ても何を考えても、四六時中この生き物について理論的に把握できてしまうのだった。こんな風に人間の構造や限界をよく分かっている人なのだからこの生物の上や後や他など平気で想定してしまえれるところではあるのだが、しかしそんな安易には走らずに終生この生物を冷静に分析していた。

次回の記事に続く

 

歌おうよ、僕たちの校歌(セレクション8)

歌おうよ、僕たちの校歌(セレクション8)

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