Es giebt für uns nicht Ursache und Wirkung, sondern nur Folgen („Auslösungen“) NB.
(Nietzsche, 1881,11[81])
(何かがあったから何かがあるなどということなど、無い。何かがあって何かがある、だけのことだ。わかったか。
ニーチェ)
れたものに過ぎないのだろう。歴史は繰り返すとか変わってゆくとかいうのが、統計的事実をただダベっているだけなのだろう。
- 浮けば沈み、驕れる者猛き者も…:いや、事象たちが平均に回帰しようとしているだけだよ。
- 栄と枯と盛と衰が交代しすべてが虚しく…:いや、歴史記録の膨大なデータに統計的傾向が表れているだけだよ。
- 大国に数々の小国が従属し権力が集中し不平等不均衡が…:いや、「歴史」事象は完全にランダムであり、そして真のランダムは偏りを示すものなんだよ。
- なぜこのようなことが起こったのか、そのメカニズムと動態を分析し…:そうやってお前は、歴史にも、お前がこしらえ上げた原因と結果をお前が見たいように見ているだけ、お前の図式をお前の中で作っているだけなんだよ。
こうやって、過去の資料という単なるデータの集積を一定の傾向と必然性へと成型するアポフェニアが有るばかりで、このアポフェニアが見る無想が、「歴史」なのである。つまり、
「歴史」が「ある」という感覚は、認知欠陥が招く錯覚であり、「歴史」とは、そういう名前の錯覚である
ということになる。あるのは、歴史記録という名の統計資料に表われる数学的傾向と偏向、それのみ。
ちなみにここで言っているパフォーマンスとは別に特別特殊な場面状況に限ったことに限らず日常の些事瑣事万事に渡ってのことでもあるしそうでなければならない。自分で左右したつもりでない事象はランダムに生起している。イヤなことが重なっているように思えるのも、泡食ってる時にかぎって用事が立て込むのも、音沙汰なかった数人からメールの返信が同日にいっぺんに来るのも、そういう霊のいたずらや「巡り合わせ」や命運や等によるものではない。そうやって生起が偏っていることこそが要するに真のランダムなのである。幸不幸事が人生時間に万遍なく散らばることこそ滅多にないのである。
ところで、本
- AKB48
- 発売日: 2013/12/11
- メディア: MP3 ダウンロード
人内在因によるものと漠然と思われている成否がそうでもないという知見は他のいろんな事象を理解させる。例えば人気や好感度やモテなど、人間動物園の収監獣たちを捕らえて離さぬ関心事だが、そういったものの素や核や因子が個人に内在していることなど普通ない。すでに好かれている者もそうなりたがっている者も事象の因果把握は出来ないから、自分のことに関して説明する段になると、旧時代人間学が「本能」(死語)とかいう意味不明な語を振り回していたように、「実力」とかいう中身ゼロの語でお茶を濁してしまうのであるが、とはいえなにぶんにも人間はなにか喋ってないと気が済まない動物なので、意味不明でも中身ゼロでもとにかく喋ってしまうのである。
まず、こういったものの多くは、幸不幸事の統計的偏位であろう。それは、1個人内の人生の時間に渡っての偏りでもあるし、個人間の偏りでもある。あの人があんなんで自分だけこんなんで、と思ってるのだろうが、そんなんものは偏よるのである!運命や神の采配じゃなくてな、幸不幸のランダムな散らばりやねん!それが各人の「差」である。統計的傾向。
他にも、最初の一歩さえ踏み出せばあとは正のフィードバ